22話 日曜日の甘いお誘い
結局あれから事件という事件は、何も起きなかった。
一介の探偵では被害者がいる病院には行けないし、そもそもどこに入院しているのかも知らなかった。
金曜日だというのに、学生寮の自室は夕陽に溶け込むように静かだった。
窓から差し込む柔らかなオレンジの光が、部屋の空気をほんのり温かく染め、木製の机や本棚の端を優しく縁取っている。
私はソファに深く身を預け、舞に頼んで淹れてもらったコーヒーのカップを両手で包み込んでいた。
熱が掌にじんわり染み渡り、立ち上る蒸気が頬を優しく撫で、苦く甘い香りが胸の奥まで広がっていく。
「綾さん。どうするのですかぁ?」
舞が心配そうに身を乗り出して覗き込んでくる。
長い黒髪を赤いリボンでまとめ、夕陽の光を浴びて紫色の瞳が宝石のように輝いていた。
制服のスカートを指先でそっと摘まみ、こちらの顔をじっと見上げてくる。
その瞳の揺らぎが、夕暮れの柔らかな光の中で、はっきりと伝わってきた。
「どうするも何もないでしょ。手詰まり。どうしようもない。被害者がいる病室は、玲奈には教えられてないらしいし。流石の千景も警察にハッキングして喧嘩売らせるわけにもいかないしね。「このままいけば、『良家のお嬢様神隠し事件』も、本人が無事帰宅し、記憶も残っていなかったって形で処理されて終わる。私は報酬も貰えるし、学生生活まで体験できた。まあ、悪くない仕事だったよなで決着かな
そう言いながら、私は読みかけの雑誌を机の上に勢いよく叩きつけた。
ページがばさりと音を立てて閉じ、部屋の空気を一瞬だけ震わせる。
その時だった。
部屋の扉が、控えめな音でノックされた。
私はすぐに舞をベッドの方へ手で促し、わずかに声を低くして聞いた。
「誰?」
「澤です」
そっと扉を開けると、そこに立っていたのは市松人形のように可憐で上品な少女、澤美智子だった。
艶やかな黒髪が肩のラインで優しく流れ、陶器のように白く滑らかな肌が夕陽に淡く照らされて、ほのかに輝いている。
制服の襟元やリボンまで完璧に整ったその姿は、部屋の空気そのものを優雅に変えてしまうようだった。
「中に入りなよ」
「お邪魔いたしますわ。舞さんもごきげんよう」
「美智子様 こんばんは」
そこは、普通「ごきげんよう」で返すのが正しいんじゃないの?
「私、お邪魔ですか?」
舞が少し遠慮がちに聞くと、美智子は頬を薄く赤らめ、視線をわずかに泳がせた。
「じゃぁ。それなら」
……じゃぁ、って何だよ。続きを言えよ。
「居ていただいて構いませんから。それに今から外出すると校則違反ですわよ」
「それ言ったら先輩の方が違反でしょ?」
「そうですわね」
「舞も美智子もストップ。話が進まん。何か用なの?」
私がため息交じりに割って入ると、二人が同時にこちらを向いた。
「あ……あの……明後日の日曜日ですが? お時間ありますか?」
「無いって言ったら」
実際、明日から事務所に顔を出したり、関係者から情報を聞き回ったりする予定で、忙しいと言えば忙しい。
何とかこの事件を早く解決に導かないと、という焦りが胸の奥にあった。
私がそう言うと、美智子は急に目をうるうるさせ、泣き出しそうなほど残念そうな顔でこちらを見つめてきた。
長いまつ毛が小刻みに震え、下唇をぎゅっと噛んでいる。
……これじゃあ私が泣かせたみたいじゃないか。
「綾さんは、美智子様に付き合ってみてもいいんじゃない。事務所とかは私が見てくるし、何かあれば直接連絡入れるから」
「それは美智子の用事次第じゃない? くだらない事だったら付き合う必要ないし」
「え……えっと」
「美智子様、この人にははっきり言っておいた方が良いですよ。じゃないと本当に断りますので」
「あのさぁ、舞は、最近生意気じゃないの?」
「え~、女生徒のスキンシップで腰が抜けそうな人に向かってそんな態度しませんって」
そう言った瞬間、私は机の引き出しを乱暴に開け、針みたいに鋭く尖った鉛筆を一本掴み、舞に向かって投げつけた。
鋭い音を立てて鉛筆は舞の顔のすぐ横を掠め、黒髪の端をわずかに切り裂きながら壁に深々と突き刺さった。
「何か言った舞? わざと外したってわかってるよね」
「ちょっとした冗談じゃないですか。それに鉛筆ってそんなに危険な代物でしたっけ?」
「うちの流派、使用できるものは何でも使えだから……」
美智子は私たちのやり取りを呆然と見つめ、目が点になっていた。
「美智子、何?」
「あ、はい……えっと……その……もしよかったら、買い物を一緒に行きません……かぁ」
どんどん語尾が小さくなっていき、声が震えるように細くなっていった。美智子は指先で制服の裾をぎゅっと握りしめ、視線を少し落としながら、それでも最後まで言葉を絞り出すように言った。どうやらこれは、デートのお誘いらしい。
