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八月も始まったばかりで、早くも超大型の台風が日本列島に近付いていた。台風の中心気圧は、列島近辺に迫って過去に類を見ない低気圧を保ち、台風通過による都市機能の麻痺はほぼ確実視され、台風上陸の前日の正午の時点で、既に気象庁の緊急発表が行われ、交通機関の台風上陸当日の計画運休が続々と発表された。
「明日は少し楽ね」
「何が。今日帰ったらもう大忙しでしょう。台風が来るのになんにも備えないの。お風呂に水張った? 御飯は買い込んだ? 懐中電灯は?」
「心配し過ぎよ」
久志の職場は例になく騒がしかった。台風の影響を鑑み、当日の午後からの校舎閉鎖が下命されると、久志はもともと短い勤務時間の契約形式ではあったけれど、台風当日はいつも以上の早帰りが決まった。
本当に、心配し過ぎなのだろうか。久志は中年職員らの話を盗みききながら考えた。
久志はその日の勤務が終わると、久志は帰宅の道すがら、いきつけの安価なチェーン系列の飲食店に立ち寄って、その日最初で最後のご飯を摂った。久志は一日一食生活である。
久志は明日、自分が台風によって予想だにしない不自由を強いられるだろうこと、百歩譲ってまだ不自由で済めばよいが、もしかしたらこれが今生の午餐になると考えれば、せめて明日の分までは余計に食べておかねばならない、その日もし何か起きたときには万事万全であらねばならない、死前の飢渇ほど哀れなものはないと考えた。すると何故か不思議な食欲が湧いた。死ぬと分かっていると、人間はこんなにも簡単に欲望を取り戻すことが出来るのか。だがやはり矜持も自信も失っていた男には、欲望の味は脂がきつすぎるのだった。
とはいいながら久志は感情を機械化しようと努め、久志は冷徹に死ぬほど食べた。死ぬほどと言っても普段の少食に慣れていた胃は、彼の空疎な食欲をすぐに拒んだが、それでも久志はいつもの倍は食べた。そしてトイレの個室に入って殆ど吐いてしまった。
吐いたからかその晩はとてもよく眠れた。それは自分だけが明日世界が滅ぶことを知っている預言者の歓喜の色を添えたうたたねに似た心地よさだった。
払暁の大雨に久志はうたたねを妨げられた。ぱっと目が開いた。スマフォの時刻は午前四時を回ってもいない。
街灯に照らされて黒光りする鋭い矢の群れがアパートのトタン屋根とトタン雨戸を激しく搏っている。半開きの雨戸の彼方はまだ仄かに白んでもいず、奥行きのない真暗闇に閉ざされていたが、そのとき暗闇の腹が突然切り裂かれて白い血飛沫を撒き散らし、世界は沈黙し、我々は何者かに時間を奪われていた。
ばちんと空気の千切れるような雷鳴が轟いた。久志はその瞬間、自分の胸の裡に、何か激しい隆起するような衝動が起こったかのように思われた。しかしその言いようもない興奮と緊張は俄かに久志を途方もなく疲れさせた。世界は何者かから時間を奪い返し、雨音が再び聞こえ始め、久志はまた静かな衰弱に落ちて行った。……




