5話 ここ本当に学校の授業なの?
HRが終わる頃には、もう数学の先生が教室に来ていた。
私の転入の挨拶で時間を食ったからだろう。
教室の空気が、HRの緩さから一気に授業モードに切り替わる。
授業の始まりに祈りって何?
生徒たちのざわめきが少しずつ収まり、ペンの音やページをめくる音が聞こえ始める。
先生は黒板の前に立ち、教卓に教科書を置くと、すぐに授業の準備を始めた。
チョークを手に取り、カツカツと黒板に線を引く音が響く。
その音が、なぜか私の胸に刺さる。
よりにもよって、一限目は数学だった。
……最悪。
私は数学の教科書を開きながら、小さく眉をひそめる。
並んでいる数字と記号が、冷たく私を睨んでいるように見える。
昔から思っていたけど、この手の記号はどうしてこう、威圧感があるんだろう。
Xや=、√やΣ……ただの線と曲がり具合なのに、暗号かって言いたい。
黒板には次々と数式が書かれていく。
途中までは分かる。
「ああ、これね」という感じで追える。
数式の形が頭に浮かんで、懐かしい記憶がちらつく。
でも。
少し先へ行くと、急に理解が途切れる。
さっきまで普通に追えていたはずの流れが、どこかでぷつんと切れて。
そこから先がまるで霧の中みたいに分からなくなる。
頭の中に霧がかかったみたいに、思考がぼやける。
まるで基礎を全部飛ばして、いきなり先の単元だけ見せられているような感覚だった。
いや、違うか。
たぶんこれは、習ったことはある。
ただ、覚えていないだけだ。
凛とか千景は数学得意そうだよね。
あの二人なら、さらっと公式解いて。
「綾こんなの簡単でしょ」ってからかうにきまっている。
私は小さく息を吐いた。
そしてなんとなく、机の端に置いてあった時間割に目を落とす。
そこで、ノートを書き写す手が止まった。
高校生って。
普通にフランス語まで履修するものなの?
英語なら分かる。
中学でもやっていたし、そこまで驚くことじゃない。
でもフランス語は、私にとって完全に未知の言語だ。
アルファベットは同じでも、読み方も文法もまったく違うらしい。
そんなものが、普通の授業として時間割に入っている。
さすがお嬢様学校というべきか。
知らなかった。
私は軽く首を振って、その考えを追い払う。
銀髪が肩に落ちる感触が、少しだけ現実を思い出させる。
セーラー服の袖が腕に擦れて、肌に薄い生地の感触が残る。
隣の席をちらりと見た。
舞がノートを取っていた。
真面目な顔で、黒板を見てペンを走らせていた。
ノートに書き込んで、また黒板を見る。
その動きが、思っていたよりずっと丁寧で、無駄がない。
ペンの先が紙を滑る音が、かすかに聞こえる。
彼女の横顔は、いつも騒がしいときとは別人のように落ち着いていた。
頬に落ちる髪を指で軽く払う仕草が、意外に大人びている。
ちゃんと授業受けてるんだ。
いつもはあんなにテンション高くて、やたらと騒いでいるのに。
意外と普通に優等生っぽい。
私はそんな舞の様子をぼんやり眺めながら、授業の声を半分聞き流していた。
頭の中に浮かんでいたのは、昨夜の話だ。
昨日千景の部屋で止まった時に教えてくれた。
夜のスポーツの前に、ふと思い出したみたいな顔で。
彼女の薄紫の瞳が、PCの画面の光を反射して、どこか遠くを見ているようだった。
まあ、それはそれとして。
この学校では、数か月前に自殺があったらしい。
表向きには公表されていない。
外には出ていない話だ。
学校の公式発表は、事故か体調不良による長期休学として処理されメディアも触れていない。
内情を少し覗けば、妙にきな臭い話がいくつも出てくる。
生徒の間で囁かれる噂、教師たちの曖昧な表情、
消されたSNSの投稿、突然消えた友人……。
自殺と失踪ねぇ。
まだこの2つが重なっているとは分からないけど、可能性は消さないでおきましょう。
それにしてもキリスト教では、自殺はかなり重い罪として扱われるはず。
他殺と同じくらい重い罪記憶がある。
私は、神様なんて信じていない。
神がいるのなら6月の事件も10年前の事件も起こるはずが無いのだから。
だから細かい教義なんて知らないけど。
おやっさんが一応は読んでおけと言って読んだ記憶はある。
おやっさん自身も無神論者だったけど。
まあそれにしても。
宗教なんて関係なくても分かる。
命を自分で終わらせるなんて、まともなことじゃない。
私は教科書に視線を落としたまま、ゆっくりと息を吐いた。
息が机の上でかすかに白く揺れる。
隣の舞はまだノートを取っている。
ペンの先が紙を滑る音が、静かな教室に小さく響く。
自殺と失踪。
表向きの「事故」や「家出」として片付けられた事件が、この学校の裏側で繋がっている可能性があるのだろうか?
