32話 最後の戦い
通気口の中は予想以上に狭く、埃と冷たい金属の匂いが鼻を突いた。
私は両肘と膝を這わせ、音を立てないよう慎重に匍匐前進を続けていた。
黒いレザーの衣擦れすら最小限に抑え、白銀の長い髪を背中に流して這い進む。
狭い暗闇の中で、赤い瞳だけが鋭く前方を捉えていた。
下方から、数人の慌ただしい足音が響いてくる。
まだ後方の部屋では、男たちの声が怒鳴り合っていた。
「侵入者はどこだ! 見つけたか!?」
「こちらにはいない! 第4区画を重点的に捜索しろ!」
……ふん。まだ私の正確な位置を掴めていないようね。
インカム越しに凛の冷静なナビが耳に届く。
私は彼女の指示に従い、ゆっくりと通気口を這い進んだ。
こんな狭い場所で見つかったら、身動き一つ取れずに蜂の巣にされる。
命がいくつあっても足りないわね……と思いながらも、唇の端が自然と吊り上がる。
やっと、目的の通気口に到着した。
細いスリットから下の部屋を覗き込む。
広々とした執務室の中央に、重厚なデスクがあり、一人の男性が座っていた。
四十代半ば、細い銀縁眼鏡をかけ、仕立ての良いスーツを着こなした、知的で落ち着いた印象の男。
一見すれば、どこかの企業の重役か、大学教授にでも見える。
……もしかしたら、社会的には「いい人」なのかもしれない。
なら、なぜこんな汚い犯罪に手を染める?
その瞬間、この組織のボスが立ち上がり、私の方を振り向いた。
彼は素早く机の引き出しを開け、中から銃を取り出す。
今だ!
私は通気口の蓋を両手で強く押し飛ばした。
金属製の蓋が勢いよく吹き飛び、ボスの顔面目がけて飛んでいく。
「っ!?」
ボスが咄嗟に身を引いた隙に、彼は銃をこちらに向け発砲した。
二発の銃声が室内に響き渡る。
しかし、どちらも通気口の金属板に当たって火花を散らしただけだった。
その瞬間、私は通気口から身を投げ出した。
空中で一回転し、静かに床へ着地。
着地と同時に、右手に細い針を構える。
ボスは眼鏡の奥で目を細め、ゆっくりと口を開いた。
「まさかここまで来られるとは……思わなかったな」
落ち着いた、低い声。
銃口はまだ私に向けられたままだった。
「貴女を先に封じておけば良かったようですよ」
「私をご存じなんて、光栄ですね」
「貴女は有名ですから」
「一介の貧乏探偵が有名なわけないでしょう?」
「そういうことにしておきましょう。……貴女には、この銃では勝ち目がない」
「私のこと、本当に詳しいのね」
私はゆっくりと、しかし確実に一歩ずつボスに近づいていった。
瞳で相手の全身を観察しながら、攻撃の隙を狙う。
黒いジャケットの裾が静かに揺れ、髪が室内の照明に鈍く輝いた。
「もちろん。所詮、探偵ごときだと思ったのが運の尽きだったのでしょう。先ほども言ったように、貴女を先に封じておけば良かった……」
ボスは眼鏡の奥で冷たく微笑みながら続けた。
「私を封じる?」
「ええ。あなたの知り合いの警察や探偵連中をどうにかするのは少々骨が折れますが……学校の理事長の娘や、池田公園の可愛いお友達を使えば、話は簡単でしょう?」
その瞬間――
私の胸の奥で、何かがキリキリと音を立てて凍りついた。
この男、どこまで調べ上げている?
