2話 依頼
「綾さん珈琲です」
舞は、今日も学校帰りにここに来てコーヒーを淹れてくれていた。
マグカップから立ち上る湯気が、事務所の埃っぽい空気に柔らかく混じっていく。
彼女の指先がカップをそっと差し出す仕草は、いつもより少し丁寧で、
学校の制服の袖口がわずかに擦り切れているのが目に入った。
夏服のセーラー服でこんな場所に来るなって言いたい。
栄4丁目と5丁目の付近の奥側にある雑居ビルに女子高生が来るのは危険なんだけど。
路地の奥はネオンが薄暗く滲み、酔っ払いの声や怪しい足音が時折聞こえてくる。
階段の隅に溜まったタバコの吸い殻や、空き缶が転がっているのを見ると、女子高生が来ていい場所じゃない。
本人は、気にせずに来て助手という名の世話を焼いてくれてるけど。
「ありがとう」
私は舞からコーヒーを受け取りながら、考え事をしていた。
カップの温かさが掌にじんわり伝わってくるのに、
心の中は少し冷えていた。
今日も今日とて暇だった。
また凜や千景に仕事を回してもらわないといけないかな。
家賃三か月待ってもらってるし。
大家の声が耳に蘇る。
「家賃三か月分たまってるよ綾ちゃん」って、昨日言われたんだよなぁ。
何で同じ仕事している凜は、仕事がはかどっているのかすごく不思議。
しかも部下も数人いて結構大手だったりしている。
「舞もここにいても暇でしょ」
女子高生ならもっと遊びたいでしょうが。
友達とカフェに行ったり、ショッピングしたり、恋人作ったり
普通の高校生活を楽しめばいいのに、
なぜかこの狭い部屋で時間を潰している。
「そんなことないですよ。結構綾さん見てるのも面白いですし、綾さんの友達も愉快ですしね」
舞はカップを両手で持ちながら、にこっと笑った。
その笑顔が、事務所の薄暗さを少しだけ明るくする。
でも、私はその言葉に素直に喜べなかった。
「そんなものなの?」
コーヒーを一口飲んで、苦味が舌に残るのをじっと味わいながら、
私は舞の顔を赤い瞳でじっと見つめた。
まぁ掃除とか、このように珈琲とかが自動で来るから私としては楽なんだけど。
私はそう心の中で呟きながら、コーヒーのカップを軽く回して底に残った黒い沈殿物を眺めていた。
事務所の空気が、午後の残暑と埃の匂いが混じった独特の重さを持っている。
舞がいることで、普段の静けさが少しだけ和らいでいるのは事実だ。
私がそうやって夕方の暇な時間をのんびりしていたら、事務所の扉が開いてベルが鳴った。
古いドアの蝶番がきしむ音と、軽やかな鈴の音が重なる。
いつもより少し重い開き方だった気がして、私はカップをデスクに置いた。
舞が出迎えてくれるので、私も立ち上がり、扉の方に向かったんだけど。
舞がなぜか硬直して止まっているのでどうしたのかと思ったら。
「お母さん……どうして」
舞の声が小さく震えていた。
彼女の背中が、わずかに固くなっているのが後ろからも見て取れた。
扉の方の女性を見ると、見た目は三十代後半。紺のキャリアスーツをびしっと決めて着ていた。
肩幅がしっかりしたラインのジャケットに、膝丈のスカート。
髪はセミロングを後ろで一つにまとめ、化粧は控えめだが目元が鋭く、理事長らしい威厳が漂っている。
私と目が合うと舞の母親は一礼してきた。
「初めまして紫微さん。お礼を言うのが遅くなりました。雑賀瑠香と言います」
声は落ち着いていて、低く響く。
丁寧だが、どこか探るような響きが混じっていた。
「初めまして紫微綾と言います。立ちっぱなしもよくないので、あちらに」
私は立ちっぱなしもよくないのでソファの方に招待して、私は自分の席に座った。
デスクの椅子を軽く引き、腰を下ろすと、革の擦れる小さな音がした。
舞の母親はゆっくりと部屋に入り、名刺入れを出してきたので、私も立ち上がり近づいて名刺の交換をし、お互い座り直した。
名刺には「白壁女学院」の文字が書いてあった。
確か白壁女学院は
