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紫微綾の事件簿 case2 白き子羊の檻 (Vシネ風×百合×バイオレンス×探偵)』  作者:
5章

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27話 天使の微笑み、悪魔の取引

 千景に美智子のスマホを渡して、私は店内の小物を久しぶりに眺めていた。

 アンティークショップであり、しかも大須という土地柄か、店全体に独特の落ち着いた空気がある。

 埃っぽい木の香り、古い革の匂い、かすかに残る線香の香り。

 毎回来るたびに「ここ、いいよね」と心の中で呟いてしまう。


「千景さんのお店、初めて来ましたけど……これってアンティークショップってやつですよね?」

「そうだよ、千葉君。ここは千景がオーナーの、ちょっとしたがらくた屋だよ」

「綾、わかってるよね。今あなた私にお願いしてるのよ。このスマホのデータ、全部書き換えちゃおうか?」

 ……店の奥で解析していると思っていたのに、ちゃんと聞こえていたらしい。

 まったく、なんて地獄耳なんだろう。


 その後、千葉君と木崎君と他愛もない雑談をしながら、店内の商品をゆっくり鑑賞すること十分ほど。

 奥の部屋から声が掛かったので、私はスタッフルームへと足を向けた。


「全部聞けるようにしたけど……大丈夫?」

「うん。大丈夫」


 木崎君と千葉君は、素直に部屋の外へ追い出された。

 私は二人を改めて抱きしめ、胸の奥から溢れる感謝を言葉にした。


「俺たちも、力になりたいんですけど……」

「俺と千葉じゃ、力不足ですか?」

「子ども扱いしてるわけじゃないよ。ただ、適材適所を考えないとダメなの。この先は本当に命が危ない。……実際、あいつらは人の命を何とも思っていないみたいだから。二人がいなかったら、この事件は永遠に闇の中に消えていたと思う。本当に、ありがとう」


 私は二人の頰にそっと唇を寄せ、軽くキスをした。それから奥のスタッフルームへ向かった。

 千景は、おそらく内容の大部分を聞いていたのだろう。それほどヤバい内容なんだろう。彼女の判断に従う事にした。


「ヤバい感じなの?」

「ビンゴってやつ。多分、あんたはこれを聞いたら後悔すると思うよ」

「だったら、慰めてくれるんでしょ?」

「慰める役は玲奈だからね」

 千景は「知らないわよ」という顔で、部屋の奥にあるたくさんの機械をピコピコとキーボードを触っていた。

 画面の青白い光が、彼女の横顔を不思議と儚く照らしている。


 スマホの録音が始まったようだった。

 最初に聞こえたのは、紙がこすれるようなガサガサという音。

 続いて、落ち着いた女性の声が流れ始めた。


『改めてお聞きしますが、澤美智子さんで間違いありませんか?』

『本当に……天使様ですの?』

『あなた様のご家庭の事情を主がすべてお調べになり、わたくしたちをお仕えするよう命じられました』

『長い間、お探ししておりましたわ』

『まずは大事なお話がございます。喫茶店では人目がございますので、こちらへ着いてきていただけますか?』

『ですが両親に連絡を……』

『ご心配には及びません。両親の方へはこちらからすでに連絡を入れております。失礼ですが、スマホをお預かりしてもよろしいでしょうか?』

『……申し訳ありませんわ。普段そういうものを持ち歩いておりませんので、今日は忘れてしまいました』

『そうですか。ではこちらへ』

 喫茶店のベルの音が小さく鳴った直後、足音が乱れ、車に乗せられた気配がした。


「綾。ここから10分は車の中だよ。だから降りる所まで一気に飛ばすね」

「うん」

 千景の指が画面を滑る。車のドアが閉まる重い音、エンジンの低い唸り。タイヤがアスファルトを擦る振動が、録音越しにも微かに伝わってくる。

 やがて車が止まり、ドアが開く音。複数の足音が石畳のような硬い地面を歩いている。何か金属的な反響音が混じっているけど……何だろう。


『まあ、マンホールにこんな入り口が……』

『ご内密に。色々とお手伝いのために、このような入口を設けております』

『もちろんですわ』


 マンホール……。

 あの「マンとホル」をそのまま繋げれば良かったのか。

 深読みしすぎていた。

 私は小さく息を吐き、千景の横顔を横目で見た。

 彼女は無言でヘッドホンを片耳にかけ、画面を見つめたまま微かに眉を寄せている。


 早く気づいていたら、美智子は……。

「後悔は後にしなさい」

 千景に鋭く言われ、私はハッと我に返った。

 唇を強く噛み、ヘッドホンから流れてくる声に集中する。


 内容は、想像を遥かに超えてえぐかった。

 両親の生活を、今と同じ水準で一生保証する代わりに——美智子の身体を売れ、という取引だった。

 専門的な訓練を受け、女性経験のない「初心な男性」の元へ、お嬢様として送り込まれる。


 一夜を共に過ごさせた後、仕事が終わればすぐに処女再生手術を行い、再び純粋無垢な少女を演じる。

 そんな悪魔的なサイクルを繰り返す売春組織だった。

 美智子はただの商品。

 親は高級な檻の中で、娘の肉体を代償に安穏とした暮らしを買ったのだ。

 胸の奥が熱くなり、胃の底が冷える。

 吐き気と怒りが同時に込み上げて、私は無意識に拳を強く握りしめていた。

 爪が掌に食い込む痛みさえ、今は心地よかった。

 千景がそっと私の肩に手を置いた。冷たい指先が、震える私の体をわずかに支えてくれる。

「……最低だね」

 彼女の声も、いつもより低く、硬かった。


 一番性質が悪いのは、自分と同い年くらいの少女を抱かせるというシステムまであることだった。

「自分の娘を抱くのはタブーだけど、似た教養を叩き込まれた“他人の娘”なら……禁断の果実として最高に興奮するらしいよ」

 千景が低い声で補足する。吐き気が込み上げて、私は唇を強く噛んだ。

 親が路頭に迷う未来を突きつけられ、社会を知らないお嬢様に「こうなるわよ」とホームレスの惨めな写真や動画を何枚も見せられていたらしい。


 美智子の嗚咽が、録音越しに小さく漏れ聞こえてくる。

『あなたが納得すれば、全員が幸せになれるんです。相手の方々は真摯で紳士的な方ばかりですよ。乱暴な方は、このサービス自体をお断りするよう厳しく選別しておりますので』