理事長が私を呼んだ理由が、ますます気になる。
セーラー服の襟が首に軽く食い込み、息苦しさが胸に広がる。
今は授業中だ。
とりあえず気にくわないけど、真面目に受けるとしましょうか。
まずはこの学校の空気に慣れることが必要ね。
「そういえば。」
一限目の前に、礼拝っていうのがあった。
あれって、何をするんだろう。
それに。
聖書って何?
聖書の朗読でもするのだろうか?
慣れることが必要とは思っていたんだけど、もう授業サボりたい。
寝てたらダメかな?
懲罰室とかありそうでいやだな。
それにしても教室にいても、何か出てくるとは思えない。
ここで大人しく座っているより、動いたほうが何か掴める気がする。
転入生でサボるのは、さすがに目立ちすぎる。
なんか視線がチラチラ集まってうっとおしいし。
授業が終わったあと、休憩時間にでも校内を少し見て回ればいい。
廊下の端や、階段の裏、屋上への通路。
マップは頭に入ってるけど、実際に歩いてみるのと全然違ってくるし。
そんなことを考えていた、その時だった。
キーンコーンカーンコーン。
授業の終わりを告げる鐘が鳴る。
高い天井に響いて、教室の空気を震わせる。
生徒たちのノートを閉じる音、椅子を引く音が一斉に起きる。
私は椅子から立ち上がろうとした。
その瞬間。
「お祈りをします」
……は?
教壇に立つ数学教師の言葉に、私だけが思考を停止させた。
さっきまで黒板を埋め尽くしていた、数学の難解な数式が網膜に張り付いている。
教室の空気が、すっと冷やされたように静まり返った。
ペンが走る音、教科書をめくるざわめきがぴたりと止まり、微かな息遣いだけが耳に届く。
周りを見ると、生徒たちは当然の所作として胸の前で静かに手を組んでいた。
指先を揃え、緩やかに俯く。
一斉に動いたセーラー服の白い袖が、窓からの午後の光を跳ね返した。
隣の席の舞も、いつの間にか目を閉じている。
その横顔は、休み時間の賑やかさが嘘のように凪いでいた。
ちょ……ちょっと待って。
これは、本当現代の日本の高校なの?
ぽかんと立ち尽くす私を置き去りにして、教室は完全な祈りの領域へ沈んでいく。
誰一人動かず、声も上げない。
ただ、重厚な静寂だけが層を成して積み上がっていく。
背中を伝う汗が冷たく感じられ、自分の心臓の音だけが、鼓膜を内側から叩くように大きく響いた。
一分ほど続いただろうか。
静謐な時間が終わりを告げ、ようやく教室に血が通い始める。
私が恐る恐る椅子を引くと、その音が不作法なほど大きく響いた。
膝の裏に触れるスカートの裾を気にしながら、私はゆっくりと腰を浮かす。
「ごきげんよう」
揃いすぎた挨拶が、数学の授業の終わりを告げた。
その瞬間だった。
どっと、女生徒の波が押し寄せてきた。
「ねえ、彼氏いるの?」
「どこから来たの?」
「好きな食べ物は?」
一斉に声が飛んでくる。
気づけば、周りを完全に囲まれていた。
机の周りに輪ができ、制服の袖が私の腕に触れ。
質問が四方八方から飛んでくる。
声が重なり、笑い声が混じり、好奇の視線が熱く刺さる。
……ちょっと待って。
私は聖徳太子じゃない。
こんなに一気に話しかけられても、全部聞き分けられるわけがない。
耳がキーンと鳴り、頭が少しクラクラする。
顔が多すぎて誰が誰だかわからない。
どうするか?
