12話 作戦会議とうな重
栄の喧騒を背に、私は「ポムポム」の紙箱を片手に雑居ビルの古びた階段を上がる。
指先には紙越しにケーキの冷たさが伝わり、甘いバニラの匂いが微かに鼻腔をくすぐった。
事務所の前に立ち、ドアノブに手をかけた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
私は反射的に音を殺して扉を押し開けた。
刹那、視界の端で銀色の閃光が奔る。
「……ッ!」
回避は間に合わない。私は咄嗟に抱えていた箱を盾として前に突き出した。
ドスン、という鈍い衝撃。手の平に伝わるのは、繊細なスポンジとクリームが無残に潰れる厭な感触だ。
衝撃の出どころ、飛来方向を射抜くように、私の瞳が獲物を捉える。
一歩踏み込み、盾にした箱を容赦なく相手の進行方向の足元へ叩きつけた。
溢れ出した生クリームが床に広がり、場違いなほど甘い香りが充満する。
刺客の足元が、わずかに滑る。
その一瞬の隙を逃さず、私は腰の回転を乗せた右拳を、相手の顔面目掛けて最短距離で振り抜いた。
「綾、ストップ。降参だよ」
鼓膜を揺らしたのは、聞き慣れた、低く艶のある声だった。
拳が鼻先を割る寸前、私は強引に軌道を逸らす。拳風が相手の黒髪ボブを激しく揺らした。
そこにいたのは、白波凜だった。
彼女は余裕を崩さぬ微笑を浮かべたまま、しかし灰色がかった瞳だけは、鋭く私の出方を値踏みしている。
「凜……死にたいわけ?」
拳を引き、殺気を込めて睨みつける。凜は「やれやれ」と大袈裟に肩をすくめて見せた。
「まさか。ただ、最近ご無沙汰なのに、ちっとも『愛』に来てくれないからね」
軽口を叩きながらも、彼女は私の間合いを熟知しているかのように、一歩も引かずに最適な距離を保っている。
「どうやって入ったの」
「彼女に開けてもらったのよ」
凜が顎で示した先には、奥の部屋のドアが勢いよく開いた。
「綾さん! 自分の部屋くらい掃除してくださいよ!」
現れたのは、黒髪のポニーテールを揺らした雑賀舞だった。
彼女は呆れ果てた顔で腕を組み、仁王立ちで私を睨む。
「なんであんなに服とか下着が散乱してるんですか? 乙女の部屋とは思えません!」
「……忙しかったから。それとも何、私の下着を見て、……その、興奮でもしたわけ?」
私はわずかに頬を硬くし、視線を窓の外へ投げながら短く応じた。
自分でも無理のある挑発だと分かっていたが、やはり恥ずかしいものがある。
「バカですか? あんな、脱ぎっぱなしの惨状を見て興奮する人なんて、この世にいませーん! 言い訳、禁止です!」
舞の容赦ない言葉が、弾丸よりも正確に私の急所を撃ち抜く。
掃除用具を手に仁王立ちする少女の前では、形無しだった。
「舞。……ケーキ、買ってきたんだけど」
「え、ケーキ? どこのですか?」
舞の刺々しいオーラが、一瞬で霧散した。ポニーテールが期待に弾み、声が一段高くなる。
「ポムポム」
「あそこの! リーズナブルだけど美味しいから私、大好きなんですよ!」
舞が輝くような紫の瞳を箱に向け、吸い寄せられるように一歩近づく。
私は、足元の無惨な箱を指し示した。
ひしゃげた紙箱の隙間から、純白の生クリームが内臓のように無様に溢れ出している。
甘い、あまりにも甘い死の香りが鼻腔を突いた。
その瞬間、舞の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「……嘘、ですよね?」
舞が膝をつき、祈るような手つきで崩れた中身を覗き込む。
「綾、冗談だろ……?」
横から凜も同じように腰を落とし、信じられないものを見る目で箱の中を見つめていた。
「凜、あんたのせいでしょ」
顔を上げずに吐き捨てる。
「ぐちゃぐちゃだけど、味は変わらないから食べれるわよ。……でも、いきなりナイフを飛ばしてくる相手に、私が無抵抗でいると思った?」
「きちんと見なよ。ナイフだって鞘には入れてたんだから。……それに、あんたの師匠から『最近たるんでないか見てやってくれ』って頼まれちゃってね」
凜がわざとらしく肩をすくめる。鈴藍師匠――あの人のことだ、いかにも言いそうな台詞に私は内心で溜息をついた。
「言い訳はいいから、弁償。……せっかく報告ついでに、みんなの分も買ってきたのに」
私はつま先で、無残にひしゃげた箱を軽く小突く。
「あそこ、デリバリーやってないのよね。……別の店のケーキでもいいかしら?」
立ち上がりながら、凜が灰色がかった瞳を向け、小首を傾げる。
「構わないわよ」
短く返すと、横で舞が「ごちそうさまです!」と、消えかかっていた期待を復活させたように小さく頭を下げた。
その時、デスクに置いた端末が短く震えた。
静まり返った室内に、無機質なバイブレーションの音が鋭く響く。
私は手を伸ばして通話を繋ぎ、そのままスピーカーに切り替えた。
『昨日はずいぶんお楽しみだったみたいね、綾』
