17 王子の決意
『気をつけてください! 王子!』
王子は、浴室の分厚い扉にもたれていた。
不用意にあの娘に近寄るべきではなかった。自分が慈しむものは誰かに殺される運命にある。口から血を流して硬直した馬を抱きしめて慟哭した日の事を昨日の事のように生々しく思い出していた。
あの日から、カルゴとの対決を避けてきた。
(オレは臆病者なんだよ。そうしないと生き延びることが出来なかった。情けないぐらい無力な腰抜け王子なんだよ……)
ディディへの想いを封じ込めながらも王子は鮮やかに心に描いていく。
初めてディディの姿を目にしたのは半年前。王子は知恵の館のすぐ隣にある王の執務室の肘掛け椅子に座っていたのだ。
アスベール特有の格子細工の飾り窓だった。外からの視線は防ぐが、こちらからは外の景色がしっかりと見える。
午後。政務室前の噴水の前で唐突に揉め事が起こった。囃し立てる声が聞えてきた。
高官の息子のババス達が一人の小柄な少年を囲んでいる。
衣服を見れば、痩せた少年が新入りの宦官だと分かる。
彼は、股間を見せろとババスに迫られて仕方なく脱いだ。むこい事をするものだと王子が眉をしかめていると、ピーンと鋭い声が響いた。
『何をなさっているのですか。やめてくださいませ!』
誰かが遠くから叫びながら一直線に駆けつけてきた。
書記になって間もないデイディは、ババス達にからかわれている宦官見習いの少年を庇うように立ちはだかると、毅然とした態度で訴えた。
『ババス様、おやめ下さいませ。この子が泣いているではありませんか』
『なーんだよ。新入りのくせに生意気だよな。つーか、おまえも玉なしなんだよな』
ヘラヘ笑いながら、ババスがディディを突き飛ばした。しかし、ディディは踏ん張りながら言い返したのだ。
『いいえ、僕はどこもいじってませんよ』
『おいおい、おまえ、書記長に贔屓されているからって図に乗るなよ。どうせ、色仕掛けで書記長に迫ったんだろう? 書記長は独身だもんな。ははーん、そういうことか。そういう趣味があったのか』
『ババス様、書記長様を侮辱しないで下さいませ』
『つーか、おまえ、何で、いつもこっちを睨んでいるんだよぉ? ぐふふ、分かったぞ、オレに気があるんだな。そういうことなのか。そうなんだよ。オレって男にモテるんだよな。それならそうと素直になれよ』
ニヤッとしながらディディに顔を寄せている。ディディが呆れ果てたように顔を逸らすと、よりいっそう顔を寄せて華奢な肩を抱こうとしたのでディディは手を振り払う。
その時、書記長が渡り廊下から鋭く一喝した。
『こらーーー、おまえら、仕事中に何をしておるのだね。早く、職場に戻りなさい』
書記長に咎められるとババス達は蜘蛛の子を散らすように四方に消えていった。書記長がやって来ると、ディディが明朗な声で呟いた、
『書記長様……。ありがとうございます! 助かりました』
痩せて顔色の悪い少年は書記長に失礼のないように衣服を整えて立ち去っている。
春の木漏れ日が降り注ぐ小路の向こう側へと急ぐ少年は右の脚を不器用に引きずっていた。ヒョコヒョコ。頼りなげな後ろ姿を切なげに見つめながらディディは呟いた。
『あの子は生まれつき、膝が悪いみたいなんです』
つまり、農業などの力仕事に向いていない。ディディは書記長と立ち話をするほど親しいようだ。
(それにしても、ずいぶんと可愛い書記だな。まるで女みたいだ)
王子は格子窓からディディの綺麗な横顔を見つめながらも首をかしげていた。あんなに若い白人の書記が雇われる事など滅多にない。しかも、その子は書記長と対等に語っている。
『書記長様、あの子、今年、入ったばかりなのにアズベールの言葉を覚えています。賢い子なんだと思います。あの子なら書記としても働けます。少なくとも、ババス様より戦力になると思いますよ。あの子も雇ってはどうですか』
『だが、手術をしたからには、ハレムの宦官として生きるしかないだろうな。ハレムは年金もつくから悪くない職場だぞ。誰も、あの子を苛めたりしない』
『そうですね……』
女の子のような愛らしい顔だが臆する事なく書記長の顔をまっすぐに見つめている。なぜ、あの書記は、あんなにも率直に話せるのだろう?
(珍しいな。じぃ様も珍しい事に、オレにも見せたことのないような顔をしているぞ。どうなっているんだ?)
