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12 セルディーの死

 苦しい時間が続いている。悪い夢の中を彷徨っているかのような恐怖に包まれている。ディディが足掻くようにもがいていると、頭上からは誰かの声が茫洋と響いてきた。


『ディディ。早く起きておくれよ。あたい、話したいことがあるんだよぉ!』


 女性がいる。瞼の隙間から輪郭がほやけて見えてきた。怯えたような小声で手招きしている。


『起きておくれよ。あたいの声が聞こえるかい? ねぇ、起きておくれよ』


 暗くて顔は見えないが、その人は小さな黒猫を抱えて佇んでいる。ヒソヒソと何かを伝えようとしている。何だか、その声に聞き覚えがあるような気がしてハッとなる。


(もしかして、そこにセルディーがいるの?)


 セルディーの亡霊でも構わない。会いたい。その手を握ろうとして賢明に腕を伸ばす。あと少し。あと少し!


 手を握ると世界が一気に赤色に染まった。セルディーの顔が崩れて蛆虫に覆われてバラバラに砕けていく。きゃーーーーーーーーっ。


「あっ……」


 そこで目覚めた。王子が、こちらを覗き込んでいる。


「大丈夫か。うなされていたぞ」


 泥に浸かっているかのように身体が重たかった。頭の奥が黒いもので汚されたように霞んでいる。時刻を確認しようと窓に視線を向けていくと室内が茜色に染まっていた。朝かと思ったのだが夕暮れなのだ。まさか、そんなに時間が流れていたなんて……。


「それで、ジゼル様はどうなったんですか?」


「即死だった。おまえは、またしても熱を出したようだな。ずっとうなされていたぞ」


「飲むといい」


 薬草の中に黒砂糖が入っていた。甘さの中に独特の妙な苦味があり、美味しくない。


「ジゼル様は、どうしてあんなことになったのですか……」


 彼女も、毒にやられて足元がフラついて誤って落下したのだろうか。王子は、懐から何かを取り出して差し出している。それは小さな紙片だった。


「見てくれ。オレ宛ての遺書があった」


 それはルビトリア語で記されている。


『心から愛するレイ王子様に申し上げます。わたくしは、あなたを騙すことに耐えられなくなりました。王子の子ではありません。愚かな嘘をついてしまいました。お許しください。良心の呵責に耐えかねて悩み続けた結果、死をもって罪を償おうと考えたのでございます。お世話になりました。さようなら』


 短い文だが文字そのものが美しい。


「これを彼女が書いたなんて……。王子は本気で信じておられるのですか?」

 

 違う。これはセルディーの筆跡ではない。筆談した仲だからこそ言える。


「王妃の陰謀だわ」

 

 ナティアが王妃に頼まれて遺書を捏造したに違いない。


「きっと、毒姫が彼女を突き落としたのですよ」


「いや、毒姫は、おまえが倒れた直後にオレが下の階に追い出している。だから、ジゼルを突き落としたのはあの女ではないよ。別の誰かなんだ……」


「誰の仕業でしょうか?」


「侍女のイーダが事件の朝から姿を消しているらしい。おそらく、イーダが手を下したのだろうな」


「やだ。そんな! だって、ジゼル様は、イーダと仲良くなったことをあんなにも喜んでいたのに……」


 喉が震えて目頭が熱くなり涙が溢れてきて胸が張り裂けそうになる。王子は視線を引き絞るようにしてディディを見つめている。


「こんなのひどい……。なんで、こんなふうに殺されなきゃいけないのよ?」


 プックリと柔らかい頬から首筋へ熱い涙がポロリと零れ落ちていく。


 いきなり、鉈で心を乱暴に引き裂かれたような気分だった。


「彼女と会うのが楽しかったのに。こんな形で別れるなんてやだよ!」


 吐露しながらも改めて驚いてしまう。いつの間にか、乱暴者のセルディーのことが好きになっているみたいだ。涙が止まらなくなっている。ヒック、ヒック。無防備に泣いていると、王子が背中をさすってくれた。ディディは悔しげに訴えていく。


