30話 傲慢な騎士と、硝子の幸福
凜の指示通りに、薄暗い地下通路を走っていく。
急な角を曲がろうとした、まさにその瞬間だった。
行く手を阻むように立ちはだかった黒服の男性が、こちらに向けて無機質な銃口を完全に構えていた。
網膜に焼きついたその凶器の影に、考えるより早く反応する。
私は凄まじい制動で床を蹴り、強引に身体をひねって元の通路の陰へと飛び退いた。
それとほぼ同時だった。
鼓膜を震わせる鋭い破裂音が狭い通路に反響し、つい先ほどまで自分がいたはずの壁の角に、猛烈な勢いで弾丸が激突する硬質な音が激しく響き渡る。
飛び散ったコンクリートの破片と焦燥感が、肌をチクリと刺した。
幸いここまでは遮蔽物のない一本道だから、この角に身を潜めている限りは直撃を免れて大丈夫だとは思う。
けれど、のんびりしている猶予は一秒だってない。
もしかしたら敵が正規の出入り口から迂回して出てきて、この狭い空間で完全に挟み撃ちにあう可能性だって十分に考えられる。
一刻も早くここを突破しなければならず、これ以上時間は掛けたくなかった。
私は焦る呼吸を鋭く整えながら、太もものホルダーにぴったりと固定されている冷たい投げ針を指先に引っ掛け、3つ一気に引き抜いた。
『大丈夫なの?』
耳の奥の通信機から、焦燥を含んだ凛の声が鼓膜を叩く。
「ここを抜けないとどうしようもないでしょ。ここを出たら、もう、再潜入もできないし、玲奈達警察にすべて持ってかれちゃう」
心臓の高鳴りを抑え込み、吐き出すようにそう応じる。
『ならなんとかしなさい。そこを抜けたら扉が三つあるはずだから、真ん中の扉に入りなさい』
「了解」
凛からの冷徹で明確な指示を聞き届け、私は躊躇を捨てて角の陰から一気に前方へと飛び出した。
私にとって、唯一の明確な有利は、敵の隙を突いてこちらから先制して仕掛けられることだけだ。
ブレる視界の中で捉えた目標の黒服たちめがけて、指先のスナップを利かせ、手の中のナイフを三つ同時に放った。
銀光を放つナイフは激しく回転しながら空気を切り裂き、正確に黒服たちの硬い上腕へと突き刺さる。肉を裂く鈍い感触と共に、衝撃で全員がその手からガタガタと銃を落とした。
――本当に、この「飛刀」苦手なんだよね。
ただ前方に投げる分には形になるけれど、激しく動く実戦の中で狙ったピンポイントの場所に狂いなく当てるのが、私は本当に苦手なのだ。
冷や汗が背中を伝うのを感じながら、無事に当たってくれたことに心の中で深く安堵していた。
銃を落として怯む敵の隙を逃さず、私はそのまま一気に床を強く蹴って加速し、前方の空間へと鋭く跳躍した。
身体のバネを爆発させるようにして放った飛び膝蹴りが、先頭の黒服の胸元へ容赦なく突き刺さる。
骨の軋む鈍い衝撃音と共に、男の巨体が勢いよく後ろへとぶち倒れた。
息を吐き出す暇もなく、すぐさましなやかに床へと着地した。
その着地の勢いと回転力を使い、低く鋭い裏スピンキックを深く繰り出した。
激しく空気を切り裂いた足甲が、二人目の黒服の無防備なこめかみを正確に捉えて激しく強打する。
脳を揺らされた男は、糸が切れた人形のようにその場へ崩れ落ち、もう一人昏倒して倒れた。
残る最後の黒服が、激昂した表情でこちらに向けてがむしゃらに拳を殴りかけてきた。
私はそのパンチの勢いを真っ向からいなすようにして、自らの身体へと引き込む。
相手の突き出された腕を深く掴み、その突進のエネルギーをそのまま借りて、柔道で言う一本背負いの要領で自らの背越しに猛烈な力で前方へと叩き落した。
背中からコンクリートの床へ激突した男の身体が、苦痛に跳ね上がった。
投げの凄まじい反動をさらに自身の身体へと連動させ、上空へとわずかに浮き上がった体勢から、全体重を乗せた鋭い飛び肘を男の鳩尾へと垂直に鋭く落とした。
ドッと肺の空気を強制的に吐き出させる重苦しい衝撃が伝わり、完全に相手を完全に沈めてダウンさせた。
