23話 理を置き去りにした背中
♢理を置き去りにした背中
魔法を使うまでもない。
ただそこに佇み、静かに睨みつけるだけで敵の精神を内側からへし折るような、底知れぬ魔力の波動。世界の理を完全に置き去りにした圧倒的な身体能力の前には、あらゆる策略が無意味だった。
文字通り『たった一瞬』の出来事だった。
数十の狂暴な魔物と、百戦錬磨であるはずの暗部の精鋭たちが、誰一人としてユウキの動きに反応すらできぬまま、次々と物言わぬ肉塊となって地面に転がっていく。
生々しい血の臭いと硝煙が風に漂う街道に、突如として圧倒的な、耳が痛くなるほどの静寂が戻ってきた。
「化け物……化け物め……っ!」
最後に一人だけ残された暗殺者のリーダー格が、ガタガタと全身を無様に震わせながら、引きつった悲鳴を絞り出した。
彼らが信奉してきた緻密な計画も、国家を揺るがす最高峰の結界も、この少年の前では何の役にも立たなかった。魔法というこの世界の絶対的な理すら超越した、ただ純粋で圧倒的な暴力の前に、男のプライドは完全に粉砕され、戦意を喪失する。
「ひぃ、お、覚えていろ……っ!」
リーダーは恐怖と屈辱に顔を激しく歪めながら、一目散に蜘蛛の子を散らすように森の奥へと敗走していった。
ユウキはその無様な背中をあえて追うことはせず、ただ冷めた瞳で見送る。
(まあ、全員をここで消すよりは、泳がせておいた方が後ろにいる大物の尻尾を掴みやすいだろ)
感情を交えず、淡々とそんな計算を巡らせる。
生かして帰した一匹の羽虫。それは、いずれ対峙することになる中央の汚職派閥――泥を啜る黒幕たちへと確実に繋がる、動かぬ手がかりであった。
パチパチと、横転した馬車の残骸から火の粉が散り、木が爆ぜる音だけが静かに響く。
あまりの衝撃的な光景に、冷たい地面へ無様にへたり込んでいた第一王女セルシアは、自分が呼吸をすることすら忘れていることに気づかなかった。
地獄の戦場を文字通り一蹴した、目の前の黒髪の少年がゆっくりと振り返る。
その底知れない瞳と視線が交わった瞬間、極限まで張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、セルシアの身体から急激に全ての力が抜けた。
「あ……」
視界がぐらりと大きく傾き、支えを失った華奢な身体が、再び泥塗れの地面へと崩れ落ちそうになる。
――ふわり、と。
だが、冷酷な土埃の匂いは彼女を襲わなかった。代わりに、どこか懐かしく、ひどく落ち着く少年特有の甘い体温の匂いが、セルシアの身体を優しく包み込んだ。
ユウキは凄まじい反応速度で一瞬にして距離を詰め、倒れかける彼女の身体を、まるで壊れやすい硝細工でも扱うかのように、その逞しい両腕でしっかりと抱きとめていた。
すべてを終わらせた規格外の英雄は、未だに呆然としている王女に、いつも通りのぶっきらぼうな調子で声をかけた。
「おい、怪我はないか? 動けるなら、さっさとここを出るぞ」
耳元で囁かれたのは、やはりぶっきらぼうで、少し面倒くさそうな気だるげな声。
けれど、密着した彼の胸元から衣服越しに伝わってくる温もりと、決して自分を離さないという確かな力強さは、恐怖に震えていたセルシアの傷ついた心の奥底へ、涙が出るほどの安心感をじんわりと染み渡らせていくのだった。
♢サファイアの瞳の輝きと、運命の一目惚れ
――静寂。
耳を突き刺すような悲鳴も、肉を裂く悍ましい音も、すべてが嘘のように消え去っていた。
引き裂かれた馬車の残骸の前で、第一王女セルシア・バルハイトは、ぎゅっと強く瞑っていた瞼を恐る恐る持ち上げた。死の恐怖に身をすくませ、ただ冷たい刃が首筋を駆けるのを待っていた彼女の視界に飛び込んできたのは、あまりにも現実離れした光景だった。
つい先刻まで、王国最高峰と謳われた近衛騎士団を蹂躙していた凶悪な魔物の群れ。そして、容赦なく自分たちの命を狙ってきた「暗部」の暗殺者たち。そのすべてが、文字通り「一瞬」で消滅していた。
地面に深く刻まれた巨大なクレーターと、へし折られた大木の数々だけが、そこに規格外の破壊が吹き荒れたことを物語っている。
その破壊の中心に、一人の少年がぽつんと立っていた。
「……はぁ。まったく、どいつもこいつも、人の昼寝を邪魔しやがって」
制服の袖についた見えない埃を払うように、気怠げにため息をつく少年。
返り血一つ浴びず、息一つ乱していない。それどころか、あれほどの惨劇を前にして、その表情は退屈そのものだった。
「あ……なた、は……」
セルシアの震える声に、少年がゆっくりと振り返る。
それは、貴族学院の廊下で、中央貴族の令息たちから「辺境の出がらし」「無能な田舎者」と嘲笑されながらも、心底つまらなそうにあくびを噛み殺していた少年――ヴァルテンブルク辺境伯家の長男、ユウキだった。