「犯人を捕まえてやりたいです。あたし、彼女の仇をとりたいです」


 何としても犯人を捕まえてやる! そう決意した途端、涙がポロポロとこぼれてきた。王子が顔を指で拭った。


「とりあえず食べろ」


 王子は、衰弱しているディディが誤飲しない様に慎重な手つきでを運んでいる。王子なのに、なぜ、こういうことをするのが上手なのだろうか。


 不思議に思ったので聞いてみる。


「王子は、どうして病人の世話をすることが上手なのですか?」


「子供の頃、動物の世話をするのが好きだったせいだろうな。母親を亡くした猿やカゼルの面倒を見たこともあるよ。ハレムに迷い込んだ子猫の授乳もした。今は忙しくて何もできないけどな」


 ディディは、以前に口述筆記をした伝記の下書きの一説を思い出していた。


「誰もが手を焼く暴れ馬も王子に従うそうですよね。どんな動物も王子を愛したっていう文面を覚えています。書記長様が美化して書いているんじゃなかったんですね。馬の名前はリアンドでしたよね」


「……その名前、久しぶりに耳にする」


 急速に王子の顔が崩れて泣き笑いのような表情になった。王子は諦観の眼差しのまま呟いている。


「どんな動物も王子を愛したか……。だが、人間はそうはいかなかったな。誰もオレを愛さない」


 失望しているかのような顔つきになっている。俯瞰の眼差しを向けて自身を冷笑しているようなところがある。


(なぜ、誰からも愛されないと思うのかしら?)


 ジリジリしたものが、ディディの心を突き動かしている。ついムキになって叫んでいた。


「王子のことを愛している人は大勢いると思いますよ!」


 ディディは両手で王子の手を握りしめていく。伝えたいものが溢れている。ディディの瞳は悲しげに揺れる。王子も息を潜めるような真剣な目で見つめ返すと、ゆっくりと顔を近づけてきた。ほんの少し掠れた声で問いかけている。


「愛している? オレを? 誰が?」


 しばらく至近距離で見つめ合っていた。王子の睫毛は長かった。吸い込まれるようにディディは熱く潤んだ瞳を王子の瞳に向けながら囁いていく。


「王子の一生を丹念に綴る仕事は愛なくしてできません。どうか察してくださいませ。その人はすく近くにおりますよ」


「ん? 一体、どこに……?」


 四隅の吊りランプの明かりが室内をぼんやりと照らしている。


 開け放たれた窓から吹き込む優しい夜風はジャスミンの花の香りを含んでいる。香炉の沈香の匂い。王子の甘い吐息。それらが心地よく優雅に混じり合っている。誰もいない二人だけの花園にいるかのようだ。


 王子は焦れたように手を握り返している。切なげに瞳の奥を絞り、ディディの頬に手を添えている。心から懇願するように問いかけている。


「どうした、ディディ、早く言ってくれないか……」


 ディディの心に甘くて湿り気のある緊張感が走っている。


 こんなに熱い眼差しでこちらを見つめられると胸の中が甘酸っぱくなる。どうしよう。スーハー。深呼吸をしていく。動揺を振り払うようにして目を閉じると意を決したように、パッと瞳を開いた。