私の大切な人たちにまで手を伸ばそうというのか。
怒りが一瞬で沸騰し、冷静な思考を焼き切った。
私は迷わず右手を振った。
飛針が回転しながら、暗い軌跡を描いてボスの右手に向かって飛ぶ。
ボスも即座に反応し、銃口をこちらへ向けて引き金を引いた。
しかし、私はすべてを見通していた。
櫻華流の動視を使用した。
世界がスローモーションのように遅くなり、弾道すら視認できる。
取針は高速回転を続け、ボスの手の甲に深々と突き刺さった。
クルクルと肉を抉りながら進み、骨にまで達する嫌な感触が、私の指先を通じて伝わってくる。
「ぐあっ……!」
ボスが苦痛の声を上げ、銃を床に落とした。
「櫻華流 飛刃」
私は静かに技名を告げた。
声は低く、しかし冷たい怒りが滲み出ていた。
「……もはやここまで、わが夢つい果てたり、か……」
そう言い残し、彼はゆっくりと膝を折った。
ボスが何かをカチッと噛み砕く音がした。
次の刹那、彼の口から大量の鮮血がドバァッと噴き出した。
温かく粘つく血が、私の頬と銀髪にべっとりと飛び散る。
「……君にも……」
血まみれの唇でそう言い残し、ボスはゆっくりと膝を折った。
眼鏡が床に落ち、ガシャンと乾いた音を立てる。
彼の瞳からは、すでに光が消えていた。
その直後――
ドォォォンッ! という地響きのような爆発音が連続して響き渡った。
天井の照明が激しく明滅し、壁にヒビが走る。
地下施設全体が、まるで断末魔の叫びを上げているようだった。
「自爆装置……!? このクズが!」
私は舌打ちをしながら、即座に出口へ向かって走り出した。
髪が血で赤く染まり、頬を伝う温かい感触が不快に張り付く。
崩れ落ちる天井の破片をかわし、揺れる床を蹴って全力疾走する。
『綾! 左の通路を直進! 五十メートル先よ! 急いで!!』
凛の声がインカム越しに、普段の冷静さを完全に失って切迫していた。
私は歯を食いしばり、目を鋭く細めた。
「了解……!」
背後で次々と爆発が連鎖し、熱い爆風が背中を激しく叩きつけてくる。
白い樹脂パネルが悲鳴を上げてひび割れ、天井の照明が次々と落下し、暗闇が猛烈な勢いで迫ってくる。
施設全体が断末魔の咆哮を上げながら崩壊し始めていた。
白銀の長い髪が血と埃と汗でべっとりと張り付き、視界を邪魔する。
私はそれを乱暴にかき上げながら、必死に走り続けた。
落ちてくる瓦礫を紙一重でかわし、激しく揺れる床を蹴り、熱風を切り裂いて前へ前へと突き進む。
息が上がり、肺が焼けるように熱い。
それでも足を止めるわけにはいかない。
ただ、生きてここから脱出することだけを考え、凛のナビに従って全力で駆け抜けた。
私はまっすぐ走り、凛のナビ通りに通路を突き進むと、三つの扉が並ぶ区画まで辿り着いた。
息を荒げながら隣の部屋に滑り込んだ。
そこにいたのは、美智子さんだった。
白いワンピース姿のまま、ベッドの端に静かに腰掛け、私の姿を穏やかに見つめている。
「どうやら……潰したみたいですわね、綾さん」
彼女の声は驚くほど落ち着いていて、まるで優しい午後のお茶会のような響きだった。
「貴女も逃げましょう。そして第二の人生を」
「わたくしは逃げませんわ」
「なぜ……?」
「貴女がそれを言うのですか? 私たちの天国を潰した貴女が?」
「天国だって……?」
「ええ。貴女にとっては悪の巣窟かもしれませんけれど……私にとっては、ここは天国でしたのよ」
その言葉が胸に突き刺さった。
近づこうとした瞬間、美智子さんはゆっくりと後ろを向き、ベッドに座り込んだ。
「貴女がいくら強かろうと、どうしようもありませんわ」
「力づくで引っ張ることぐらいできるよ!」
「無理ですわ。貴女が近づいた瞬間、私は毒を噛み砕きますから。……あなたもご存じでしょう? 組織の新型の毒を」
「死んでも意味ないじゃない……!」
美智子さんは静かに微笑み、そのままベッドに横になった。
長い黒髪が白いシーツの上に広がり、まるで眠りにつくように穏やかだった。
「私はこのままここで死にます。貴女は早く逃げなさい。私は私の正義があります。貴女には貴女の正義が」
「だけど……!」
私は立ち止まったまま、涙が止まらなかった。
頬を伝う熱い雫が、血と埃で汚れた床にぽたりと落ちる。
声が震え、抗議する言葉すら上手く出てこない。
美智子さんは最後に、私に向かって悲しげで、でも今にも消え去りそうな優しい笑顔を浮かべた。
「最後に……貴女はまだまだ動くことでしょう? 深淵、楽園、次のステージを楽しんでください」
「何、それ……?」
「先ほど、私のメールに届いた内容ですわ。意味はわかりませんけれど……貴女の事件は、まだ終わらないそうです。さぁ、行って」
