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アーケードモールを外れ、更に住宅街を抜け、久志は月山川の堤防に出た。身体中を雨に打たれながら、そのしとどに濡れた額には、微かな汗の滲みと涙の滴りとが、デッサンを逸した油絵のキャンバスのように混ざり合っていただろうか。
堤防に立ち止まって景色を眺めまわすと、久志が逃げ出た先に待ち構えていた世界も、結局は逃げ出してきた世界と同じ次元の延長上にあるに過ぎないのだが、それにしても恐ろしいほど整然としていた。
堤防内は増水し、泥色に濁った河面がぐるぐると大きな音を立ててはいたが、それが何かを犯す気配は一つもない。浸水を免れた河川敷の葦の緑は、雨滴と雨風を受けて瑞々しく光り輝いて揺れている。その対比は海と海に流れ出す河口の境目のようだった。
やがて難を乗り越えたとみえる夏虫の穏やかな午後の前奏の予兆がある。するとずぶ濡れの両岸の堤防を横断する錆び付いた鉄道橋を、運航再開したH本線の増便電車が、あちらの街からこちらの街へ、脇目も振らず駆け抜けていった。
久志は疲れ果ててその場に膝をついた。手に提げていた鞄と傘が左右に転がった。こう膝をついたのは数日ぶりだった。身体がそれを覚えていた。久志は数日前の優斗との再会を思い出すと、もう生きるのが辛かった。
久志は正確に、まだ何か赦されたという自覚がない。その上明日からは、また何も変わらぬ日常が続いていくということが耐えられない。赦されないくらいなら世界が滅んだって構わない。それなのに、やっぱり世界は何一つ変わらないし、それはつまり久志が死ねないで生きていくしかないということだった。
ここには確かに一つの救いもない。だが久志の前には、急流な、暴虐な濁流が流れている。どこからか立ち上がる力が湧いてきた。それは実に悪魔的な力だった。
久志が立ち上がろうとする前に耳に届いてきたのは、こういう心境にあって思いも寄らないものである。久志がその音を聞いた時、彼の肉体は悪魔の力を失った。それは音というよりももっと、幻聴のようなものに近い、殆ど微細な振動或いは波動であり、久志はじっと耳を澄ました。丁度天使の声を聴いた気がしたとき、我々はきっとこんな風にする。
久志はどこからそれが聞こえてくるのだろうと思い、地べたに這いつくばるように四方八方を見回してみると、堤防の坂下の河川敷の背の高い葦の根元に、雨に濡れてくたびれた小さな段ボール箱が流れ着いているのが見えた。
久志は頭の糸を引かれた操り人形のように立ち上がった。土手の荒々しい急斜面を転がるように下りて、近付いていった。葦と葦の瀬戸際に浮かんでいる厚紙の船の屋根を開いて覗き込むと、久志は愕然とした。
生まれてからそう経っていない小さな仔犬が、微動だにしないで、段ボール箱の中に力なく横たわっているのである。仔犬の金色の毛並みは、泥と雨で汚れて輝きを失い、冷害に遭った麦畑のように荒れ果て、抜け毛のために露わな横腹には骨が浮き出ている。きつく閉ざされた目元に溜まっている目やにの先に開いた口から長い舌が伸びきっている。呼吸が細い。
久志はよく考えもせず、段ボール箱を抱え上げると、斜面を駆け上がり、荷物も全部両手で抱え上げて、また走り出した。