私は、乱れる呼吸を強引に押し殺しながら、そのまま前方の通路を奥へと向かってがむしゃらに走った。
すると、通信で凜が事前に言った通り、薄暗い壁面に全く同じ形状の扉が不気味に三つ並んでいた。
真ん中に入ろうと視線を定めた、まさにその瞬間だった。
ひんやりとした廊下の遥か奥から、こちらへ向かって急速に接近してくる、
数人の荒々しい人間の靴音がドタドタと不穏に響いてきた。
追手がもうそこまで迫っている。その生々しい足音のプレッシャーに、一瞬だけ完全に少し焦ってしまった。
凜に指示された真ん中の扉ではなく、咄嗟に一番手前にあった扉のノブを掴み、乱暴にこじ開けてその中へと滑り込むように入ってしまった。
部屋に滑り込むのとほぼ同時に、背後で重厚な扉を勢いよく閉め、私は油断なく背中を壁に預けながら室内の様子を素早く見渡した。
踏み入れたそこは、先ほどまでの冷涼な地下通路とは完全に隔絶された、目も眩むような異空間が広がっていた。
高い天井からは、無数のクリスタルが繊細な光の粒子を反射してきらめく豪奢なシャンデリアが吊り下がっている。
部屋の主役のように鎮座する大きなベッドには、柔らかな質感の美しい天幕が優雅に設えられていた。
壁際に整然と並ぶ重厚な本棚や、ガラス越しに繊細な輝きを放つ食器棚など、配置されている一通りの家具はどれもこれも一級品ばかりだった。
磨き抜かれた木目の艶や施された細工の細かさは、知識のない素人目にも間違いなく破格のいい代物だとはっきりとわかる。
個人の一人部屋にしては床面積がかなり大きく、どこか名のあるお嬢様が優雅に暮らしているかのような、贅を尽くした内装の部屋だった。
あまりの場違いさに息を呑んだ、その時だった。
広い部屋のさらに奥にある、もう一つの内扉の金属製のノブが、カチャリと冷たい音を立てて静かにまわった。
ゆっくりとドアが開いていく光景に、私の全身の筋肉が瞬時に弾かれるように強張り、いつでも動けるよう警戒をした。
しかし、張り詰めた空気の中に静かに姿を現したのは、およそ戦闘とは無縁の存在だった。
そこに立っていたのは、繊細なレースが施され、肌のぬくもりがうっすらと透き通るような淡いピンクのネグリジェを身にまとった、一人の美しい女性だった。
「今日は旦那様が来る日でしたか? それもこんな美しい奥様が来るなんて聞いておりませんわ」
鈴を転がすような甘い声でそう告げる彼女に、私はこの場に巻き込まないよう早く逃がそうと思って、近づいた。
だが、近づいた彼女は私を見上げ、まるで無垢な少女の様な可憐な笑顔を浮かべた。
そう思ったかと思うと、次の瞬間には、彼女の身体から甘い香りが立ち上り、私の唇へと吸い付くように急に深いキスをしてきた。
「ん……あぁ……っ」
驚きに息を呑んだ隙間に、彼女の熱く湿った舌が滑り込んできて、私の舌と複雑に絡み合い、妖艶な、じっとりとした甘い水音が鼓膜のすぐ傍の耳元に直接聞こえてくる感じがした。
思考が熱に浮かされて白く染まっていく。
彼女は、じっくりと味わうように私の唇をようやく解放したかと思ったら、休む間もなく私の衣服へと指先を滑らせた。
驚くほど手慣れた手つきで、私の革ジャンの金属製のジッパーをスムーズに下ろして、衣服の隙間から滑り込ませた手の平で、私の胸をやさしく愛撫するようにもみだしてきた。
直接肌に触れる指先のあまりのやさしさと、脳の奥まで痺れるような心地よさが全身へ広がっていき、私は次第に何も考えられないような、ただ熱い吐息を漏らすだけの恍惚状態に陥りかけていく気がした。
まさに、その時だった。
『綾、何をしてるの。バカなの?』
耳の奥のインカムから、冷徹で容赦のない、凜からの鋭いお叱りの言葉を聞き、私は冷水を浴びせられたようにはっとなり、激しく乱れていた正気を強引に取り戻した。
