25話 訪問
玲奈からの信じがたい電話を切り、私は鉛のように重い体で舞の携帯へ連絡を入れた。
さすがに学校に行く気力なんてなかった。
ただ「今日は学校を休む」とだけ理事長にメールだけ送った。
静まり返った事務所の中で、私はソファの端に腰掛けたまま、じっと床の一点を見つめていた。
胸の奥を激しい後悔が、じわじわと焼き尽くしていく。
──なぜ、私は彼女を家まで送らなかったのか。
お嬢様学校の箱入り娘を、夕方の名駅という場所で、なぜ一人で改札口の向こうへ帰してしまったのか。
私の油断が、私の甘さが、彼女を死に追いやったのではないか。
昨日プレゼントされたトトロのハンカチの、冷たい感触だけが、私の指先に残酷な現実を突きつけていた。
ガチャリ、と重い鉄の扉の鍵が、静かに開く音が室内に響いた。
私はゆっくりと首を動かし、視線を事務所の玄関の方へと向ける。
合鍵を使って中に入ってきたのは、やはり、先ほど電話をかけてきた玲奈だった。
扉を閉め玲奈は、私の姿を捉えた瞬間にその琥珀色の瞳を大きく見開いた。
「綾、貴女どういう格好をしてるの」
「あぁ……起きてそのままだったから」
掠れた声で答える私を見て、玲奈は呆れたような、それでいてひどく心配そうなため息をつく。
そういえば、九月に入ったとはいえ、名古屋の夏特有のねっとりとした酷暑はまだ居座ったままだ。
事務所の壁に取り付けられたオンボロのクーラーからは、カタカタと虚しい金属音が鳴り響いているだけで、部屋にこもった不快な暑さをしのぐのにはまるで役に立っていなかった。
だから私は、薄い下着一枚のまま、汗ばんだ肌を晒してソファに座り込んでいたのだ。
「大丈夫なの?」
玲奈は、スーツのジャケットを脱ぎ捨てるようにして椅子の背に掛けると、私の前まで早足で歩み寄ってきた。
「美智子とは、昨日一緒だったんだよ」
私が膝の上に置いた両手をきつく握りしめ、掠れた声でそう呟いた瞬間だった。
「綾……」
玲奈が私に向かって床に膝を突くと、下着一枚の私の身体を、そのグラマラスで柔らかな胸の中へとぎゅっと引き寄せて抱きしめてきた。
包み込まれた彼女の身体からは、私を案じる確かな温もりが伝わってくる。
「わたしが……私が、ちゃんと送ってあげていれば……っ!」
彼女の温かさに触れた瞬間、胸の奥でせき止められていた激しい感情の決壊が、一気に弾け飛んだ。
私は大泣きで、彼女の胸の中で子供のように声を上げ、ずっと泣きだした。
玲奈は私の背中に両腕を回し、その間もずっと、優しく頭を撫でてくれていた。
十年前、玲奈の家で保護された時も、夜中あの怖さで泣き出した私を、こうして抱きしめてくれた時と、全く同じように。
「みっともないところを……」
どれだけの時間が経っただろうか。私は腫れ上がった目を擦り、鼻をすすりながら、ようやく声を絞り出した。
「綾のみっともないところは、昔から全部知ってるからいいわよ」
玲奈は困ったように、けれどどこまでも優しい笑みを浮かべ、私の濡れた頬をその親指の腹でそっと拭ってくれる。
私は少し落ち着いて、名残惜しさを感じながらも玲奈の胸から静かに身体を離した。
この歳になって、大人の女性の胸の中で、しかも下着姿のままで号泣するなんて、我ながら情けなくて笑えてくる。みんなに見られたら、間違いなく一生のネタにされていただろう。
あの人みたいに、どんな絶望を前にしても煙草を咥えてクールに佇むような、そんな完璧なハードボイルドにはやっぱりなれそうにないなぁ、と私は心の中で自嘲気味に呟いた。
「他の連中は?」
腫れた目を擦りながら私が尋ねると、玲奈はネクタイを緩めた首元に手を当て、沈痛な面持ちで息を吐き出した。
「話し合って、私が代表で来たの。昨日のあんたたちの状況とかも、私から捜査一課に伝えないといけないしね」
「うん……」
千景が拡散した写真のせいで、昨夜は深夜までみんなで私の事務所に集まっていたのだ。
一番付き合いの古いのと事件の容貌を伝えるために、玲奈がみんなと相談して、一人駆けつけてくれたのだろう。
玲奈は一度言葉を切り、現役の刑事としての鋭い眼差しを私に向けて、静かに口を開いた。
「まず、結論から言うわね」
「うん」
結論から?
