29話 潜入開始
目的地である旧土居下駅周辺に近づいた頃、インカムから凛の声が響いてきた。
「どうしたの? 愛おしい私の声が聞きたくなったとか?」
「聞いてるわよ。昨日大泣きした台風がいるって」
「それで何の用?」
「潜入前に私が渡した薬を、一錠飲んでおきなさい」
「数粒あったけど……あれ、何? 怪しい薬じゃないでしょうね」
「向こうが使う毒に対する耐性薬よ」
「なんで凛が?」
「そんなの、貴女のお師匠様からデータを貰って作ってもらったわ」
「作ったって……」
「あそこは古今東西の薬が揃ってるらしいわね」
「それは知らなかったけど……終わったら挨拶に行かないと」
「櫻華さんから伝言よ」
「鈴藍さんから?」
「『私達に喧嘩を売ってきたツケ、ちゃんと清算してきなさい』って言ってたわ。私は初めて見たけど、猫耳をつけた着物美女が出てくるとは思わなかった」
「でしょうね。身体が弱い方だから、1分しか全力が出せないんだけど……その時間内なら、私の十倍は強いわよ」
「バケモンでしょ」
「そろそろ着くわ」
「敵がどれだけいるかわからないから、気をつけてね」
「ええ」
教えてもらった座標は、あの浮浪者が段ボールで寝床を作っていた路地裏のすぐ近くだった。
夜の街灯がぼんやりと照らすアスファルトの上に、どこにでもある市の下水道マークが刻まれたマンホールのフタが鎮座している。
まさかこれが、敵の秘密施設への入り口だなんて……普通の人間なら一生思いつかないだろう。
誰もマンホールなどチェックしない。
それが彼らの計算だったに違いない。
私はベスパのサドルバッグを開け、冷たい金属の感触が指先に伝わる道具箱を取り出した。
中から特殊形状の金属製バールを選び、フタの小さな穴に慎重に差し込む。
「……ふんっ」
両足をしっかり踏ん張り、自重をかけながらテコの原理を利用して引き上げる。
サビと泥で固着した重い鉄の塊が、耳障りな軋み音を立ててゆっくりと浮き上がった。
グゥゥ……という鈍い金属音が夜の路地に響き、地面を震わせる。
そのままアスファルトの上を滑らせるように、力を込めて横へずらした。
二度、三度とテコを利かせて完全にどかした瞬間、私は思わず口の端を吊り上げた。
私の頭上を、小さな黒いドローンが無音に近い羽音を立てて旋回していた。
赤い警告灯が一瞬だけ瞬き、暗い夜空に溶け込むように飛んでいる。
千景が遠隔操作し、凛がこちらの映像をリアルタイムで見ているのだろう。
相変わらず、過保護な連中だね。
インカムから、凛の落ち着いた声が滑り込んできた。
『電気通信用の偽装刻印……裏面には電子ロックの基盤がびっしりね。千景の言った通り、本物の下水道を完璧に装ったフェイクだわ。』
フタを完全に外した穴の奥には、暗く深い縦穴が口を開けていた。
下へ続く金属製のハシゴが、冷たい光を反射して鈍く輝いている。
普通の下水道なら、開けた瞬間に吐き気を催すような腐臭と湿った熱気が噴き上がってくるはずだった。
しかし、そこから漂ってきたのは、無機質で乾いた機械油の匂いと、かすかに混じるエアコンの冷たい風だけ。
人工的で、まるで巨大な冷蔵庫の内部を覗き込んでいるような感覚。
予想していたドブネズミの巣窟とはまるで違う。
これは……本格的な地下施設だ。
「汚いドブネズミと鬼ごっこする覚悟をしてきたのに……拍子抜けね」
私は小さく鼻で笑いながら、黒いジャケットの裾を軽く払った。
長く白い髪が夜風に揺れ、赤い瞳が穴の奥の暗闇を射抜く。
ここからが本番ね。
よく考えたら、ここからお嬢様が入るんだから、汚い場所が入り口なわけがないのか……と今更ながら気づいた。
