26話 秘密のお願いと、お前呼び
♢秘密のお願いと、お前呼び
光を乱反射してきらめく【ダイアモンドダスト】の幻想的な光景、そして王国最高峰の近衛騎士団すら蹂躙した暗殺団と巨大な魔物を、ただの「肉体言語(拳)」だけで一瞬にして消し去った圧倒的な力。
目の前で繰り広げられた規格外の光景に、第一王女セルシアは、ユウキの服の裾を小さな手でぎゅっと掴んだまま、ただ息をのんで見守ることしかできなかった。
しんと静まり返った戦場で、返り血一つ浴びずに佇んでいたユウキが、どこか気まずそうに頭を掻きながら振り返る。
「あ、えっと……今のこれ、内緒な。絶対に他言無用、秘密にしてくれ。俺、目立ちたくないからさ」
心底面倒くさそうに、かつ真剣に懇願してくるユウキの言葉に、かろうじて生き残っていた近衛騎士の頭の中には、大量の「?」マークが浮かび上がっていた。
(え? 内緒……? 王女殿下の救出、さらには国家転覆級の暗殺団と魔物の同時討伐だぞ……? 隠せるわけがないだろう。これほどの偉業、大英雄として国王陛下から途方もない褒美や爵位が与えられるどころか、歴史に名が刻まれるレベルの事態なのだが……!?)
騎士が常識のゲシュタルト崩壊を起こしかけている中、当のセルシア王女は、その深く澄んだサファイアの瞳をきらきらと輝かせ、これ以上ないほどの満面の笑みを浮かべた。
「はい、善処いたしますわ♪」
「……まあ、お前に任せるけど」
「はいっ!」
小首を傾げてにっこりと微笑むセルシアに、ユウキは溜息混じりにぶっきらぼうに応じる。
一国の王女殿下をこともあろうに「お前」呼ばわりし、そしてそれを、この上なく嬉しそうに受け入れる王女殿下。
通常であれば、王族に対する不敬罪として、たとえ大貴族の令息相手であっても騎士団が即座に厳重注意、あるいはその場で拘束しなければならない一線だ。
だが、生き残りの護衛騎士には、ユウキを咎めることなど微塵もできなかった。
自分たち精鋭が束になっても傷一つ付けられなかった敵を、文字通り瞬殺した化物のような存在に、今さら「言葉遣いが不敬だ」などと注意できるはずがない。生身の拳一つで先ほどの暗殺者のように消し飛ばされるのがオチである。
それ以前に――肝心の王女自身が不快に思うどころか、とろけるような甘い笑みを浮かべて完全に受け入れているのだ。周囲が口を挟む余地など、最初から一ミクロンも存在しなかった。
「もう、ユウキ様ったら……。わたくし、とっても頼もしかったですわ」
気づけば、セルシアはユウキの逞しい腕に自らそっと抱きつき、その白い頬を染めながら、まるで甘えるようにご機嫌な様子で身を寄せていた。
先ほどまでの絶望的な戦場はどこへやら、二人の周囲にだけは、甘く微笑ましい空気が漂い始めているのだった。
♢静まり返る白亜の廊下と、即座の絶望
第一王女セルシアを執拗に狙った、中央貴族の汚職派閥による冷酷な暗殺計画。
王国最高峰の実力を誇るはずの近衛騎士団すら無惨に蹂躙された、あの凄惨な戦場の真っ只中で、たった一人、返り血一つ浴びることなく王女を救出したという「無名の英雄」の噂は、翌朝には早くも王都全土を震撼させていた。
張り巡らされた絶対的な罠である『魔力を霧散させる結界』をものともせず、凶悪な魔物の群れと暗殺団の精鋭を、魔法すら使わずただの「拳」だけで一瞬にして消し去ったという規格外の怪物。
その信じがたい怪物の正体が、かつて周囲から「弱々しい出がらし」と陰口を叩かれ、蔑まれていたヴァルテンブルク辺境伯家の長男・ユウキであるという事実が白日の下に晒された時、国の中枢たる王宮だけでなく、彼が通う貴族学院にも文字通りの激震が走った。
そして迎えた、あの凄惨な事件が起きてから初めての登校日。
白亜の美しい壁に囲まれた貴族学院は、朝の清々しい陽光とは裏腹に、その話題だけで完全に持ちきりだった。
大理石が敷き詰められた格調高い廊下を行き交う生徒たちは、誰もが何かに怯えたように互いの肩を寄せ合い、視線を泳がせながらヒソヒソと声を潜めて噂話を交わしている。
「おい、来たぞ……!」
誰かの喉が引きつったような、緊張に満ちた掠れ声が響いた瞬間だった。
