11話 平凡の演者と、王女のまなざし
「まあ、何事もなかったのならよろしいですわ。それより……っ」
ミオルは急に居住まいを正すと、どこかぎこちない動作で自身の衣服の裾を整えた。わずかにその指先が震えている。
「お、お兄様、上着をお脱ぎになって。私が、その……お兄様の着替えや、お茶の準備をしてあげますわ!」
「は? いや、いい。自分でできるから」
「い、いいえ! やらせてくださいまし! 妹が兄の世話を焼くのは、当然の義務ですわ!」
これまでユウキの世話など一切したことがないどころか、目も合わせようとしなかった彼女である。当然、そんなスキルのあるはずがなかった。
ミオルは部屋の隅に置かれた茶器の前に立つと、おぼつかない手つきで高級な茶葉をポットへ入れ始めた。陶器がカチャカチャと頼りなく擦れ合う音が響き、お湯を注ぐ手元が危なっかしくて見ていられない。
「おい、危ねえって。火傷するぞ」
「だ、大丈夫ですわ! これくらい、朝飯前……きゃっ!?」
案の定、熱いお湯が数滴、彼女の白い指先に跳ねた。
ユウキは瞬時にベッドから跳ね起きると、ミオルの細い手首を掴んで引き寄せた。
「ほら見ろ。だから自分でやるって言ったんだ。……見せてみろ」
ユウキはミオルの指先を確認すると、かすかに残る前世の知識と、今世のチート染みた魔力制御を極限まで弱めて応用し、白く柔らかな指先を優しく撫でた。ほんのりとした心地よい温かさが走り、肌に浮かびかけた赤みが一瞬で引いていく。
「痛むか?」
「え……? あ、いえ……大丈夫、です……」
ミオルは顔を耳の裏まで真っ赤にして完全に固まっていた。
至近距離で見つめられるユウキの、ぶっきらぼうだが毅然とした瞳。そして、自分を心配して包み込んでくれるその大きな手の温もりに、肋骨の奥の心臓がうるさいほどに跳ね太鼓を打っている。あまりの気恥ずかしさに、じわりと涙目が上気した視界を潤ませた。
「自分でできるからいい。お前は座ってろ」
「い、嫌です! 私がやりたいのです……っ!」
ミオルは真っ赤になった顔を背けながらも、頑なに茶器の前に戻ろうとした。
指先を小さく震わせ、慣れない作業に必死にしがみつく姿。その瞳の奥にあるのは、出がらしと蔑まれていたユウキが実は圧倒的な強者であると知った畏怖ではなく、ただ純粋に今の彼の役に立ちたいという、切ないほどに健気な願いだった。
ユウキはため息をひとつ吐き、諦めたように頭を掻いた。
「……分かったよ。じゃあ、お茶だけ頼む。その代わり、ゆっくりやれ。焦るな」
「――っ、はい! お任せくださいまし!」
ミオルの表情が、ぱっと大輪の花が開いたように明るくなった。
それから数分。お世辞にも手際が良いとは言えない手順で、ようやく淹れ終えた一杯の紅茶が、ユウキの前のテーブルに置かれた。少し茶葉が多すぎて、色も必要以上に濃い。
「どうぞ、お兄様」
ミオルは両手を胸の前できゅっと握りしめ、期待と不安が入り混じったような上目遣いで見つめてくる。
ユウキは温かいカップを手に取り、静かに口をつけた。案の定、舌に残る渋みが強く、お世辞にも完璧とは言えない味だった。
だが。
「……悪くない。ありがとな、ミオル」
ユウキはぶっきらぼうに、しかし不器用な優しさを込めてそう告げた。どこか愛おしそうな色を帯びた、低い声音が室内に響く。
「っ……!」
その一言が、ミオルの胸に決定的な一撃を与えた。
心臓がドクンと大きく波打ち、顔だけでなく耳の裏までが沸騰したように真っ赤に染まっていく。嬉しさと恥ずかしさ、そして名前のつかない甘い感情が頭の中を激しくかき乱し、彼女は完全に言葉を失ってしまった。湯気の向こうで微笑む兄の姿が、潤んだ瞳の中で優しくにじんでいた。
「あ、明日、明日はもっと、美味しく淹れてみせますわ! だから、他の方に淹れさせては、絶対に駄目ですからね……っ!」
それだけを早口で言い残すと、ミオルは逃げるように部屋を飛び出していった。パタパタと廊下を駆けていく、せわしない靴音が遠ざかっていく。
バタン、と閉まった重い扉を見つめながら、ユウキは残された紅茶を再び啜る。渋みの中に、微かに不器用な温もりが残っていた。
「……あいつ、急にどうしちまったんだ?」
転生前の普通の高校生男子であるユウキには、義妹の劇的な心境の変化を正確に読み解くことはできなかった。自分がただ一言お礼を言っただけで、彼女が完全に手のひらの上で転がされる状態になっていることなど、知る由もなかった。
♢平凡の演者と、王女のまなざし
翌日、貴族学院の広大な演習場は、心地よい初夏の風に包まれていた。青々と茂る芝生が陽光を浴びて輝き、大気の向こうには王都の街並みがかすんで見える。
今日の授業は魔法の実技。ユウキは、昨日友人となった平凡な外見の少年、ラインハルトと並び、世間話をしながら順番を待っていた。