『ですが……』

『あなたは今まで通り、気高くお嬢様のままでいればいいのです。その恥じらいも、とても大切ですから。……それとも、あなたはこんな未来を望むのですか?』


 ガンッ、という激しい音。男がテーブルを叩いたのだろう。

 続いて、女性の苦痛に満ちた喘ぎ声が流れ始めた。

 肉が打たれる鈍い音、罵声、泣き叫ぶ声。そして「働いた分のお金よこせ」という、脅すような男の声。

 美智子の息が荒くなるのが、はっきりと伝わってきた。


『家が没落した女性は、下賤な者の手によってこうなるのですよ。あなたも歴史で習ったでしょう? 明治以降、落ちぶれた士族の女性たちはどうなったか』

『それは……』

『姫様と呼ばれた者たちが、遊郭に身を落としたとありますよね』

『……それと、これからの私と何が違うのですか?』

『まったく違います。彼女たちは以前の生活など到底できなくなり、身体を壊して路頭に迷いました。しかし私どもは、あなたとご家族にこれまで通りの生活を保証し、自由さえ与えることができます』

『私の身体を犠牲にしてですか?』

『確かに犠牲かもしれません。ですが、この世のすべてに代償は必要です。安心してください。お客様にひどいことをする方はおりません』

『ですが、わたくしは恥ずかしながら……そのような経験が全くないのです』

『だからこそ、です。私どもはその恥じらいがあるからこそ、このような提案ができるのです。初めはきっと嫌な気分になられるでしょう。でも、それはご家族を守るための、尊い犠牲なのですよ』


 私は何度、この腐った提案の録音を消してしまおうと思ったことか。

 きっと美智子は……彼女は、私に仇を取ってくれと願って、この録音を残したのだと思った。

 最後の抵抗。

 せめて、誰かにこの地獄を伝えてほしいという、弱々しい叫びのように。

 そして数分後、美智子は震える声で「了承します……」と答えた。


 その瞬間、私の頬を熱い涙が伝った。

 ぽろぽろと、止まらない。

 指先が震えてヘッドホンを握る力さえ抜けそうになる。

 千景が無言で私の隣に座り、背中をゆっくりとさすってくれた。

 冷たい指先が、震える私の脊椎を一本一本なぞるように優しく動く。

 その温もりだけが、今の私を辛うじて繋ぎ止めていた。

 多分、時間にして二十数分後だったと思う。


 美智子の喘ぎ声が……いや、泣き声が、録音からじわじわと漏れ聞こえてきた。

 苦痛に満ちた、細く震える声。

 喉の奥から必死に押し殺そうとしているのに、どうしても零れ落ちてしまう嗚咽。

 布ずれの音、荒く乱れた息遣い、男の低い粘ついた笑い声、そして肌が打たれる湿った鈍い音が、断続的に、まるで耳の奥に突き刺さるように響いては消え、また響く。


「ごめんなさい……綾さん」


 その最後の言葉が、はっきりと刻み込まれていた。

 その瞬間、私の中の何かが音を立てて壊れた。


「う……ああああああああっ……!」


 私はもう限界だった。

 大声で泣き叫びながら、千景の胸に顔を思い切り埋めた。

 熱い涙が止まらず、彼女のシャツをびしょびしょに濡らしていく。


 肩が激しく上下し、息が詰まって苦しい。

 喉が焼けるように痛い。嗚咽が次から次へと溢れ出て、言葉にならない叫びが漏れ続ける。


「千景……なんで……なんであの子が犠牲にならないとダメだったの……! まだ十八歳の女の子だったのに……! 親が自分の娘を守らず、自分の平穏のために売り飛ばすなんて……許せない……絶対に許せないよ……!」


 千景は何も言わなかった。

 ただ無言で、私を強く、強く抱きしめてくれた。

 細い腕が意外なほど力強く、私の背中全体を包み込むように力を込める。

 冷たい指先が、震える私の背骨を一本一本丁寧にさすり続ける。

 その感触だけが、今の私を辛うじて繋ぎ止めていた。


「どうする? 怜奈に任せる? これは被害者のスマホよ……十分な証拠になるわよ」

「……私が、それを許すとでも?」

「しないわよね」

「動きたいけど今日は……」


 動くのは早い方が良いのはわかっている。

 頭ではそう理解しているのに、今のこの精神状態では絶対にまともな判断なんてできない。

 美智子の最後の声が、まだ耳の奥でリピートしている。

 泣き叫びたい衝動を、必死に喉の奥に押し込めている状態だ。

 こんな状態で行ったら敵の思うつぼだ。


「今日は私の部屋で休みましょう、って言いたいけど」

「言いたいけど?」

「もうすぐあなたの保護者が来るわよ」


 千景が静かにそう言った瞬間、


 お店の呼び出しチャイムが、鳴り響いた。

 アンティークショップの静かな空気に冷たく反響していく。

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