それまで蜂の巣をつついたようにざわついていた廊下の喧騒が、まるで魔法で時を止められたかのように、嘘のようにピタリと静まり返った。
学院の重厚な正面玄関から、いつもと何一つ変わらない、眠たげで気怠げな足取りのままユウキが姿を現した。
前世がごく普通の平穏を愛する高校生であったユウキからすれば、今の周囲に漂う、肌を刺すような異常なまでの緊張感はひたすらに居心地が悪い。
目立ちたくない、ただ平穏に暮らしたいという一心で無能のフリを続けていたというのに、あの夜の出来事のせいで、完全に人生の計算が狂ってしまった。
(あーあ、だから嫌だったんだよ。めちゃくちゃ見られてるじゃねえか……)
心の中で顔を顰め、深く重い溜息をつきながら、ユウキはいつもの教室を目指して廊下を歩き出す。
その瞬間、彼を中心にして、周囲の空間に驚くべき奇妙な光景が広がった。
ユウキがただ一歩、気怠げに床を踏みしめるごとに、その前方にいたきらびやかな衣装を纏う中央貴族の生徒たちが、まるでモーセの海割りのように一斉に左右へと飛び退き、綺麗な一本の道を空けていくのだ。
誰一人として、ユウキの進行方向に残ろうとする命知らずな者はいない。それどころか、彼らは一様に顔を青ざめて強張らせ、生殺与奪の権を握られたかのように視線を床へ落とし、直立不動のまま小刻みに震えていた。
ほんの数日前まで、彼らにとってユウキは「辺境の野蛮人」であり、「無能な田舎者」に過ぎなかった。都合の良い格好の嘲笑の対象として、陰でせせら笑っていたはずだった。
しかし今、その歪んだ認識は絶望的な恐怖によって完全に上書きされていた。目の前を無防備に歩いている少年は、自分たちの実家である中央の利権や権力ごと、その気になれば一瞬で跡形もなく踏み潰しかねない、決して逆らってはいけない「本物の化け物」なのだと、誰もが骨の髄まで理解していた。
肌を刺すような静寂と恐怖に支配された廊下を、ユウキは内心で困惑しながら歩み進める。
そんな彼の前に、見覚えのある影が立ち尽くしていた。
しばらく前、まさにこの場所でユウキの前に堂々と立ちはだかり、顔を歪めて「出がらしの無能」と大声で嘲笑していた、中央貴族の伯爵令息。そして、その虎の威を借る狐のようにいつも後ろに控えていた、腰巾着の子爵や男爵の取り巻きたちだった。
彼らは他の生徒たちのように、恐怖から上手く避けるタイミングを完全に逃してしまっていた。運悪く、ユウキの進行方向の直線上に、逃げ場のないまま残されてしまったのだ。
「ひっ、あ、あ、ああ……っ」
ユウキの冷めた視線が、ただ静かに自分たちへ向いた瞬間だった。
取り巻きの子爵と男爵が、情けない短い悲鳴を上げてその場に無様にへたり込んだ。あまりの恐怖に完全に腰が抜けてしまい、ガタガタと歯の根が合わない音を廊下に響かせながら、床を這うようにして必死に後退していく。
リーダー格だった伯爵令息もまた、顔面から完全に血の気が引き、土気色に変貌していた。
かつてあれほどユウキを見下し、中央貴族の威光を背に威張り散らしていた傲慢な面影は、今の彼にはどこにもない。
ただただ、目の前の圧倒的な強者から発せられる、無自覚な生存への脅威に当てられ、全身の毛穴から冷や汗を流して震え上がっている。
「う、あ……ヴァ、ヴァルテンブルク……っ」
何かを言いかけ、しかし喉が完全に恐怖で張り付き、まともな言葉にならない伯爵令息。
そんな彼らを静かに見下ろし、ユウキは怒るでもなく、心底面倒くさそうに首を傾げた。
彼らがどれだけ背後の権力を誇ろうと、前世の記憶を持つユウキから見れば、最初からレベル1の羽虫に過ぎない。その評価は、王女を救って英雄と祭り上げられた今でも、何一つ変わっていなかった。
「……どいてくれ。お前たちの相手をするほど暇じゃない」
一切の感情を排した、冷徹極まる低音。
ユウキが淡々と放ったその一言だけで、伯爵令息はまるで見えない衝撃波を正面から浴びたかのようにビクリと身体を跳ね上がらせ、吸い込まれるように壁際へと力なく崩れ落ちた。
ユウキは彼らをこれ以上一瞥することすらなく、その横を平然とすり抜けていく。
背後には、ただただ己の無知と無力さを突きつけられ、即座の絶望の中で静かに恐怖に震え続ける、哀れな貴族たちの姿だけが残されていた。