「はい。それは書記長様です!」


 すると、王子はすべての動きを止めていた。美しい顔がキーンと凍りついている。ポカンと奇妙な間が空いていたのだが、やがて、沈黙の壁は氷解していたのである。


「あははっ、じぃ様のことなのか……」


 王子は行き場の無いような困った顔になっている。あらら……。あたし、何か間違ったことを言いましたかと目で問うと、王子は破顔した。


「愛しているのは、じ、じぃ様なのか……。確かに、見透かしたようにオレの望むものを目の前に連れてくる事がある。オレにとって大切な人だよ」


 王子の心の中で何かが灯ったのか、穏やかな目をしている。


「おまえは賢くて優しいな」


 ディディの額にポンと手を乗せて頭を撫でたのだが、急に王子の笑みが止まった。どうしたのたろう。王子は視線を天井に移している。


 王子は静かにしろと目で合図している。ディディも異音を感じていた。カツン。コトンッ。頭上で小さな音がする。おそらく、屋根の上を何かが渡り歩いている。


「何の音だ? ベランダに誰かいるぞ!」


 カーテン越しに人影が忍び寄っていたものだから王子が顔色を変えている。侵入者の存在に気付いたディディも心臓が止まりそうになっていた。


 日没が迫る中、踏み込み、無精ひげの生えた精悍な顔でニッと笑っているのは兄のサリンダだ。


「ディディ。おまえ、こんなところにいたのか。心配したんだぞ」


 部外者が許可なく入ってはいけないというのに警備の薄い壁をよじ登り進入している。


(お兄ちゃん、駄目だってばーーー)

 

 王子が剣を手に構えようとしている。そこにザッと割って入るようにしてディディが制して立ちはだかった。

 

「王子! 紹介します。あたしのお兄ちゃんです! 賊ではありません。駄目、駄目。殺さないでくださーーーい!」


 泣きそうな顔つきになりながらも、今度は兄に向けて訴えていく。


「何しに来たのよ! ここはハレムなんだよ! 王子の寝所なんだよ! やめてよ」


「先刻、街に戻ってきたんだよ。ジゼル姫が死んだという噂で持ちきりだった」


 だから、ここに乗り込んだらしい。


「兵舎の脇を歩いていた書記に、ディディがどこにいるのかと聞いたら、そいつがここだと教えてくれた。顔の長い男がニヤニヤしていた。王子は書記の男の子を可愛がって離さない趣味があると言っていた。おい、そうなのかよ!」


「ババスね……。ああ、ババスに聞いたのね」


 いかにも、あの男が言いそうなことだ。


「王子は、倒れたあたしの看病してくれたのよ! お兄ちゃんも王子に感謝してよね! 王子のおかげで助かったのよ」


「ディディ……。顔色が悪いぞ」


 近寄って妹の顔をもっとよく見ようとするが、王子がそれを許さなかった。


「帰れ! サリンダ。おまえが来る場所ではない。帰らぬのなら、おまえを斬るぞ」


「謝ります。あたしが兄の代わりに謝りますからーーー」


 悲痛な声で訴えていく。この状況ならば王子に殺されても文句は言えないというのに、兄は、正面から王子を見据えて不敵な笑みを浮かべている。


「おいおい、レイ王子、あんたこそやめろよ。あんたの腕じゃ勝てないぜ。なぁ、そうだろう?」


 本人を前に失礼なことを言い放つ。兄は王子より四歳年上だ。場数を踏んでおり剣術に優れている。この場合、王子が弱いのではなく兄が驚異的に強いのである。


 王子は、豪華な飾りのついた剣を鞘に戻しながら苦笑している。


「サリンダ隊長。どうしてこんな無茶をするのだ? ジゼルが死んで間もないところに現れるなんて、どうかしているぞ」


 ジゼルの事件に関与しているように思われてしまう。必死になって説得していく。


「今は、とってもややこしい時期なのよ。早く帰ってよ! お願いよ!」


「その痣は何だ? 分かるように兄ちゃんに教えてくれよ」


 幼児に喋りかけるみたいな口調になっているものだから、聞いているこちらが恥ずかしくなってくる。


「ペポロに殴られたのよ! 叔母ちゃんに詳しいことを聞いてよね。お兄ちゃんったら無茶しないで。元気になったらすぐに家に帰るよ!」


「今すぐに帰ろうぜ。兄ちゃんが背負ってやるよ」


「あたしは正規の門から帰るよ! だから、お兄ちゃんは先に家に帰って」


「本当だな。約束は守れよ。ほら、兄ちゃんと指きりげんまんだぞ」


 渋々ながらも兄は承知して、ここから出ていくと言ってくれたのである。


「……あっ、消えちゃったわ」


 兄は、垂らしていたロープを昇って屋根へと上がっている。屋根から屋根へと軽快に渡り歩いて宮廷の外廷へと出ていくらしい。我が兄ながら凄まじい行動力だと感心せすせにはいられない。


