15
どこへ向かうか? 決まっている。
久志は飆のように軽快に走った。
段ボール箱を抱える腕と胸が痛み、それでも一目散に走りながら、久志はただ一つの揺るぎない確信に支えられていた。あの此岸に漂着した瞬間に、何か大いなる運命と自分とが、この仔犬を介して結ばれたのだと。そしてそれが仔犬であったことに意味があり、それを見つけたのが自分であることにも意味があり、ひとたびそこへ干渉してしまえば、自分の行為はもう無答責では済まされないのだと。
久志の脚は自然と南へ向かっていた。今すぐ久志が頼るべき人間はただ一人しかいない。
あの御寺町の通りまではもう1キロもない。心なしか空模様が穏やかになり、風雨は緩み始めた。
優斗のペットショップがもう見える場所にある。久志の脇からまず黒い鞄が脱落し、続いて透明なビニール傘の締め紐が解かれながらだらしなく地面にぶつかって転がりながら半開きに乱れた。
そのとき丁度店の影からあの女店員が現れるのが見えて、久志は速度を緩めながら、彼女の前に停止した。革靴の底がタイヤのように擦れて音を立てた。一回りも背の低いそれに、久志は躊躇いもなくもたれかかるように段ボール箱を押し付けた。
「なんですかいきなり。通報しますよ」と店員は明らかに厭な顔をして大声で叫んだ。が、すぐに段ボールの中身に驚いて瞳を丸くした。
「……山本君はいますか。今、今から会えますか」
久志は息が切れてはきはき話すことが出来ない。
店員は眉を顰めた。
「店長なら店の中です。それよりこの子は」
久志はもうまともに話にもならなそうなので、段ボールをまた引き戻し、よろけながら店の入口のドアに向かおうとすると、
「いいから待ってて。勝手なことされると迷惑なんです」と店員は突慳貪に箱を奪って久志を押しのけた。
すると久志はやっと全身の緊張が抜け落ちて、そのまま力尽きるようにうなだれてよろめきながら、ロープに身を預けてリングマットに沈む誇り高い敗者のように、店先のしなびた花壇の隣に言葉なく腰を下ろした。
ややあって、店員がエプロンの前掛けで濡れた手を拭きながら、店先に出てきた。爪が濡れて、氷のように輝いている。その細い指先に光る透明な爪を見れば、それは少女だった。
一言も発さずに、少女は店先の浮浪者のような久志には目もくれず、ショウウインドウの雨除けの降りたアルミシャッターに背もたれると、冷たそうにすぐ背中を離した。まだ雨でうっすら濡れて、充分に乾いていなかったのである。そして俯いている久志を一瞥すると態々聞こえる大きさで舌打ちした。
それで彼女はまた浮かない顔をしたが、そういう不機嫌を除いても、彼女はあまり幸福と縁多い顔つきをしていないのだった。
「お兄さんさ、この前うちに来てた人だよね」
少女に急に話しかけられて、久志は膝を抱いて引き絞るように身構えた。
「あの子拾ってきたの? 困るな。この前来たばっかでさ。なんでうちしか思いつかなかったわけ? うちは何でも屋じゃないし、ペットホテルでもドッグランでもなければ、動物病院でもないんだけど。うちはしがないペットショップだよ。余計な仕事増やさないでくれない」
「でもそんなこと言って今僕に話しかけてるんだから、随分暇そうじゃない」
「は? 冗談は顔だけにしてよ。腹立つ」
面と向かって初めて話すのに、いきなりこうも露骨に悪態を吐かれるのは不当な気がしたが、久志は何故か面白そうに微笑んだ。
だが少女が、
「死にそうなら、放っておけばよかったのに」と言うと、久志は思わず言い返してしまって、
「そんな、そんなことよく言えるね。いくら何でも残酷じゃないか」
「残酷? 何様のつもり? そんな覚悟もないなんて弱虫ね」
「弱虫? じゃあ聞くけど、君なら放っておけたのか」
「私なら、そのまま川に流してあげた。それが私たちの責任だから。どうせまたあの河川敷の辺りに捨てられてたんでしょ?」
少女の逞しい双眸は仔犬の捨てられていた絶好の穴場も久志の心の耗弱もお見通しだった。一つの迷いもなしに言い切る少女の真面目な顔に、久志は今になって自らの犯した生命に対する不純な行為、行為に対する疑念を問いただされて嗚咽を感じ、よくよく考えてみれば、自分がこうして生命の残酷さに甘んじていることも、それについてあっけなく言い負かされたことも、色々不愉快だった。
久志も昔は、犬を捨てる人種と同じ、無責任に他人を虐げる側だったのに、今ではすっかり正義面をして、自分にはその覚悟など無いのに、自分以外の命を秤量せねばならない少女の側に立とうとしているのは、いくらなんでも愚劣で滑稽だった。
概して久志も少女も、全く同じ人間的公理を共有しているはずなのに、こうして一つも意見が合わないのは、二人がまるで鏡の向こう側と鏡のこちら側の世界にいて、鏡像異性な理論と理論の立場にそれぞれが従っていて、だからそのままではどうやっても、互いに打ち解け合うことも互いに重なり合うことも出来ないのだと、久志はがっかりした。
「でもどうかあの子は、あの子は助かると言ってくれ」
「そんなの私に言えるわけないでしょ。お世話になってる病院にも電話したけど、本当は台風が来るはずだったから人手が無くて厳しいって。午後から店を開けるのはうちみたいな小さいとこだけ。本当に最悪なときに最低な人。今お兄さんに出来ることは、とにかく信じることだけでしょ。どうなの」
「だからここまで連れてきたんだ」
「そ。なら良かったねうちに来て。うちの店長、大学は北海道の獣医学部だったんだってさ。お兄さんに同情する気は一切ないけど、店長が助ける気なら私は従うしかない。ああ、ほんと腹立つ」
久志は悲しんでいいのか喜んでいいのか、分からない。