名古屋市東区、かつて尾張徳川藩の武家屋敷が連なった一等地に広大な敷地を構える。
市内最古の私立女子校だったと記憶している。
めちゃくちゃ有名なお嬢様学校で『白壁の君』とかいう名前で呼ばれたりする。
私とは真逆な学校だった。
舞の母親。理事長の視線が、事務所の狭さや埃っぽさを一瞬だけ掃くように動いた。
舞もはっとしたように、お客である舞の母親に珈琲の準備をして出してくれて、舞の母親の反対側のソファに座った。
カップを置く手が少し震えていて、湯気が揺れている。
舞は視線を落としたまま、膝の上で手をぎゅっと握っていた。
いきなり母親が来たとなったら緊張するのも当たり前だった。
私もいつも以上に緊張してるしね。
「お礼はいいですよ。私も仕事でしたので、すみません安田さんの事を守れなくて」
安田さんは6月の事件で亡くなった依頼者だった。
娘の舞が行方不明だから探してくれという依頼で動いていたんだけど、なぜか殺されてしまった。
私はカップをデスクに置きながら、低く返した。
声に少しの申し訳なさが混じったが、顔には出さないようにした。
赤い瞳で理事長の顔をじっと見つめると、彼女の表情は穏やかだった。
「いえ、それでもこのように、娘の舞だけでも守っていただいてありがとうございます」
雑賀さんの声は落ち着いていて、丁寧な感謝の響きがあった。
彼女はソファの上で、背筋を伸ばしたまま、軽く頭を下げる。
事務所の埃っぽい空気の中で、その仕草が妙に丁寧に映った。
「本日は、その話と舞さんの事で来たのですか?」
私はストレートに聞いた。
雑賀さんの視線が一瞬、舞の方へ移るのを捉えた。
普通の親だったら怒るんだろうな。私立探偵なんて怪しい職業だし、ここ治安悪いしね。
表には出てないけど、カツアゲ、性被害、ぼったくり、暴力など色々危ない地域なのに。
女子高生が雑居ビルに入り浸ってるのは、親としては複雑だとは思う。
路地の奥のネオンが窓からチラチラ漏れ、階段の隅に溜まったゴミの匂いが時折漂ってくるこの場所だしね。
そんなところで毎日顔を出している娘を見たら、誰だって眉をひそめるはずだ。
「先日は、私が経営している学校の問題も解決してくれたとかで」
理事長の言葉に、私は内心で小さく頷いた。
あぁあったね。そんな事件っぽいの。舞が自慢話で話してたのはハズかったけど。
「一応仕事でしたので」
報酬はコーヒーチケットと舞が作ってくれるケーキだけど。
私は淡々と返した。
声に余計な感情を乗せないように、ただ事実だけを述べる。
「舞は困らせていませんか?」
これは何なのだ?何かの面談?
私は舞の方を見ると、めちゃくちゃそわそわしているようにも見える。
彼女は膝の上で手をぎゅっと握りしめ、視線を床に落としている。
指先が軽く震えていて、制服のスカートの裾を無意識につまんでいるのがわかった。
「小さい事務所ですが、私の手が届かないことをよくやって助けてくださいますよ。本音を言うと高校生の女の子がこんな場所にいて青春を謳歌してないのはどうかなっていうのはありますが」
私はちらっと舞の方を向いて、いたずらっぽい顔で答えてみた。
口角を少し上げて、赤い瞳を細めて彼女を見る。
舞の頬がぽっと赤くなるのが見えた。
「もう!綾さん」
舞は席から急に立ち上がり、私を見つめた後で、母親の方を見てあっという顔で立ち止まってしまった。
立ち上がった勢いでカップが軽く揺れ、コーヒーの表面が波打った。
「このように仲良くやってます」
にこっと笑って答えて見せた。
私は舞を軽く撫でる仕草をしてみせ、理事長の方へ視線を戻した。
事務所の空気が、一瞬だけ柔らかくなった気がした。
「そうですか?紫微探偵 白壁女学院ってご存じですか?」
理事長の声は静かだったが、言葉の端に重みがあった。
彼女はソファの上で背筋を伸ばしたまま、私の目をまっすぐ見据えている。