この淑女たちの小鳥みたいな歌声が落ち着くまで待って。
「聞こえなかった」とでも言えばいいだろうか。
そう考えた、そのときだった。
「はいはい、みんな。一気に質問したら分からないでしょ」
声が割って入った。
舞だった。
彼女は私の隣から立ち上がり、両手を軽く広げて生徒たちを制する。
にこにこ顔のまま、でも声は少しだけしっかりしている。
人の隙間からひょいっと顔を出して、私にだけ見えるようにこっそりウインクする。
「それにさ、こんなに人がいたら質問を答えきれないじゃん」
舞はくるっと振り返った。
彼女の制服のスカートが軽くひるがえり、髪がふわりと揺れる。
その動きが、まるで教室の空気を軽くかき回すように見えた。
「お昼の時間に、ゆっくり聞けばいいんじゃない?」
私の邪魔をしないでくれる?
そこは私を解放する流れでしょ。
なにそんなめんどうな事を、推奨してるの?
ふざけるな。私は許可してない。
心の中でだけ、そう思う。
でも。
「それいい!」
「お昼に聞こう!」
「楽しみ!」
教室が一気に盛り上がる。
……ちょっと待って。
そこに、私の意思は一切入っていない。
完全に無視なの?
生徒たちの声が重なり、笑い声が混じり、視線が再び熱く私に集まる。
机の周りがさらに狭くなり、甘い香水の匂いが混じった空気が鼻をくすぐる。
みんなの目が輝いていて、好奇心が剥き出しだ。
これが、若さなのか。
十代の若さ。
こんなにアグレッシブに動くなんて、私には到底できない。
24歳の私は、もうこんなエネルギーを出せない。
正確には、疲れるだけだから出さない。
それでも、私は嫌だと言おうとしたんだけど。
彼女たちのエネルギーに押し切られてしまった。
声が喉まで上がったのに、飲み込んでしまう。
私は机に肘をついて、軽く頬杖をついた。
教室を見回すけど、みんなの笑顔が眩しくて、目を細めてしまう。
学校が楽しいんだろうな。
私は、あの事件が起こる前はそうだったけど、その気持ちも忘れちゃったな。
そして昼休み。
案の定、また質問攻めにあった。
教室の隅で囲まれ、机の上に置かれた弁当箱を無視して、次から次へと飛んでくる声。
「彼氏いるの?」
「好きなタイプは?」
「髪の色って天然?」
「どこから来たの?」
「休みの日は何してる?」
答えられる質問だけは答えたけど、めちゃくちゃ疲れた。
笑顔を貼り付けて、適度に返し、時にはそれは秘密とか冗談めかしてかわす。
銀髪が肩に落ちるたび、指で払う仕草が増える。
周りを見回しても、顔が多すぎて誰が誰だかわからない。
昼休みのチャイムが鳴るまで、ただ耐えるだけだった。
そして今日最後の授業。英語だった。さすがお嬢様学校。
先生はネイティブで、授業はコミュニケーションとか議論が中心だった。
教科書を開くと、すぐにグループディスカッションが始まる。
テーマは「環境問題と個人の責任」。
私は隣のグループに組み込まれ、英語で意見を求められた。
英語は結構得意だったりする。
櫻華の方でもしっかり学んでいたから。
古武術の師匠が、探偵やるんだったら国際的な事もと言って。
英語の文献を読み解くために叩き込んだ基礎が、今でも役に立っている。
気づけば先生と英語で議論していて、
「帰国子女ですか?」と聞かれてしまった。
「違います。ただ、中学生の時にかなり勉強したので、話せるようにはなりました」
正直に答えた。
先生が少し驚いた顔をして、「素晴らしいアクセントですね」と褒めてくれたけど。
アクセントは師匠のせいだよって毒づいていた。
発音は徹底的に直させられた。
基礎が大事だから、これは武術も同じって。
「基礎をないがしろにするものは必ず泣きを見る」
師匠がよく私に口酸っぱく言って叱ってくれたっけ。
すべての授業が終わった頃には。私の体力は、ほとんど残っていなかった。
高校生はマジですごい。
一日中、視線に晒され、質問に答え、授業に追われ、英語で議論し……。
こんなエネルギーを毎日出してるのか。
私は机に肘をついて、軽く頬杖をついた。
セーラー服の袖が腕に擦れ、襟元が首に食い込む。
茶色の瞳で窓の外を見る。
白壁の緑が、夕陽に染まって柔らかく光っている。
ああ。事務所でのんびりコーヒー飲んでいたい。
埃っぽい空気の中で、窓から路地のネオンが見えるあの狭い部屋で、ただぼんやりと座っていたい。
舞はいつもこんなハードな授業受けてから、私の事務所に来てたの?