興味を惹かれたレイ王子は窓から覗き込みながら聞き耳を立て続けた。
『書記長様、宦官というものは本当に必要なのでしょうかね……』
『むろん、必要だから、彼等はここにいるのだよ』
『宦官は男でも女でもないとされています。去勢して男性機能がなくなれば家族を作る事も出来ません。天涯孤独な彼等は、生活を保障してくれる王だけを頼るようになります』
言いながら、ディディは泣き出しそうな顔になっていた。綺麗な目をしていた。
『そういう人間の尊厳を損なうような制度は嫌いです……』
ディディの利発な瞳の奥底には澄んだ悲しみが滲んでいた。
『それに、一夫多妻の制度も問題があります、愛妾や愛妾候補が密集して暮らしていたなら権力争いが生じます。暗殺事件が起きるのも当然です。ハレムは女達を不幸にしています。それに、王様に選ばれない女は子孫が残せない。みんなが可哀想だと思います』
『ディディ、もうやめなさい! 王を批判することになるのだぞ。いいかね、このようなことは誰にも言ってはならぬ』
『分かっています。書記長様だから言うんですよ』
無邪気に見上げながらテヘッと笑っていた。
『王様は孤独なんです。だから、自分よりも孤独な宦官には気を許します』
ディディは王の孤独や葛藤というものにも思いを馳せている。
『でも、王は孤独に耐えてこその王なのですよ。高慢な支配者。慈悲深い指導者。それによって国民の生活も変わります。ですから、次の王にはちゃんとやってもらいたいのです。書記長様は、二人の王子のうちどちらを推されるおつもりなのですか?』
『難しい質問だな。どちらも立派な方なのだよ』
『でも、レイ王子は陰気で気が弱いと聞いていますよ。僕は、まだ顔を見た事もありませんけどね』
『だが、あの方は、おまえを見ているかもしれないぞ。言っておくが、レイ王子は噂とは違っている。聡明で責任感の強い立派な方なのだよ』
書記長は、後ろが王の執務室で、現在、王子が常駐していることを知っている。しかし、ディディは気付いていない。
『だけど、童貞王子なんですよね?』
悪口には慣れているが、王子は、顎をさすりながら苦笑するしかなかった。
書記長が意味ありげに頷いている。
『さぁどうかな、それに関しては良く知らぬが、ディディ、おまえは噂を信じておるのだね。世間というのはいい加減なものだよ。ところで、話は変わるが、ティディ。おまえの国は我が国に侵略されたね。そことを恨んでいないのかね?』
『ここだけの話、正直に言うと悔しいですよ。侵略されて、多くの人が死にました。王族は自害したと聞いています』
伏せ目がちになっている。何かを思い出したのか寂しそうに鼻を鳴らしている。
『でも、僕の国の政府は腐敗していました。一部の商人と貴族だけが贅沢をしていたのです。アズベールに治世されてから、逆に庶民は生活が楽になったと言って喜んでいます。欠点もありますが、この国の官僚は素晴らしいと思います』
そして、ディディは興奮気味に語り始めている。
『何と言っても、ソロバキーラ大聖堂を初めて見た時は本当に驚きました。高い場所から降り注ぐ光の美しさと緻密なタイル装飾に感動しました。蝋燭やランプの煤を吸い上げる通気の仕組みにも感動しました。集めた煤で特殊なインクを作って再利用しているなんて素晴らしいじゃないですか。そういうところは心の底から素敵だと思っています』
いいところと悪いところ。きちんと分けて考えることも出来る。
『女性にも遺産相続の権利があります。うちの叔母は土地を相続しました。だから商売も続けられます。これって凄いことですね』
そんな会話をした後、二人は食堂の方へと立ち去っていった。
あの日から、ずっとレイ王子の心にディディとが棲み着いている。ディディの動向を探るようになった。
そして、あの日、書庫でババスに襲われそうになっていたので助けたのだが……。
たちまち、機敏な猫のような愛らしさに惹き込まれた。
娼婦の衣服も似合っていた。生意気で賢くて素直だ。
こんな娘がこの世にいたになんて……。ついつい、自分の側に置きたいと考えてしまったが、そのせいでこうなってしまっている。
愛馬のリアンドが死ぬ前、アルバは何か言いたげな目をする事が多かった。
そして、砂漠の真ん中で毒に倒れた、あのおぞましい夜。
『兄さん、しっかりして』
あの夜、アルバは手を握り締めていた。薄い闇の中、消え入りそうな声で囁いた。
『兄さん、ごめんね……。こんな目に合わせてごめんね』
目が見えない状態だったけれど声を押し殺して泣いていることには気付いていた。一体、何に対して謝っているのだろう。そう思いながら熱にうなされていた。
後日、弟の穏やかな笑顔を見るとも問い詰めることが出来なかった。
四肢が麻痺した恐怖と視力を奪われてしまった絶望がこびりついている。あれ以来、危険から回避することを優先して暮らしてきた。
(オレは誰も信用できなかった。二度と、あんな辛い目に遭いたくないと思ってきたんだ)
事件の後、国政には興味がないフリをしてきた。
王位継承、そんなものは自分には関係ないと言い聞かせてきた。しかし、父の代理として仕事をしていくうちに、改革したい気持ちが強固なものとなった。これ以上、軍部の横暴を放置してはいけない。
(ディディに対して、恥ずかしくないような生き方をしたい)
王子としてやるべきことがあるのだ。正しい道歩きたい。ただし、その為には死を覚悟しなければならない。
「レイ王子! 王子!」
ディティの叫び声が心の内側で響き続けている。濁りのない切ない訴えが王子の背中を押している。
『次の王には、ちゃんとやってもらいたいです』
弟も自分の敵なのだ。それでも闘わなければならない。軍部と闘わなければならない。浴槽の壁にもたれながら拳を握っていた。汗だくのまま唇を噛み締めながら決意していたのである。
(例え、殺されようともオレはやるよ……)