「たしか舞さんが、通っている学校で名古屋市でも有名な女子高だとは知ってますよ」
こう見えて舞はお嬢様学校に通ってるんだよね。
母親がそこの理事だから仕方ないかもしれないけど。
厳格らしいから反動なのかね
私は舞を一度見てから、カップを軽く持ち上げて、一口飲んだ。
コーヒーの苦味が舌に残る中、事務所の空気が少し張りつめた気がした。
「お恥ずかしい事ですが、そこの理事も私がやっています」
理事長は小さく頭を下げた。
その仕草に、理事長としての威厳と、母親としての複雑な感情が混じっているように見えた。
先ほどもらった名刺には確かにそこの学校の名前が書いてあった。
「なにかあったのですか?」
私はストレートに聞いた。
何もなければこんな場所に来るわけないけど。
「当校の学生が行方不明なんです」
その一言で、事務所の空気が一瞬冷えた。
舞が息を飲む小さな音が聞こえた。
「警察には?」
「もちろん連絡入れました」
理事長は淡々と答えたが、声の奥に疲れが滲んでいる。
詳細はこうだった。
・1週間ほど前に外泊届が出されていた。
・昨日帰宅予定だったけど、帰ってこなかった
・学校側は不審に思って生徒の実家に連絡を入れたがそんな電話もしてないし、娘は帰っていない
という事がわかった。
雑賀さんが、もう少し追加してくれた。
「お恥ずかしい話ですが、そこのバカ娘も6月に失踪なんてしましたし、実際学校も不登校生などもいますから」
理事長の言葉に、私は小さく頷いた。
「そういえば、いましたね」
舞が慌てて口を挟んだ。
「もう私の話はいいじゃん。メッチャ気まずいんですけど」
彼女の声は上ずっていて、頬が赤くなっている。
ソファの上で膝をぎゅっと寄せ、視線を床に落としていた。
「でも警察に届け出たという事は学校のイメージとか悪くなりますよ」
私は淡々と指摘した。
理事長の表情が一瞬曇る。
「今は学校のイメージよりは生徒を」
彼女の声は低く、しかしきっぱりとした。
これが本音ならすごく良い人なんだろう。
もしかしたら母親としての本音が、そこにあったのかもしれない。
「私にどうしろと?」
私はカップをデスクに置いて、理事長をまっすぐ見た。
「ご依頼をお願いしたいんです」
「ですが、警察などが動いているとなると一介の探偵よりも」
私は冷静に返した。
警察が動いている事件に、個人探偵が介入するのはリスクが高い。
重複捜査、情報漏れ、または最悪の場合、警察の足を引っ張る形になる。
出来ることと言ったら、情報を集めて玲奈に伝えるぐらいしか思い浮かばなかった。
「はい、外部の調査は警察の皆様にお願いしたいんです」
理事長はそこで言葉を切って、深く息を吸った。
私はすごく嫌な予感がした。
胸の奥がざわつく。
栄の路地裏で何度も感じた、あの冷たい予感。
警察が動いているのに、理事長がわざわざこの狭い事務所まで来て依頼する理由。
娘の心配だけではない。
警察に知られたくない何かがあるということ。
「舞から聞いてた通り、これなら大丈夫」
理事長の言葉に、私はカップをデスクに置いて顔を上げた。何が大丈夫なんだろう?
絶対にこれ厄介ごとだ!胸の奥で警報が鳴り響く。
「紫微探偵には生徒となって中から調査をしていただきたいの」
理事長の声は穏やかだが、目は真剣だった。
ソファの上で背筋を伸ばしたまま、私をまっすぐ見据えている。
警察が動いている事件に、探偵を生徒として潜入させるなんて、警察でもアウトだろう。
普通に考えてリスクが高すぎる。
それに、24歳の私が女子高生……ビジュアル的にどう考えても無理がある。
「いやいやいや、私学生の年齢じゃないし」
私は即座に首を振った。
そんな羞恥プレイなんてしたくない。
怜奈たちに知られたらシャレにならんでしょ。
「大丈夫です。その健康的な感じならきっとばれませんって」
理事長は軽く微笑んだが、その言葉が余計に腹立たしい。
健康的な感じって何?
