2話 黙っていれば最高に可愛い
過去の記憶に残る学院の冷酷な空気感、貴族特有のねっとりとした視線の応酬から、ユウキはそんな世界の現実を冷ややかに理解した。どこへ行っても格差と人間の醜さは変わらないのだと、冷めた思考が頭を巡る。
しかし、今は他人の心配をしている場合ではなかった。
じわじわと引いていく頭痛の名残を感じながら、ユウキはゆっくりとベッドから立ち上がった。足元の絨毯を踏みしめ、現状をさらに把握するため、意を決して重厚な木製の部屋の扉へと手をかけた。冷たい金属のドアノブを握りしめ、小さく息を呑んでから、外の世界へと繋がる扉を押し開けた。
一歩廊下に出るだけでも、さすがは国の要たる上級貴族の屋敷であった。磨き抜かれた大理石の床がどこまでも続き、壁に飾られた絵画や調度品の一級品ばかりが並ぶ豪華な作りに、圧倒されそうになる。
所々ですれ違う使用人たちは、ユウキの姿を見るなり一様に足を止め、深く頭を下げていく。しかし、そのお辞儀の角度とは裏腹に、彼らの目には元々の主に対する「無能な若旦那」を見るような、どこか冷ややかで腫れ物に触るような視線が混ざっていた。
そんな息の詰まるような屋敷の回廊を、胸の内に生じる居心地の悪さを堪えながら歩いているときだった。
前方から、華やかなドレスの裾を揺らして歩いてくる一人の少女の姿があった。夕暮れ時の光を浴びてきらめく美しい髪と、仕草の一つひとつから溢れ出る気品。
脳内の記憶がすぐにその顔と名前を弾き出す。元々のユウキと極めて仲が悪い、二つ年下の妹だった。
すれ違いざま、彼女はピタリと足を止めると、侮蔑を隠そうともしない冷たい目をユウキに向けた。形の良い唇が歪み、いつものようにトゲのある言葉で絡んでくる。
「あら、お兄様。お目覚めですの? 相変わらず昼間からだらしなく寝てばかりで、本当にヴァルテンブルクの血を引いているのか疑わしくなりますわ」
鈴を転がすような美しい声。だが、そこに含まれた小馬鹿にするような響きが、廊下の静寂に鋭く突き刺さる。
これまでの大人しく弱々しかったユウキであれば、その言葉に気圧され、ただ俯いて黙り込むか、情けなく言い訳をしていただろう。妹の放つ圧倒的な拒絶のオーラに、身を縮めるしかなかったはずだ。
だが、今の彼の中身は、ぶっきらぼうだが筋の通らない理不尽を何より嫌う現代の高校生・悠希である。見下すような妹の視線を、彼は逃げることなく真っ向から受け止めた。
ユウキはぴたりと足を止めると、冷めた視線で妹を正面から真っ直ぐに見据えた。すっと細められたその瞳には、これまで彼女が散々見下し、愉しんできたような怯えや動揺は微塵も存在しない。ただ静かに、底の知れない冷徹な光を宿している。
「は? 何言ってんだ、お前?」
ドスの利いた低い声が、静まり返った廊下に硬く響き渡る。その予期せぬ低音に、妹は、「え……」、と短く息を詰まらせた。
いつもなら情けなく泳ぐはずの兄の視線が、今は微動だにせず自分を射抜いている。その事実に、彼女は背筋が凍るような感覚と同時に、これまで感じたことのない奇妙な高揚感を覚えた。
ユウキは一切の容赦なく、冷徹な言葉を畳みかけていく。
「そんなに俺の顔を見るのがイヤなら、わざわざ話し掛けてくるなよ。どうせお前は、あと数年もすればどこかの貴族に嫁いで、この家を出て行くんだろ? だったら、未来の当主である俺に無駄に関わるなよ。目障りだ」
「っ……!」
いつも言われ放題だったはずの兄から放たれた、圧倒的な威圧感と氷のような冷たい覇気。向けられた明確な拒絶の言葉が、鋭い刃となって彼女のプライドを切り裂く。
しかし、そのあまりの豹変ぶりに、妹は心臓をぎゅっと掴まれたかのようにドきりとしてしまった。
それは恐怖だけではない。
侮蔑していたはずの「無能な兄」が、今は誰よりも冷酷で、そして、誰よりも強大な存在に見えたのだ。その圧倒的な「強さ」に、彼女の胸の奥が、熱く、甘く、疼き始める。
喉が執拗にせり上がり、反論しようにも唇が小刻みに震えるばかりで声にならない。ただ、その瞳だけが、去りゆく兄の背中を、熱を帯びた、信じられないものを見るような目で見つめ続けていた。
♢黙っていれば最高に可愛い
──だが、ふと思う。
あまりにも理不尽に突っかかってこられたままで終わるのも、少しばかり癪だった。
ユウキはフッと楽しげに唇の端を上げると、背を向けたままピタリと足を止めた。そして、不意打ちをするかのように、音もなく滑らかな動作で踵を返し、ミオルへと歩み寄る。一歩ごとに縮まる距離に、廊下の空気さえもが張り詰めていくようだった。
「な、何ですの……っ?」
気圧されるように身構えたミオルの隙を突き、ユウキはその耳元へと顔を寄せた。触れそうなほどの至近距離から、彼の温かい吐息が彼女の肌を焦がす。
「お前は、黙っていれば最高に可愛いんだけどな……」
低く、心地よく、鼓膜を直接揺らすような甘い囁き。
「え──」
耳朶をくすぐる吐息と、至近距離から投げかけられたあまりにストレートな言葉に、ミオルは目を見開いて硬直した。心臓が跳ね上がり、ドクドクと不規則な音を立てて胸の奥を叩く。恥ずかしさと混乱が一気に押し寄せ、全身の血の巡りが一瞬で速くなるのを彼女は感じていた。