慌てて彼女の肩を軽く押して引き離し、絡みつかれていた熱い身体から自分の身体をようやく解放した。
「こういうのはお嫌いですの?」
衣服を整えながら、彼女はどこか小馬鹿にするような、それでいて艶然とした笑みを浮かべて問いかけてくる。
「嫌いじゃないけど、あなた達を解放しに来た」
私は乱れた息を整え、真っ直ぐに彼女を見据えて毅然と言い放った。
「解放? 何に対しての解放ですの」
「売春なんてやったらダメだろう。しかも弱みを握られて」
強い口調でそう言った、まさにその瞬間だった。
彼女は片手で上品に自らの口元を抑えながら、まるで美しい鈴の鳴るような透き通った声で、くすくすと楽しげに笑いだしていた。
「失礼。何の根拠があって、わたくしたちを被害者だと決めつけるのかしら?」
「だから……自分の身体を売って、そんなことを」
「そうですわね。一般的な倫理的にはそうですわ。貴女の言っていることに何一つ間違いはなくってよ」
「なら、私がここから解放してあげるよ」
「誰がそれを望んだのですの?」
「誰がって……?」
誰だっていやだろう。そんなの決まっている。
見知らぬ男たちにいいように抱かれて、人間としての尊厳を無残に壊されて。
誰がそんな、地獄のような人生を自ら望むというのだ。
私の胸の奥で、行き場のない憤りがじわじわと熱く焼けるように広がっていく。
「若いですわね。わたくしたちは、誰に強制されるでもなく自ら望んで、旦那様方に奉仕させていただいてますわ。その代わり、今まで以上の贅沢で何不自由ない生活をさせてもらっているのですよ」
彼女は滑らかな足取りで歩くと、部屋の隅にある豪奢なワインクーラーから、よく冷えた一本のワインを静かに取り出した。
そして、クリスタルガラスの美しいグラスを二つ並べて取り出し、手際よくこぽこぽと涼やかな音を立ててワインを注ぎ始めた。
シャンデリアの眩い光を反射して、透き通るような美しい白ワインが、滑らかな軌道を描いてグラスの中に満たされていく。
「あなたみたいな人に、とてもよく合うワインですわ」
「……どういう意味?」
「シュヴァリエ・モンラッシェ。日本名にすると、禿山の騎士ですわ。まあ、貴女は美しい髪をお持ちですから禿山ではありませんけれどね。その頑ななまでの、愚直な騎士道精神みたいでしたので」
彼女はその美しく輝くワイングラスを室内のテーブルにそっと置き、自らのグラスを指先で持ち上げて、黄金色の液体を優雅に一口飲んでいた。
「ワインを優雅に飲んでる暇なんてないの。追手が来る、さぁ行くよ」
私が焦りを滲ませて催促するが、彼女は全く動じる風もなく、グラスを見つめたまま冷ややかに唇を動かす。
「あなたの正義を、わたくし達に強要しないでくださいまし」
「あんたは……ただ、あいつらに洗脳されてるだけだよ」
「別に、そうだとしても構いませんわ。わたくしは今、この上ない幸せを感じておりますのよ。貴女は、わたくしたちが無理やり強制されてやっていると、頑なに思い込んでおりますわね」
「そうだけど……違わないだろう?」
「初めは怖かったですわ。ええ、何事も未知のものはそうですけれどね。けれど、そこで知り合った人達は、皆さん本当に優しかったですわ」
彼女はワイングラスを静かに置くと、まっすぐに私の目をじっと見つめてきた。
まるで、何も知らない幼い教え子に対して、世界の真理を噛み砕いて諭す慈悲深い教師のように、どこまでも優しく、そして逃れられない確信を込めて、その言葉を伝えてきた。
「人はね。一度上げてしまった生活水準というものは、どうしても下げられない生き物なのよ」
「……だから、そのために自分の身体を売るって言うの?」
「少し違うわね。けれど、物事を深く知らない貴女にわかりやすいように、今はそれでもかまいませんわ。わたくしたちと貴女とでは、見ている世界の価値観が根本から違いますので」
