17話 鉄血の騎士長と、お忍びの終わり
♢鉄血の騎士長と、お忍びの終わり
その場にいた詰め所の中の者全員が、弾かれたように床へ膝を突き、ユウキに向かって一斉に跪いた。頭を擦りつける彼らの衣類が擦れる音が、静寂の中に虚しく響く。
だが、冷や汗を流しながら平伏する上役の兵士は、頭の片隅で冷徹な疑問を抱いていた。いくらなんでも、国家の重鎮たる最高位の辺境伯の息子が、一人きりで街を出歩くものだろうか。周囲に護衛の姿は見当たらず、その身なりもお忍びとはいえあまりに地味で簡素だ。
「あ、あの……無礼を承知で伺います。身分を証明する物のご提示を……」
上役の兵士は喉の渇きを覚えるほどの震える声を絞り出し、恐る恐る立ち上がってユウキへと近づこうとした。
まさに、その時だった。
ドォン! と、詰め所の開け放たれた大扉が、空気を爆裂させるほどの凄まじい音を立てて内側へと押し開けられた。
そこから堂々と歩みを進めてきたのは、ヴァルテンブルク辺境伯家が誇る鉄血の老従事。ユウキの父である現辺境伯の直属たる、あの元近衛の騎士長だった。重厚な鋼鉄の具足が床を威圧的に鳴らす。しかも、その背後には完全に武装し、隙のない殺気を放つ辺境伯家の精鋭護衛兵を十人も引き連れていた。
「貴様、我らの主に気安く触れるな! 衛兵風情が……!」
元近衛騎士長の地響きのような一喝が炸裂し、詰め所の中の空気はさらに深く、完全に凍り付いた。ビリビリと壁が震えるほどの声の圧力に、上役の兵士は今度こそ完全に恐怖に叩きのめされ、言い訳を並べる余裕すらなくその場に崩れるように平伏した。
(あ、ヤベぇ……屋敷を抜け出したのがバレた)
ユウキは内心で激しく頭を抱えた。気配遮断のスキルで完璧に撒いたつもりだったが、辺境の修羅場をくぐり抜けてきた元騎士長の驚異的な探索能力を甘く見すぎていたらしい。じわじわと冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
「あはは……えっと、ごめんなさい。じゃ、俺……帰るわ」
ユウキは引きつった笑いを浮かべると、捕まる前にとばかりに素早く身を翻した。そして、詰め所の入り口を固めていた自分の護衛たちの、ほんの僅かな隙間を縫うような神速の動きで駆けだし、そのまま外の雑踏へと逃げ去ってしまった。
あまりの展開の早さと、人間の限界を超えた規格外の速度で消え去った少年の後ろ姿に、王都の衛兵たちはただただ唖然とするばかりだった。
「ぼ、坊ちゃま……どちらへ!? 坊ちゃま!」
さっきまで大食堂で周囲を恐怖させていたあの厳格な元近衛騎士長が、まるで迷子を探す親のように慌てふためき、声を裏返らせている。その激しい豹変ぶりにも、衛兵たちは目を見開いて驚いていた。
「捜索の再開をする! 何としても坊ちゃまを安全に屋敷へお連れするのだ!」
元近衛騎士長が鋭く指示を出す。
「はっ!」
十人の護衛たちが一斉に声を揃えて返事をすると、風のように詰め所を飛び出していった。後に残されたのは、ただ嵐が去った後のように呆然と立ち尽くす、王都の衛兵たちだけだった。
♢路地裏の遭遇と、鉄拳の救済
活気ある市場を逃げ回り、出店の串焼き肉の香ばしい匂いや、行き交う人々の喧騒を肌で感じながら街を駆け回っていたユウキ。しかし、護衛の目を盗んで大通りから外れた瞬間、彼の強化された聴覚スキルが、薄暗い路地裏の奥から響く微かな悲鳴と、肉が潰れるような鈍い打撃音を鋭く捉えた。
ユウキが迷わずその薄暗い路地へと足を踏み入れると、そこには最悪の光景が広がっていた。数人のガラの悪い悪漢たちが、一人の泥を被った小さな女の子を囲み、地面にうずくまる無抵抗な彼女に対して容赦のない暴行を加えている最中だったのだ。衣服は破れ、細い腕には痛々しい擦り傷がいくつも走っている。
突如として現れたユウキの姿を見とめると、悪漢たちは一斉に品性のない顔を歪め、ぎらりと光る錆びたナイフを抜いて脅しをかけてきた。
「あ? なんだお前、すっこんでろ! ガキがヒーロー気取りか!」
ユウキは小さくため息を一つ吐いた。
ここで派手な魔法を使えば、かつて領地でやらかした時のように、王都の古い建物ごと周囲一帯を完全に崩壊させてしまいかねない。そう判断したユウキは、今回は魔法を一切封印し、純粋な身体能力――すなわち肉体言語だけでこの場を片付けることに決めた。
「おい、痛い目は見たくないだろ。その子から手を離せ……」
ユウキの静かな警告を、悪漢たちは鼻で笑った。
だが、次の瞬間、彼らがユウキの動きを認識する間もなく、路地裏のよどんだ空気が激しく鳴動した。
ゴウ、と一瞬だけ風が鳴る。
ユウキの目にも留まらぬ鋭いローキックが、先頭の男の膝関節を容赦なく砕いた。ボキリと嫌な破砕音と共に男が崩れ落ちると同時に、電光石火の裏拳がもう一人の顎を正確無比に撃ち抜く。ゴツンと脳を揺らす衝撃音が狭い路地に反響した。
まともな抵抗すら許されず、残る悪漢たちも次々と硬い石畳の地面へと容赦なく叩きつけられ、激しい苦悶の声を上げて悶絶した。
わずか数秒の出来事。
ユウキは髪一筋乱すことなく、傷一つ負わないまま、冒険者風の服についた埃をパッパと払うほどの絶対的な余裕を見せていた。呼吸一つ乱れていない。
あまりの次元の違う強さに、それまで怯えていた少女は涙をためたまま息を呑み、呆然とユウキを見上げている。ユウキはそんな彼女の前に静かに膝を突くと、泥と涙に汚れた小さな手に向かって、優しく掌を差し伸べるのだった。