私の胸の奥で、嫌なざわつきが急激に膨れ上がっていく。
玲奈のその言い方は、まるで事件の全容がすでに分かっているかのようなトーンだった。
「この事件は……事故として捜査が進められるわ」
「そんなわけないだろう!」
ドン、と事務所の木製デスクを拳で大きく叩きつけ、私は下着姿のまま立ち上がって彼女を睨みつけた。
あの真面目でお堅いお嬢様学校の美智子が、翌朝に路上で事故死するなんて、絶対にあり得ない。
「落ち着いて、綾」
玲奈は私の激昂を受け止めながらも、冷徹な現実を突きつけるように言葉を続けた。
「遺体に争った形跡、つまり目立った抵抗傷が見当たらないの。だから現時点では、お酒を飲んで相手と行為に及び、その帰りに急性アルコール中毒で亡くなった『事故』として処理されることになるわ」
「そんなはずはない」
怒りと悔しさで奥歯がギリリと鳴る。
美智子はそんな自暴自棄な遊びをするような女の子ではない。
私がきつく拳を握りしめていると、玲奈は悲しげに目を伏せ、持ってきた警察の荷物の中から一つの紙袋を私に差し出してきた。
「これ……昨日プレゼントした……」
差し出された紙袋から出てきたのは、昨日、私がどんぐり共和国で美智子に手渡した小さなトトロのぬいぐるみだった。
名駅の地下街で買ったお揃いの思い出が、いまは遺品という残酷な形に変わって私の手元に戻ってきたのだ。
「彼女、このぬいぐるみの袋を大事そうに胸に抱きしめて、まるで眠るように……」
玲奈のその言葉を聞いた瞬間、私の視界が再び激しく歪んだ。
せき止めていた涙が一気にあふれ出し、私は事務所の冷たい床の上で、今度こそ大声で慟哭した。
美智子の最後の瞬間が脳裏をよぎり、胸が引き裂かれるように痛む。
もう少し、彼女に寄り添ってあげた方がよかったのだろうか。
改札口で、なんで牛丼屋って思ったけど、また離れたくはなかったんじゃないかな。
多分、疑似的なものだったかもしれない。
けれど、彼女は確かに、私に恋をしていたのだと思う。
昨日の、あの耳まで真っ赤にして照れていた美智子の顔が、お互い笑い合ったあの時間が、もう二度と訪れないなんて、どうしても信じたくなかった。
ひとしきり泣き腫らした後、私はよろよろと立ち上がり、そのまま事務所の奥にあるシャワー室へと向かった。
脱ぎ捨てた下着のまま、冷え切った身体に一気に温水を浴びせる。事務所の設備はオンボロだから、なかなか温度調節が難しくて、熱すぎたり冷たすぎたりする水滴が容赦なく肌を叩いた。
私は水音に紛れさせて、シャワーを浴びながらもう一度だけ声を上げて泣いた。
涙と一緒に、昨日までの甘い感傷をすべて洗い流すように。
髪を乾かし、いつものタイトなレザーパンツと、黒の革ジャンに袖を通して外に出ると、玲奈がソファから静かに私を振り返った。
「すっきりしてきたようね」
「おかげさまでね。……警察が事故と判断したなら、もうこれ以上の公式な調査は?」
私が低く冷え切った声で尋ねると、玲奈は現役の刑事らしい厳しい表情を崩さないまま、小さく首を横に振った。
「新しい何かが現場から出て来ない限りは、動けないわね」
「なら、私が動いても文句はないわけだね」
革ジャンのポケットに、美智子から貰ったばかりのトトロのハンカチを忍ばせながら私が告げる。
玲奈は私のその眼差しを見て、諦めたようにかすかなため息を漏らした。
「あくまでも、事件だって言いたそうね」
玲奈は少しだけいたずらっぽい目をしながら、からかうようにそう言ってきた。捜査一課の切れ者としての仮面の裏にある、私の性格をすべて知り尽くしている女の目だ。
「分かっていて聞いてるでしょ」
