第8話 「伯爵令嬢」
十四歳になっても、アカメは魔法を諦めていなかった。
十二歳の頃、ヴァルと二人で小川に向かって手をかざし続けた挙句、魔法どころか肩が痛くなっただけに終わった。
普通ならそこで才能がないと諦めてもよさそうなものだが、魔法が当たり前に存在する世界へ転生しておきながら、一度も自分の手から魔法を出せないままなのは何となく悔しい。
そこで教会の神官に頼み込み、初心者向けの本を一冊借りてきた。
『初級魔導書――魔力操作と五大属性』
少し擦れた表紙には、そんな題名が書かれていた。
誰もいない《月映みの湖》のほとりで、アカメは草の上へ本を広げていた。陽光を受けた湖面がきらきらと輝き、時折吹く風がページの端を揺らしている。
「『まず己の内に存在する魔力を感じ取ること。次に、発現させる魔法を明確に思い描き、その性質に適した術式を魔力によって構築する』……」
そこまで読み上げて、アカメは本から顔を上げた。
「分かる?」
「全然」
少し離れた場所から、即答が返ってきた。
ヴァルは湖など見てもいなかった。木陰に座り込み、手のひらほどの金属板と小さな工具をいじっていた。どうやら壊れた留め具らしいが、魔法の練習をしに来たはずなのに、もう完全に別のことをしている。
「読む前より分からなくなったんだけど」
「すごい本だね」
「褒めてないだろ」
「褒めてないよ」
アカメはため息をつき、もう一度本へ目を落とした。
書いてあること自体は単純で、身体の中にある魔力を感じ、使いたい魔法を想像する。そのうえで正しい術式を魔力によって構築し、そこへさらに魔力を流して発動する。
問題は、その最初から分からないことだった。
「そもそも『魔力を感じる』って何だよ……」
「身体の中にあるらしいよ」
「それは知ってる。どれが魔力なのか聞いてるの」
「神官さんに聞けば?」
「聞いたよ。『慣れれば分かります』って言われた」
「じゃあ慣れたら分かるんじゃない?」
「その慣れ方を知りたいんだよ!」
ヴァルは肩を揺らして笑いながら、手元の金属板へ視線を戻した。
二年前は一緒になって小川へ手をかざしていたくせに、今ではすっかり熱が冷めている。
「ヴァルもやろうよ」
「俺はいい」
「諦めるの早くない?」
「二年やって一回も成功してないんだから、十分じゃない?」
「毎日やったわけじゃないだろ」
「じゃあアカメはこの二年で何回成功したの?」
「…………」
「ほら」
何も言い返せない。
アカメは本を膝の上へ置き、湖へ右手を向けた。
まずは魔力を感じるところからだった。アカメは心臓の鼓動や呼吸、腕を流れる血の感覚を一つずつ確かめていく。そのどれとも違う何かが、この身体のどこかに存在しているはずなのだ。
しばらく集中していると、掌がじんわり温かくなった気がした。
「……来たかも」
「それ、日が当たってるだけじゃない?」
「今集中してるから喋らないで」
「はいはい」
頭の中で水を思い描いた。
湖から一滴だけでもいい。浮かび上がり、掌の上で球体になる姿をできる限り鮮明に想像する。
次は術式だった。
本には初心者用として、円といくつもの線を組み合わせた簡単な水属性術式が載っていた。アカメはそれを頭の中に描こうとした。
まず円を描き、その中に三本の線を引く。外側には小さな記号を配置して、右下から伸びる線を――。
「……あれ?」
途中で線の位置が分からなくなり、アカメは目を開けて本を確認した。
「そこ忘れるんだ」
「見ないで」
「見てないよ。音で分かった」
アカメは気を取り直し、もう一度最初から術式を思い描いた。
「……出ろ」
湖面は穏やかなままだった。
「水」
何も起こらない。
「水!」
近くで鳥が一羽飛び立った。
ヴァルが吹き出した。
「笑うな!」
「鳥には効いたよ」
「魔法じゃない!」
その後も何度か試したが、結果は変わらなかった。
ついには草の上へ大の字になり、アカメは空を見上げた。
「異世界転生って、もっと簡単に魔法使えるものだと思ってた」
「まだ言ってる」
「十四年目だぞ」
「俺に言われても」
「神様、転生特典くらいつけてくれてもよくない?」
「世界を救ってって頼んできた割には放任主義だよね」
「ほんとそれ」
二人が白い空間で女神と会ってから十四年。
世界を救ってほしいと言われたのに、これまで一度として女神から連絡はない。
何を救えばいいのか、何と戦えばいいのか、それどころか本当に何かが起きようとしているのかさえ分からない。