そう言って、彼女は何かをカチッと噛み砕いた。
次の瞬間、口の端から鮮やかな赤い血が流れ出し、白いシーツを染めていく。
「この部屋の奥に行き……、3654という……番号を押せば……外に出られます」
血の泡を吐きながらも、彼女の声は最後まで優しかった。
そう言い終えると、美智子さんは静かに目を閉じ、ベッドに倒れ込んだ。
まるで深い眠りについたかのように、穏やかな表情のまま動かなくなった。
「……美智子さん」
私は拳を強く握りしめ、唇を噛んだ。
涙が溢れて視界がぼやける。
それでも、彼女の最後の意志を無駄にしないために、私は踵を返した。
背後では爆発の音がますます近づいてくる。
もう、時間がない。
背後から次々と爆発音が響き渡り、施設の外では中にいた人々がパニックに陥っている気配が伝わってきた。
叫び声と足音が混じり合い、地下の崩壊が地上にも波及し始めている。
私は美智子さんに教えられた通りに進み、暗証番号付きの分厚い扉の前に立った。
震える指で3654と入力すると、重い電子音と共にロックが解除された。
扉の先は緩やかな坂道の通路になっていた。
さらに奥の扉を開けると、金属製の階段が現れ、上りきった先にもう一枚のハッチがあった。
両手で力を込めて押し上げると、重い金属音と共に冷たい夜風が流れ込んできた。
ハッチから這い上がると、そこは薄暗い室内だった。
サッカーボール、陸上のハードル、マット、跳び箱などが無造作に積まれ、埃っぽい空気が鼻を突く。
体育用具倉庫……間違いない。
私は埃を払いながら立ち上がり、倉庫の扉を開けた。
冷たい夜風が一気に吹き込み、長い髪を激しく揺らした。
そこは、白壁女学院の校庭だった。
見覚えのあるフェンスと、遠くの校舎のシルエット、桜の木が夜風にそよいでいる。
……まさか、こんな場所に脱出口があったなんて。
私は小さく息を吐き、血と埃で汚れた頬を拭った。
夜の校庭の冷たい風が頬を強く撫で、長い髪を激しく乱れさせた。
肌に突き刺さるような冷たさが、まだ体中に残る熱と汗を一瞬で冷やしていく。
遠くで救急車やパトカーのサイレンがけたたましく鳴り響き、赤い回転灯が校舎の壁や木々を不気味に明滅させていた。
夜空の下、校庭の芝生が風にざわめき、どこか遠くで人の叫び声のようなものが混じって聞こえる。
すぐに玲奈へ簡潔な報告メールを送った。
指がまだ震えていて、打ち間違いを何度も訂正する。
後は警察に任せるしかない。
理事長に直接問い詰めたいことは山ほどあった。
この組織と学院の繋がり、楽園という名の闇の深さ、……聞きたいこと、確かめたいことが溢れていた。
しかし凛と千景からは「今はここまでにしておけ」という強い判断が届いていた。
反論はしたかった。
本当は、今すぐ理事長の喉元に針を突きつけて全て吐かせたかった。
でも……残存勢力がまだ動いている以上、舞や池田公園にいる大切な友人たちに危害が及ぶ可能性を考えると、迂闊に動けない。
歯がゆくて、胸の奥が煮えくり返るような苛立ちが収まらなかった。
私は体育倉庫の冷たい壁に背中を預け、深く息を吐いた。
肺の奥にまだ爆煙と血の匂いがこびりついている気がした。
頭の中に、二人の美智子さんが何度も浮かんでくる。
片方は、楽園によって殺された。
私を慕ってくれた女性。
もう少し何かできたのではないかと今でも思う。
デート中に彼女の笑顔とか仕草が今でもはっきり思い出す。
もう片方は、楽園によって救われた女性。
私がこの組織を滅ぼしたせいで、自ら命を絶った女性。
彼女は最期まで「ここが天国だった」と言い、私の目をまっすぐ見て、悲しげに微笑んだ。
その笑顔が、頭から離れない。
もっと良い方法は、本当にあったのだろうか?
彼女たちを救う道は、なかったのか?
私の独りよがりな正義は、結局誰かを死なせてしまっただけじゃないのか?
胸の奥が締め付けられるような痛みと、後悔がぐるぐると渦を巻いていた。
息をするのも苦しい。
……本当に、これで良かったのか?
この事件は表面上、終わったのかもしれない。
けれど、深淵から続く因縁は、まだ完全に切れていないのがわかった。
むしろ、これから何かが始まるような、嫌な予感が胸の底に澱のように溜まっていた。
私はペスパを隠してあった路地まで足早に戻り、愛車に跨った。
エンジンをかけると、低い振動が体に響く。
冷たい夜風を全身で受けながら、アクセルを捻った。
事務所に向かう道中、街灯の光が次々と後ろに流れていく。
夜はまだ始まったばかりだった。
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