 出て行く兄の姿を見送っていた王子が呆れたように顔をしかめている。


「何て奴なんだ。こんな無茶な事をするなんて、まったく何を考えているんだ」


「王子、兄の無礼を許してくださってありがとうございます。本当に助かりました」


「いや。あいつの方が有利な立場だった。仮に、あいつが暗殺者ならば、オレは確実に殺されていただろうな。ハレムの警備など、おまえの兄にとっては。おままごとのようなものなのだな。オレはあいつには敵わない」


 どこか自嘲するような顔をしている。この人は、いつもそうなのだ。


(どうして、そういうふうに自己分析しちゃうのかな。王子は自分を追い詰め過ぎていると思うんだけどな)


 ディディは頭に浮んだ格言を口にしていたのである。


「ねぇ、王子、人々は孔雀の華麗さを褒め称えるが孔雀は自分の脚の醜さを恥じている。という諺がアズベールにはありますよね」


「オレが知っているのはこれだぞ。孔雀は華麗だが空を飛べない」 


「ああ、そういうのもあるんですね。なるほどね」


 王子が口にした格言も王子の人生を言い表しているような気がする。ともかく、これ以上、王子に迷惑をかける訳にもいかない。


「兄は昔から過保護なの。あたしも帰ります」


「……そうか。帰るのか?」


 子供のような不安定な顔つきになり瞳を細めているものだから、ディディの心が揺らいでキュンとなる。


「やはり、帰るのは明日にしたらどうなんだ……。城の門限が迫っている。時間がないぞ」


「いいえ、長居をする訳にはいきません。ババス様に何を言われるか分かったもんじゃありませんからね」


 すると、彼は、胸に溜まっているものを振り切るようにして歩き出した。


 銅製の香呂の上にデイディの官服と赤いリボンがかけられている。洗濯して乾いたものをここ置いて良い香りをつけてくれていたのだ。それをポンと投げてよこした。


「オレは宮廷医官のところに行くことにするよ。おまえは自分の服に着替えろ。気になることがある」


 そう言うと彼は部屋から出て行った。


 ディディは急に広い部屋に一人きりになると寂しくなった。


 心に穴が開いたように感じてしまう。


 ダルくて眠い。しばらくの間、ぼんやりしていた。


(この部屋で一人でいるって、何となく物悲しいわ)


 寝台から降りてから着替えることにした。事件を調べると言っていたが犯人は王妃に決まっている。


 脱ぎ捨てた王子の衣服を回収して畳んでいた。すると、衣服を乗り越えて足元に擦り寄ってくる小さな生き物がいた。フアフアの毛並みの黒い猫がこちらを見上げて鳴いている。みゃー。黒猫のヘルワだった。


「やだ、こんなところにいたの? おなかすいたのね。ひゃ、くすぐったい」


 黒猫を抱えると、ヘルワがディディの顎をペロペロと舐めた。ディディの頬をスリスリしながら鳴いている。


「寂しいよね。おまえのご主人は死んじゃった。あたしと一緒に帰ろうね。いい子だね。可愛いね」


 これからは自分が大切に育ててあげよう。そんなことを考えて猫の鼻先にキスをしていると、いきなり、寝台の下から蛇のように何かがヌルリと出てきた。


「ひっ……!」


 足首を握られて驚愕していた。骨ごと砕かれてしまうのではないかと危惧して涙目になる。


 ディディは尻持ちをついて両手をついた状態で後退しながら震えていた。どういう訳か骨ばった腕が寝台の下からズルズルと出てきて、デイディのバンツの裾を握りしめている。しかも、意味不明な唸り声のようなものをあげている。


「決して、決して死ぬもんかーーーー!」


 異様な光景に気圧されて心臓が止まりそうになるけれども、下品な声に聞き覚えがあった。もしやと思い、勇気を振り絞り、床下の魔物をランプで照らしていくと……。


 獣が這うような状態で若い女が出てきたのだ。立ち上がりながら必死の形相になってこちらを見据えている。


「どうしよう……、あたい、殺されるところだったよ!」       



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