「いいよ。そういえば学園の子とは舞を除いて、一緒に遊びに行ったことなんてなかったっけ」
「本当に……いいのですか?」
美智子は一瞬で表情を明るくし、目を大きく見開いて身を乗り出してきた。さっきまでの恥ずかしさが吹き飛んだみたいに、声が弾む。
「夜の十八時ぐらいまでならいいよ」
「あ、はい! それで……あの、待ち合わせは金時計の前でよろしいでしょうか?」
「まぁわかりやすいからいいよ。時間は?」
「なら朝の十時ぐらいでよろしいですか?」
「朝の十時ね。ん~……」
「美智子様、いいですよ。きちんと起こしますので」
舞が明るく請け負うと、美智子はぱっと顔を輝かせ、期待で瞳をキラキラさせながら小さく身を乗り出した。
「何で遅刻確定で話してるわけ」
「だって綾さん、仕事でも十時に店を開けるのはごく稀ですよね。この学校に来てからも、休日の時は、十時ギリギリで走ってくることが多いじゃないですか」
「ば……いいのよ。私の個人事務所なんだから、開ける時間は私が決める。それに十時開店でも『十時ごろ』って決めてるからいいんだってば」
私が少しむっとした顔で言い返すと、美智子はくすっと小さく笑いをこらえ、指先で口元を軽く押さえた。
「めちゃくちゃアバウトじゃないですか」
「個人ってそういうものだよ。いうわけで、五分か十分遅れるかもしれないから」
美智子は頬を少し赤らめながらも、嬉しそうに何度も小さく頷いた。瞳が期待と照れで潤んでいるのがはっきりわかった。
「フフフ。待ってますので、慌てずに来てくださいね」
彼女の声は先ほどより明らかに弾んでいて、制服の裾を軽く握った手が、喜びを隠しきれずに小さく動いている。
「うん。どういう用事で誘ったかはわからないけど、楽しもうね」
美智子は「はい!」と元気よく返事をして、満面の笑みを浮かべた。
さっきまでの恥ずかしさが嘘のように、頬がぽっと桜色に染まっている。
彼女はそう言い残すと、軽やかな足取りで部屋を出ていった。
扉が静かに閉まる音の後、廊下に遠ざかっていく可愛らしいヒールの音が、しばらく響いていた。
「舞。どう思う?」
私はソファに深くもたれかかりながら、コーヒーカップを片手に舞に聞いた。
「綾さんが転校なのはもう広まってるから、最後に思い出を、じゃないですか? 結構あなた、落としてますし」
「落としてないし。誘惑もしてない」
「無自覚なのは罪だと思いますよ」
「そこまで鈍くないってば」
「綾さん、いじめとかそういうの防いだりしてるじゃないですか? あと困ってたら文句を言いながら手伝ったり」
「そりゃいじめは普通止めるし、先生に頼まれて大量の資料を持ってたら手伝うのは普通でしょ」
「普通じゃないですってば。普通は見て見ぬふりですよ」
「なんで?」
「いじめだと助けたら、反対にいじめられる可能性あるじゃないですか」
「見てるとむかつくし、だからあれは私の精神衛生上の為だよ」
「手伝いでも、便利屋に見えちゃったりして、何手伝わされるかわからないし」
「めんどくさぁ」
私はため息をつきながら肩をすくめた。
やりたいからやったでいいんじゃないの?
何でその年から周囲の事をそこまで意識しないといけないわけ?
意味わからないんだけど。
反対にいじめを無視してるのが鈴藍さんにばれたら、どんなしごきが待ってるか怖いものまである。
「そういうわけで綾さんのファンクラブ、けっこう多いんですよ。強くて美人でスタイルもいい。だから少し羽目を外してスキンシップする子も」
「あれはスキンシップの域を超えてるからね。どこのスキンシップにショーツの中に手を入れたり、制服の中に手を入れて胸をももうとするわけ」
「私に言われても仕方ないですか」
……そうだけどさ。
しかも女学生を本気でぶん殴るわけにもいかないし。
本当に困ったものだ。
そんな会話をしていると、スマホが立て続けにメールの着信音を鳴らした。
うるさいくらいに震える画面を見ると、怜奈、凜、千景からほぼ同時に送られてきていた。
『女子高生とデートなの?』
『情報早すぎだろ……』
私はため息をつきながら、簡単に理由を述べて返信した。
全く、うちの助手はまた私をからかいやがって。
助手に来た当初はあんなにいい子だったのに、誰に似たのやら……。
舞がくすくすと笑いをこらえているのが視界の端に見えた。
せっかくの休みなのに、面倒な日曜日になりそうだ。
私はコーヒーの残りを一気に飲み干し、空になったカップを机に置いた。夕陽がすっかり沈み、学生寮の部屋に柔らかな夜の気配が忍び寄っていた。
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