私は舞の方を見る。
舞の白い夏服のセーラー服を見て、無理だって思った。
セーラー服を着たって、中身が高校生に見えるわけがない。
「えっと教員では?」
私は代替案を口にした。
体育とかなら教えられるはず。
「紫微探偵は教員の免許を持っていますか?」
「持っているはずがない」
即答だった。
理事長の視線が、優しいが容赦ない。
「あと先生になると生徒からの話などは聞きにくいと思いますので、もしかしたらこれ以上の事件が起きる可能性もありますので、お願いできませんか?」
「うっ」
私は言葉に詰まった。
確かに、教員だと生徒との距離が遠くなる。
事件がこれ以上起きる可能性が無いとは言い切れなかった。
6月の事件でも人身販売未遂なんてあった。
特に日本の学生は人気があるらしい。
「舞から聞いた話ですと警察とも協力関係にあるとかで」
あるけどさぁ。
玲奈とはドライな関係だけど、確かに協力はする。
それとこれとは別だ。
高校生って私は最後の抵抗を試みた。
「あと出来れば寮生活もお願いしたいです」
理事長の言葉に、私は思わず息を飲んだ。
「絶対に無理ですよ。夜に歩いたりして調査したらばれますって」
声が少し高くなった。
夜の寮を抜け出して調査なんて、女子高生のルール違反だしばれたら面倒くさい。
いくら私がそういう所を知らなくても個室はあり得ない。
「それだったら私の部屋だったらいいんじゃない。今私シングルだし」
舞が突然口を挟んだ。
彼女はソファから身を乗り出して、頰を赤らめながら目を輝かせている。
声が少し上ずっていて、興奮が抑えきれない様子だった。
私は舞を振り返って、赤い瞳でじっと見た。
バカ!提案しないで。
何を言い出すの。
「だって!私の寮の部屋今一人だし?だから綾さんと同室になってもだれも疑わない。夜にこっそり調査する時も、私の部屋からならバレにくいと思うし。助手の鏡」
舞の方を見て「首!クビ!くび!」って言い返してやりたい。
「ピロロン!」
その時だった。事務所の古いPCから、短く乾いた電子音が響いた。
確認しなくてもメールが来たと思った。
もしかして違う依頼なのか?
そう思いカップを置いて、画面に視線を移す。
「少々失礼します」
理事長に軽く頭を下げて、マウスをクリックした。
メールは千景からだった。
「受ければいいじゃん。そこの家賃3か月分たまってるんでしょ」
大きなお世話だぁつうの。
どこからか盗聴と盗撮してるな。
昔事務所で盗難騒ぎがあったから、この部屋だけは許可してるけどさぁ。
千景の奴、いつもタイミングが良すぎる。
ピロロン!
また新しいメールが来た。
「舞ちゃんが、通っている学校でしょ。彼女にも何か起きるかもね」
その一文で、胸のざわつきが一気に強くなった。
画面を睨みながら、私は小さく舌打ちした。
「ですが」
私は理事長に視線を戻し、言葉を探した。
「もちろん。こんなことを言ったら紫微探偵には不躾な依頼ですが、こちらも無理を言ってるのはわかっていますので、まずは着手金としてこれを」
理事長はそう言って、白い封筒を出した。
封筒は1センチぐらいの厚みがあり、手に取るとずっしりと重い。
中身が札束だとすぐにわかった。
「まずは着手金で、それから解決後には500万でどうですか?」
今、私の頭の中では目の前の金とプライドが勝負をしていた。
この年になって、セーラー服着て高校生をやれって言うのか?
でも目の前のお金は、家賃など払うのに必要だった。
やはり断ろうと思った瞬間。
私は舞を見てしまった。
押しかけ助手として2か月だけど、同じ学校の生徒だろ。
確かに、千景が言うように次のターゲットが舞だったら、私はセーラー服が嫌だから断るだろうか?
【警察の手が届かない場所で、悲しんでいる依頼人に手を差し伸べてやるのが探偵の仕事だと思っている】
おやっさんが昔言ってたはずだ。
私は深いため息をついて、雑賀 瑠香さんの目を見て、しっかりとうなずいた。
「この依頼、受けます。私がどのくらいできるかわかりませんが一生懸命行います」
声は低く、抑揚を抑えて出た。
でも、決めた瞬間、胸のざわつきが少しだけ静まった気がした。
理事長の表情が柔らかくなり、軽く頭を下げる。
舞はソファの上で目を大きく見開き、嬉しそうにしていた。
「紫微綾の事件簿 case2 白き子羊の檻」をお楽しみいただけましたか?
もし「続きが気になる」「応援したい」と感じていただけましたら、ぜひブックマーク登録と、ページ下部にある【評価する】ボタンから評価ポイントをいただけると、とても励みになります!
皆さんの応援が、次の話の執筆を進める力になりますので、どうぞよろしくお願いします!