「今思ったんだけど、出入り口ってここだけじゃないよね?」
インカム越しに凛に尋ねると、すぐに落ち着いた声が返ってきた。
「なんでそう思ったの?」
「お嬢様にこの重いマンホールを開けるスキルなんてないでしょう」
「正解よ。あるにはあるけど、専用の鍵を持ってないと入ることは不可能な場所よ」
「なるほどね。ちなみにどこ?」
「白壁近くのお堀電車跡。特別な鍵が無いと出入り不可能な本当の正門よ」
「なるほどね……そこは盲点だったわ」
お堀電車なんて、普通に考えたら絶対に思いつかない。
名護屋城の堀を一部利用した古い電車跡で、今は廃線となり、雑草がぼうぼうと茂るだけの寂れた場所。
夜になると街灯もまばらで、人通りなど皆無。
そんな場所が、敵のアジトの主要出入り口だというのか。
表向きはただの廃墟、裏では極秘の地下施設……なかなか凝った作りだ。
「ここを潰しても、親元までは潰せないのか」
「そうね。多分、役人のお偉いさんがいるんでしょうね」
「それでも、潰していくしかないのね」
「もしかしたら、役人に目を付けられる可能性はあるけど……どうする?」
「どうするって?」
「役人に喧嘩を売る可能性があるわよ。利権が凄い金額になりそうだし」
「でしょうね。それでも行くよ。凛は怖気づいちゃった?」
「バカなこと言ってなくて、さっさと行きなさい」
「了解」
馬鹿話で少し緊張を解いた後、私は愛車のベスパを路地の奥、街灯の届かない物陰に確実に隠した。
エンジンを切り、静寂が夜の路地を包む。
銀髪を軽くかき上げ、周囲を素早く確認する。
誰もいない。監視カメラの気配もない。
私はマンホールの縁に手をかけ、音もなく縦穴へと滑り降りた。
冷たい金属のハシゴが指先に触れる。
一歩降りるごとに、機械油と冷たい空気の匂いが濃くなっていく。
頭上の小さな明かりが遠ざかり、暗闇が全身を包み込む。
足音を殺し、息を潜めながら、ゆっくりと深部へと潜行する。
ハシゴをかなり降りた先で、私は思わず息を飲んだ。
そこはコンクリートでできた通路などではなく、真っ白に輝く樹脂パネルで覆われた、まるで無菌室のような地下通路だった。
天井からは柔らかなLED照明が均等に落ち、壁面には太い光ファイバーケーブルが整然と束ねられて走っている。
空気は冷たく乾燥し、微かな機械油とオゾンの匂いが混じっていた。
シェルターの跡かもしれない……それ以上に、明らかに普通の組織が持つものではない。
わかっていたはずなのに、改めて実感する。
本当に、ただの犯罪組織なんかじゃないわね、これ。
私は黒いジャケットの裾を軽く払い、長い髪を指でかき上げながら小さく息を吐いた。
「道順、よろしくね」
『ええ』
インカムに短く答えた、その瞬間に、けたたましいサイレンが地下全体に響き渡った。
耳をつんざくような高周波の警報音が、白い壁に反響して何倍にも増幅される。
通路の奥から次々と赤い警告灯が点灯し、純白の空間を不気味な血の色に染め上げた。
……そりゃあ、ばれない方がおかしいか。
重いマンホールをこじ開けて堂々と降りてきたんだもの。
隠れて降りるなんて、最初から不可能だったわね。
なら、突き進むしかない。
『道のフォローは任せて』
「了解」
凜の声が耳元で聞こえてそう返事をした。
私は指示通りに、通路の奥へと駆け出した。
白い樹脂パネルの床がブーツの裏で軽く軋む。
長く白い髪が背中で激しくなびき、黒いレザーの衣擦れ音だけが自分の存在を主張する。
警報の音が全身を震わせる中、私は唇の端をわずかに吊り上げた。
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