スピーカーから流れてきたのは、千景の声だ。大須の喧騒を遠くに感じさせる、艶っぽく、それでいて全てを見透かしたような含み笑い。
「……いきなりその挨拶か。相変わらず耳が早いわね、千景」
端末をデスクに戻し、投げやりな声で応じる。
『情報屋を名乗るまでもないわ。私でも凜でもないのなら、あともう一人しかいないでしょう? その上「ポムポム」の近くでしょ。玲奈しかいないじゃない』
楽しげな声が、通信のノイズを越えて部屋を満たす。
「違いないわね」
私が小さく頷いた、その瞬間だった。
背後から、しなやかで力強い腕が私の肩に絡みついた。
逃げ道を完全に塞ぐように、背中を温かな体温へと引き寄せられる。
「なんで私じゃなくて、昨日は玲奈だったの? ……時間はあったはずなのに」
耳元で、凜の低く湿った声が落とされる。首筋を掠める吐息が、わずかに熱を帯びていた。
「決まってるでしょ。……久しぶりに、玲奈の手料理が食べたかっただけ」
絡みつく腕を振り払うでもなく、私はそのまま淡々と答える。
『「はぁ~、やっぱり胃袋なのね」』
玲奈とスピーカー越しの千景の声が見事にハモった。
「……そこ、綺麗に合わせるのやめてくれない?」
凜が不意に顔を寄せた。
柔らかな唇が、私の口角を掠めるように、けれど確かな熱を帯びて触れる。
「……っ」
驚きを殺して目を細める私を、凜は楽しげな灰色がかった瞳で射抜き、そのまま勝ち誇ったように舞の方を見た。
「凜……からかうのはその辺にして。舞も、そんな申し訳なさそうな顔をしないこと」
私は、不器用な照れを隠すように呆れ顔を決め込み、短く呟く。
すると、返事の代わりに、今度は頬に温かな指先が触れた。
凜の細くしなやかな指が、愛おしむように肌をなぞり、未練を残しながらも潔く離れていく。
凜の視線が、ふと横に流れた。
その先で、張り詰めていた糸がふっと緩むような感覚。
舞の、動揺を隠しきれない荒い呼吸と、赤らんだ頬。
見なくてもわかる。
舞もかわいいから遊びたかったんでしょうね。
全く。
私は視線を向け、お仕事を開始するように勧めた。
「仕事料の配分は、千景と凜に二割ずつ。残りは私が引き受ける。……いいわね?」
話を強引に実務へと切り替える。
『「了解」』
またしても重なった二人の返事に、今度は舞が戸惑いの声を上げた。
「あの、綾さん……どういうことですか? 二割って……?」
「だって、二人とも私の従業員じゃない。ただの『協力者』でしょ」
私は肩をすくめ、至極当然のこととして言い放つ。。
「……ではなくて。えっと、皆さん、綾さんの……その、恋人、ですよね? こういう時は、もっと甘い感じというか……」
舞が困惑したように視線を泳がせ、言い淀みながらも勇気を振り絞って割り込んでくる。
「……ほら、ここ、万年貧乏ですし。多少は融通とか」
余計な一言だ!
私はこめかみに浮き出そうになる青筋を、コーヒーの苦みと一緒に飲み込んだ。
「公私はきっちり分けないと、この街の『闇』では生き残れないわよ」
精一杯のクールな声音で、私は舞の真っ当すぎる指摘を遮る。
探偵事務所の威厳を守るための精一杯の虚勢。
けれど、背後で凜が「ふふっ、家賃の足しにでもする?」と楽しげに笑う気配がして、私はさらに深く、カップの中に顔を伏せるしかなかった
私はデスクのコーヒーに手を伸ばした。
『ふふっ、そういうストイックなところが、私のお気に入りなんだけどね』
スピーカーから千景の艶っぽい笑い声が漏れた。
カップを口に運び、一口含んだ液体は、喉の奥に鋭い苦みを残した。
「そういうものですか……大人の世界って深いんですね」
舞がポツリと呟く。
「それなら、玲奈さんにも報酬を渡さないといけないんじゃ……?」
「玲奈はいいの。あいつは公僕だから、副業禁止」
私はそっけなく返し、カップを置いた。
カツン、と陶器が机に当たる乾いた音が部屋中に響いた。
「……さて。この一週間の調査報告を共有するわね」
意識を、情報の海へと深く沈めていく。
「数ヶ月前に起きた学院での自殺。最近、特に主税町と外堀に、不自然なほど浮浪者の自殺者が急増しているの」
私は指先でトントンと規則正しく机を叩き、頭の中でバラバラな情報の断片を整理していく。
「……そういえば、これについては舞の方が詳しいかもしれないわね」
「……何ですか?」
舞が紅茶のカップを手にしたまま、不思議そうに顔を上げた。
「天使って、何?」
「天使は、キリスト教における神の使いのことで……」
舞は当然のようにキリスト教における天使の説明をしていった。
「違う。キリスト教の天使の説明じゃないよ」
「なら、こっくりさんの一つで? あれは降霊術の一種で、手を出さない方が……」
違う。こっくりさんの類を訊いてるんじゃない。
「学校で、どうしても退学の事情を抱えた生徒に手を貸す。そんな『制度』の隠語はないの?」
私の問いに、舞は考え込むように視線を落とした。
「聴いたことありませんけど?」
理事長の娘の舞が知らないの?