私にはできないわ。
授業が終わっても、沢山のお嬢様が近寄ってきた。
「綾さん、今日はどうだった?」
「転校生って珍しいよね!」
「一緒に部活しない?」
机の周りに輪ができ、制服の袖が私の腕に触れ、視線が熱く刺さる。
私は机に肘をついて、頬杖をついたまま、笑顔を貼り付けて適当に返事をする。
瞳がぼんやりと机の木目を追う。
さすがに、うざいとか邪魔とか言ったらだめなんだろうなぁ。
普段だったら。
「それ聞いてあんたらに関係ないでしょ」とか
「毛並みのいいお嬢様だけど、うるさすぎ」っていう所だけど、仕事で来てるからなぁ。
どうしようと思ったその時だった。
「綾さんは、今日は、慣れない授業でかなりお疲れのようですので、寮で休ませたいと思いますの。みなさまもよろしいかしら?」
舞が一歩前に出て、そう言った。
彼女の声は明るいけど、どこかしっかりした響きがある。
にこにこ顔のまま、手を軽く広げてみんなを制する仕草が、意外に堂々としている。
周囲のお嬢様たちは少し名残惜しそうだったけど、
私がもう限界という感じで机の上に頭を乗せていたので、素直に引いてくれた。
「じゃあ、お疲れ様~」
「また明日ね」
「ゆっくり休んで!」
そんな声が飛び交いながら、輪がゆっくりと解けていく。
甘い匂いが薄れ、視線が離れていく。
生徒たちの足音が遠ざかり、教室の空気が少しずつ元の静けさに戻る。
机の上に残ったノートやペンの匂いが、かすかに漂う。
そのあとは、舞の案内で、当分の住処になる予定の寮の方へ向かった。
舞が先頭を歩き、私は少し遅れてついていく。
廊下の床が足音で小さく響き、窓から差し込む夕陽が長い影を落とす。
影が私のセーラー服の裾に伸びて、赤いスカーフを淡く染める。
足元に落ちた枯れ葉が、靴の先で軽く音を立てる。
舞は時々振り返って、「綾さん、大丈夫?」と笑顔で聞いてくる。
「大丈夫だけど」
「嘘だ。これいつものメンバーだったら一言言ってたよね」
「私の耳元でうるさい、黙らせてやろうかぐらいは言ってたかも」
「だよね。そろそろヤバいと思ったもん」
「だったら昼休憩の時の提案もやめてほしかった」
「あれやめてたら、毎時間の休憩が質問の嵐だったよ」
「マジで?」
「うん」
「もうこの仕事おりたい。学校も変だし」
舞が私の頭の上に手を置いてよしよししてきた。
私の方が年上なのに。
その手の温かさが、頭皮にじんわり伝わって、
少しだけ肩の力が抜ける。
手を振りほどくエネルギーは持ち合わせてなかった。
「今日は初日だから少し休んだ方がいいよ」
「とりあえず部屋を紹介して」
「はいはい、でもヤサとかこの学校で通じないからね。私は知ってるけどね」
舞はポニーテールをひるがえしながら、笑顔で答えていた。
とんでもない依頼を受けたなぁと今更ながら実感した。
私は小さく息を吐いて、舞の後ろ姿を眺めた。
夕陽が彼女の髪を赤く染め、制服の白い袖が軽く揺れる。
早く寮に帰って休みたいと思った。
「紫微綾の事件簿 case2 白き子羊の檻」をお楽しみいただけましたか?
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