「一応警察だから、止めたいとは思ってるけど……今回は、どう転んでも止まらなさそうね」
玲奈は長身の身体を少しだけ前に傾け、諦めたように肩をすくめた。
「多分、あの学園で起きてる失踪事件と繋がってる。……あいつはどうしてるの?」
今も警察が目を光らせてる病院の彼女のことを聴いた。
玲奈は首を横に振った。
「だんまりよ。覚えてないの一点張り」
「そう。……美智子ね」
「どうしたの?」
「私と同じで、今月いっぱいで学園を退学するんだってさ」
私が冷え切った声で告げると、玲奈は意外そうに琥珀色の瞳を見開いた。
「どうしてって、一応理由を聞いても良いの?」
「家がほぼ破産状態になって、あんな高いお嬢様学校の授業料が払えなくなったからって」
「そう……」
「学校辞めたら、ここへ遊びにおいでって言ったんだよ。ここで勉強して、高卒認定を取得して、それから大学にでも行けばいいじゃんって。私なりのアドバイスもしたんだ」
「そうなの?」
玲奈の言葉に、私は昨日までの平和だった時間に思いを馳せるように、少しだけ視線を落とした。
「私としては、また事務所が騒がしくなるから本当は嫌だったんだけどね。それでもさ……一度知り合ったからには、何かしら手助けしてあげたいと思ったんだよね」
「貴女らしいわね、綾」
玲奈はどこか愛おしそうな眼差しで、私の不器用な横顔を見つめてくる。
だけど、私の胸の奥で燻る怒りの炎は、その優しさすら焼き尽くすほどに激しく燃え上がっていた。
「そんな彼女が……あんな真面目で、絶望的な状況でも未来を諦めなかった彼女が、駅で別れてすぐに直帰もしないで、男と行為に及んでお酒を飲むって? お酒の味も知らなさそうな彼女が? チェーン店の牛丼屋にすら行ったこともなかった、本物の箱入り娘のお嬢さんが、そんな不埒な遊びをするわけないじゃん」
「……でも憶測では」
「警察は、動かないんでしょ。なら、私が動くよ」
そう言った瞬間だった。
静まり返った事務所に、玲奈のスマホの電子音がけたたましく鳴り響いた。
彼女は厳しい表情に戻って画面を確認すると、それを耳に当てて手短に指示を出し、すぐに通話を切った。
「抜け出しただけだから、もう行くわね。捜査一課の連中がうるさいの」
「玲奈」
「ん?」
上着を引っ掴んで玄関へと歩き出す彼女の背中に、私は一歩歩み寄った。
そのまま軽くつま先立ちをして、彼女の唇にそっと軽いキスを落とす。
玲奈は驚いたように一瞬だけ琥珀色の瞳を見開いたけれど、すぐにいつもの愛おしそうな眼差しに戻った。
「慰めてくれて、それから……本当のことを教えてくれてありがとう」
「……あまり、無茶はしないでよね」
「多分ね」
私が不敵にニヤリと笑ってみせると、玲奈は諦めたように小さく溜息をついた。
そうして重い鉄の扉を開け、足早に去っていく彼女の後ろ姿を、私は手を振って見送った。
パタン、と扉が閉まり、静寂が戻ってきた事務所の中で、私はポケットのトトロのハンカチを今一度強く握りしめる。
美智子──あんたは、こんな血臭いやり方は望まないかもしれないけれど
窓の向こう、早朝のどんよりとした名古屋の空を睨みつける。
必ず敵は取ってあげるから。……そこで待っていて
「紫微綾の事件簿 case2 白き子羊の檻」をお楽しみいただけましたか?
もし「続きが気になる」「応援したい」と感じていただけましたら、ぜひブックマーク登録と、ページ下部にある【評価する】ボタンから評価ポイントをいただけると、とても励みになります!
皆さんの応援が、次の話の執筆を進める力になりますので、どうぞよろしくお願いします!