ならなんであの子は?
「昨日、この地域の裏通りの方に白壁女学院の生徒が入り込もうとしていてね」
「……それ、かなり危ないだろ」
凜が眉をひそめる。
「正解よ、凜。拉致されそうになっていたところを私が拾ったわ。その子が言っていたの。『父の会社が傾いて、今の生活を維持できない。私には、天使様は来てくれないから』って」
「やはり……聞いたこともありません」
舞が困ったように首をかしげる横で、私はその子の言ったことを付け加えた。
『敬虔で、やむを得ない事情で学校を去る生徒の前には『天使様』が現れるんです。そして、今まで通りの生活を保障してくれる……。もちろん、相応の『奉仕』を続けることが条件』確かに助けた彼女は、こう言っていた。
「奉仕ねぇ……」
「凜、引っかかるでしょ?」
「ええ、ヤバい匂いがプンプンするわ。怪しいどころの話じゃない」
「私らの考えすぎならいいんだけどね」
私はもう一度、机を指先で叩いた。
その音は、静かな部屋の中で不気味なカウントダウンみたいに聞こえた。
私は冷めたコーヒーを見つめた。
「……で、なんでお嬢様が、わざわざこの地域に?名古屋で暮らしてたらこの地域のヤバさは知ってるはずだろ!」
凜の問いに、私は最後の一口を飲み干した。
「あぁ――『栄6丁目66番地の、赤い悪魔』に会いたかったそうよ」
冷めきったコーヒーは、さっきよりもずっと苦く感じられた。
言いたくなかったけど絶対に笑われる。
「あはははは! 『6丁目66番地の赤い目の悪魔』! あんたそういう噂になってるの!」
凜が椅子をのけぞらせて爆笑する。
「……変な噂ばかりが一人歩きしてるね」
私は不機嫌そうに鼻を鳴らし、空になったカップをデスクに置いた。
「千景、凜。浮浪者の連続自殺と、その『天使様』について調べて欲しいの? どうにも、根っこで全てが繋がっている気がするのよ」
私の言葉に、これまでの喧騒が嘘のように引き締まる。
『「了解」』
二人の声が重なる。
「舞も、出来る範囲で、『天使様』の噂を拾っておいて」
さすがに無理はさせられないけど
「はい、わかりました。……でも」
舞が紅茶のカップを持ったまま、どこか不安げに私を見つめた。
『――あぁ、それで思い出したわ』
スピーカーの向こうで、千景が思い出したように声を弾ませる。
「……何、千景?」
『あの子たちと「寝る」って、本当なの?』
一瞬、事務所の空気が凍りついた。
時計の針が刻む音だけが、不自然なほど大きく響く。
「……あぁ、この事件が片付いて、有益な情報を持ってきてくれたら、そういう『報酬』を出すって約束したわね」
私が淡々と答えると、間髪入れずに驚愕の叫びが重なった。
「「えええええええええええ!?」」
「ちょ、綾さん、どういうことですか!?」
舞が身を乗り出し、紫の瞳をひんむいて迫ってくる。
「勘違いしないで。寝ると言っても『添い寝』よ。……一線を超えようとしたら殺す、って条件はつけてあるし。それくらいなら、別に構わないでしょ」
「……驚いたわ。あんたが仕事で『身体』を報酬にするなんてね」
凜が呆れたように、けれどどこか複雑な表情で肩をすくめる。
「セックスしたいとは言われたけど。……添い寝くらいなら、減るもんじゃないしね」
窓の外に目をやると、いつの間にか栄の空は毒々しいほど鮮やかな夕暮れに染まっていた。
ビルの影が長く伸び、夜の帳が静かに街を飲み込もうとしている。
「送っていくわよ。ついでにご飯もね。舞ちゃんもいらっしゃい」
凜の落ち着いた声が、室内に残っていたざわつきを鎮めるように響いた。
「……ありがとう」
私たちは事務所を後にして、夕闇に沈みはじめた名古屋の街へと滑り出した。
凜の車の助手席に揺られながら、私は窓の外を流れる景色をぼんやりと眺める。
先ほどのケーキのお詫びとして、お腹には最高に贅沢なうな重をおごらせてやった。
現金なものだけど、少しだけ気分はマシになった。
車が向かう先は、白壁女学院の女子寮。
さあ、仔羊たちが集まる「檻」の中へ戻るとしようか。
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