あまりにも悪びれず、当然のように言い放つ彼女の態度に、私は胸の奥からじわじわと込み上げてくる強いイライラを抑えきれなくなってきた。
「そんなに眉をひそめてイライラするときれいな肌が台無しになって壊れますわよ。ここへお見えになる旦那様、奥様方は、本当に優しくて温かい方ばかりなのですよ。わたくしの抱える小さなお不安を聴いたり、親身になって相談に乗ってくれることもありますし、逆に皆様方の心の傷やお話を聞いて、わたくしが優しく慰めることもありますわ」
「だったら……なにも、身体まで許さなくたっていいだろ。話を聞くだけでいいじゃないか」
「人は、ただ言葉を交わすだけの孤独では生きていられませんわ。心を埋める一番の手っ取り早い特効薬は、このように互いの体温を感じて、優しく身体を合わせることですわ」
彼女はまるで踊るように優雅に歩み寄ると、抵抗する暇もなく私を包み込むようにやさしく抱きしめてきた。ネグリジェ越しに伝わる女の柔らかい温もりと甘い香りが、私の嗅覚を優しく麻痺させようとする。
私は全身の筋肉を限界まで強張らせ、その抱擁を頑なに拒否をして彼女を突き放した。少しでもこの温もりに身を委ねて受けいれると、多分、私は二度と戻れない深い奈落へ堕ちるのが、本能ではっきりとわかるから。
「いわば等価交換。私はそれで深く癒されましたし、お見えになる旦那様、奥様方も同じように癒されておりますわ。それで私は、没落する前の昔の生活水準と全く同じ、贅沢な生活を維持しておりますわ。ここにいる皆さん、それぞれの形で幸せなのよ。どうか、汚い泥をこねくり回したような一般常識を、わたくしたちの楽園に持ってこないでくださいまし」
「だからって……!」
「それとも何かしら? あちら側の世界へ戻って、安い給料のために、頭の固い人達に使われて毎日毎日ペコペコと頭を捨てるのですの? わずかな、はした金の為に。そんな惨めなこと、わたくしには到底出来ませんわ」
彼女は優雅に、そして一瞬だけ、私の頑なな正義感を哀れむかのような酷く冷ややかな笑い声を私に向けた来た。
「あなたも、その身のこなしを見たところ、一般の方ではないのでしょ?」
「……対極にいるかもね」
「なら、わかるでしょ。一般の生ぬるい倫理では、わたくしたちはもう生きられないのよ」
「そんなことはないよ。抜け出す道はいくらだってある」
「かもしれませんわね。けれど、わたくしたちはそれを望まない。そろそろ、ここから行きなさい」
「あなたも連れていくよ。ここに置いていけない」
「それは、明確に拒否をいたしますわ。いくら貴女の運動神経が常人離れしていて、この厳重な警備を潜り抜ける潜入の力が強くてもね」
「やってみせるよ。力ずくでもあんたを連れていく」
「このような贅を尽くした部屋が、この広い地下でわたくし一人だけだと、本当に思うのですの?」
その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、冷水を浴びせられたような衝撃が走り、そんなわけがないよなって言う動かし難い現実に、私は今ようやく気づいた。
ここには、彼女のような人間が他にも大勢囚われているのだ。
「無断でここまで、誰にも見つからずに来られた手腕は見事だと思いますわ。いくら外に優秀なお仲間がいたとしても、今この場に潜入しているのは、貴女おひとりみたいですし」
そう言って、彼女は自らの綺麗な耳の縁を指先でトントンと軽く叩きながら、含みを持たせて言っていた。
私のインカムの存在、そして単独潜入であることを見抜いているのだ。
「それでも、私は――」
「この部屋の奥には、武装した人達も多数控えていますわ。あなたお一人なら、戦って逃げ切ることも可能かもしれませんけれど、戦えないわたくしを足手まといとして連れては、絶対に無理ですわ」
「……だからって、このまま手ぶらで帰ることなんてできないね。それに、あんた達を放っておけない」
