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空が火に焼かれてゆくように黒く、灰色の強風がますますうなりを上げて、大雨が撥音を響かす騒音が、事務室の窓ガラスを突き破らんと襲い掛かり、山積する遠雷と遠雷が幾度も白刃を振り交わしながら強め合っている。
だが俄かに天空を覆う重厚な叢雲に一条の裂け目が生じた。只ならぬ暗い湿気に密閉された世界は、丁度月山川の真上辺りで南北に大きく二分され、久志のいるこちら側はまだ暗く曇っているのだが、向こう側はというと、空の白い亀裂からまともに、天上界のかつてないほど清浄な、無音透明な太陽の澄澈した調べが差し落ちているのである。
その様子を事務室の中から窺っていた久志はなにか、昨日からあれだけ強く予感していた自分の危険、それは殆ど己と己の世界そのものの死と直結していたはずの危険が、実際には何のいたずらな脅威も持たなかったことに心底失望した。
しかもまた職場の噂好きで嫌味好きな中年女職員たちの「台風なんかじゃどうにもならないわ。この国は戦争にも大地震にも何度も耐えてきたんだからね」という知ったふうな品評会が頭に来た。久志は寧ろ少しは安心すべきだったのに、あれほど自分の心も肉体もその底まで毒のように侵し乱したもの、或いは確かに何か混沌とした新しい秩序を期待させたものが、ただの杞憂や不安であったと納得することだけはどうしてもできないのだ。
台風に己の滅亡を託すのがそんなにおかしなことだろうか。たとえ戦争では滅びなかったとしても、地震では滅びなかったとしても、もしかしたらたった一人の小さな女の子の涙から、世界は滅んでゆくかもしれないのに。
「なんだ、たいしたことなかったな」
「室長は台風なんて気にするよりも、まず奥さんの雷に怯えるべきじゃないですか」
「君うまいこと言うねぇ」
こんな室長と室長補佐のあっけらかんとした笑い話を聞くだけで、久志はその窓の外を眺める背の低い禿げ頭の中年二人の首を、今にも後ろから絞め上げて殺してしまいたいのだった。世界が滅びるとは、極論すればその程度のことなのだ。
……とにかく暴雨は、久志の渇きをほんの1ミリたりと癒さなかった。癒すどころか、久志はより脱水死や餓死の目眩を感じた。
それから台風は、予想進路と久志の期待を大きく外れ、列島の沖合に座礁し、それでもまた元の進路に戻ろうと必死に操舵し続けながら、しかし太平洋上のどこかで燃え尽きるように挫折した。
久志の早退時には天候は既に沈静化していた。まだ青嵐と小雨が台風の尾を引いているが、出歩くには既に心配の要らぬくらいのものである。
雨に濡れた傘をたたんで、脇に持って、俯いて、一歩一歩歩んでゆくうちに、久志はふと気付くと街外れの閑静なアーケードモールの入口に立っていた。バスの停留所はずっと前に通り過ぎていた。
雨風が勢いを失った商店街には既に人々が戻ってきている。若い男女が戯れに台風の無被害の取り越し苦労を、やはり陽気な笑い話の種に転化して、腰に手を回し合って揚々としている。商店経営者の老夫婦が、屋内に避難させていた商品棚をまた外へ引きずり出している。
ぱっと商店街の白い街灯が、一斉に点灯し、曇り空の地上を照らし出したときに、久志ただ一人だけが、まだこの世界の深い影に埋没していた。
混沌! 混沌! ただひたすらなカオス! カオスは一体どこへ行ってしまったのだ!
久志はこの世界が垂と破滅してゆく様子を今に今にと待ち望んでいたのに、街中にはそのような混沌などの気配のかけらもなく、一様で奇矯な統一感を持って、変わらぬ安息の日々を邁進している。
今すぐどこかに逃げなければならない。この安穏とした生活の鈍感さから逸脱せねばならない――久志は傘と鞄を抱えて、駆け出した。