「わたくしには、そこまで頑固な貴女を止める力なんてありませんわ。……どうしても進むと言うのなら、隣の部屋に入って、そのまま真っ直ぐ突き進むと、この施設の最深部に行けますわ」
唐突に差し出された明確な手がかりに、私は戸惑い、彼女の真意を測りかねて目を細める。
「……なぜ、敵であるはずの私にそこを教えるの?」
「ここも、そろそろ終焉ぽいので。……とでも言えば、貴女のその立派な正義感はご満足ですの?」
「……ありがとう」
さて、どうしようかな。意識を研ぎ澄ませて部屋の外の気配を探ると、重苦しい足音と殺気からして、どうやら配置についた兵隊の気配が五人ほどある。
この戦力をどう切り抜けようかと私が激しく思考を巡らせて思案していた、まさにその時だった。
彼女が不意に、優雅な足取りで天幕のあるベッドの方に歩き出し、その場にふわりとしゃがみ込んで隠された何かのスイッチを指先で深く触った時だった。
鼓膜を激しく引き裂くような、けたたましくてうるさい非常サイレンの大音量が、広い室内に容赦なく激しく鳴り響いた。
私はその突発的なサイレンの轟音に瞬時に反応し、いつでも奇襲を掛けられるよう扉のすぐ真横の死角へと素早く動いた。
サイレンに慌てて外の扉が勢いよく開いた。
私は溜めていた身体のバネを爆発させ、相手の顎を狙った強烈なハイキックを真横から鋭く放った。
真っ先になだれ込もうとした先頭の男性は、死角から急に来た音速の蹴りを回避することが全く出来るはずもなく、まともに顔面を捉えられて凄まじい勢いで後ろに倒れた。
その巨体が後ろの連中に激しく激突し、まるでドミノのように、後続の兵隊が三人まとめて床へ派手に倒れたみたいだった。
「不逞の者がわたくしの部屋に入り込みましたわ! あなた達、一体何をしておりますの!」
混乱する室内に、彼女の容赦のない冷徹なお叱りの高圧的な声がピシャリと響いた。
兵隊たちは、彼女の安全を最優先で確認しようとして視線を泳がせていたが、その一瞬の致命的な隙を逃すはずもない。
流れるような動きで残りの動揺している人間を完璧に叩きのめし、一網打尽にして倒し切った。
「あら。口だけではなく、本当に驚くほど強い方ですのね」
「それが、私の仕事なんでね」
私は呼吸一つ乱さず、冷たくなった床の兵隊たちを見下ろしながら不敵に笑う。
彼女はフッと小さく微笑み、グラスに残ったワインを飲み干した。
「わたくしには、この場所で生きるわたくしの正義がありますわ。そして貴女には、命を懸けて突き進む貴女の信念があることでしょ。……さあ、早くお行きなさい」
「……ありがとう」
「最後にお互いの不躾を水に流して、お名前を教えていただけませんか? わたくし名前は花梨といい……いえ、美智子と言いますわ」
その言葉が鼓膜に触れた瞬間、私は胸の奥を激しく突かれたような強い衝撃を覚え、ドキッとして彼女の顔をもう一度、貪るように凝視した。
目の前にいるのは、全くの別人だとは痛いほど理解している。
私のよく知っている、美智子は、無残に殺されたんだから。
けれど、その響きが私の心を激しく揺さぶる。
「……花梨って?」
「ええ、ここでの通り名ですわ。過去を捨てるためのね」
「そう、本当の名前を教えてもらって、ありがとう。私は綾だよ。紫微綾。栄6丁目で探偵をしてる。……何でも屋だよ」
「それでは。綾さん、どうかごきげんよう」
「ごきげんよう……美智子さん」
私は彼女の美しい佇まいを最後に網膜に焼き付け、そのきらびやかな部屋を静かに出て、すぐに隣の重厚な扉の手をかけて乱暴に開いた。
最深部へと続く、新たな闇がそこには広がっていた。
「紫微綾の事件簿 case2 白き子羊の檻」をお楽しみいただけましたか?
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