「で、それ何いじってるの?」
アカメが起き上がり、ヴァルの手元を覗き込む。
「荷車の留め具」
「また留め具?」
「前のとは違うよ」
「俺には全部同じに見る」
「だからアカメは駄目なんだよ」
「何で留め具で人格否定されるの?」
ヴァルは答えず、小さな金属片を光へかざした。昔から変わらない。魔法の話をしている時より、こういう物を触っている時の方がずっと楽しそうだった。
「ここの厚さが足りないんだよ。だから力がかかった時に曲がる」
「ふーん」
「聞いたくせに興味ないでしょ」
「正直、半分くらい分からない」
「じゃあ聞くなよ」
アカメが笑った、その時だった。
遠くから鐘の音が響いた。
鐘は一度、二度、そして三度と続けて鳴った。
教会の鐘とは少し違う間隔だった。
「何だろ」
ヴァルもようやく手を止めた。
村の方を見ると、道を急ぐ人影がいくつか見えた。
アカメは借りていた魔導書を閉じる。
「一回戻ろう」
「うん」
二人が村へ戻ると、広場にはすでに人だかりができていた。領主からの使者が到着し、翌日、エルヴァレイン伯爵がリュネ村を訪れると告げたらしい。
―✧―◇―✧―
「曲がってる」
「曲がってない」
「いや、曲がってるって」
「どこが?」
「襟」
「これ以上やったら首が締まるんだけど」
翌朝、村の広場へ向かう途中で、アカメはヴァルの襟元を見ながら笑いを堪えていた。
普段のヴァルは動きやすいシャツと丈夫なズボンばかり着ている。ところが今日は白いシャツに濃い色の上着、その上から新品らしいベストまで着せられていた。
明らかに服に着られている。
「似合ってるよ」
「今笑ってただろ」
「笑ってない」
「アカメだっていつもより変だからね」
「俺は母さんが作ってくれたから」
「俺も母さんが用意したんだけど」
「じゃあエルナさんに文句言いなよ」
「言えると思う?」
「……無理だな」
二人が正装させられている理由は単純だった。
今日、ベルディア領を治めるエルヴァレイン伯爵がリュネ村を訪れる。
領主がこんな小さな村へ直接足を運ぶことは珍しいらしく、朝から村全体が落ち着かなかった。家々の前はいつも以上に掃除され、村長は何度も広場を往復し、大人たちは子供たちへ「失礼のないように」と繰り返している。
「そんなに偉い人なの?」
昨夜、アカメが父に尋ねると、「この土地で一番偉い人間、と言えば分かりやすいか」と答えられた。
リュネ村も、ベルクも、街道で見た農荘も、すべてベルディア領にある。
つまり伯爵は、それらを治める人間ということになる。
やがて村の入口から数台の馬車が姿を現した。
先頭には騎乗した護衛たち。その後ろに、エルヴァレイン家の紋章が刻まれた馬車が続いている。
馬車が広場へ止まり、最初に降りてきたのは四十歳ほどの男性だった。
華美すぎない濃紺の上着に、銀色の装飾。姿勢は真っ直ぐだが、想像していた貴族のように周囲を見下ろす雰囲気はない。
村長が慌てて頭を下げる。
「エルヴァレイン伯爵閣下。このような辺境までお越しいただき――」
「顔を上げてください。今日は儀礼のために来たわけではありません」
穏やかな声だった。
「今年の収穫と、森の状況について直接聞きたい。それから、先月提出された農道の補修申請についても確認しましょう」
村長が目を瞬かせる。
「書面はすでにお読みになったのですか?」
「読みました。しかし、紙の上だけで領民の暮らしが分かるとは思っていません。現地へ来られる時くらいは、自分の目で確かめたいのです」
その言葉を聞き、周囲の大人たちの表情がわずかに和らいだ。
伯爵は村長だけではなく、集まった農家や商人にも次々と話を聞いていった。作物の出来、街道の状態、魔物の出現頻度。時には護衛の後ろに控えていた書記を呼び、その場で内容を書き留めさせていた。
その途中、農荘から来ていたらしい男が、おずおずと手を挙げた。
「伯爵様……一つ、お聞きいただきたいことが」
「構いません。どうしました?」
「娘が同じ農荘の者と夫婦になることになったのですが、婚姻の許可に追加の銀貨を求められまして……」
伯爵の表情が変わった。
「追加の銀貨?」
「はい。払えなければ、許可は出せないと」
「そのような費用は認めていません」
声を荒らげたわけではない。けれど、その場の空気が一瞬で引き締まった。
伯爵は隣の書記へ視線を向ける。
「記録を。領都へ戻り次第、該当する農荘を調べます」
「ありがとうございます……!」
「礼は必要ありません。本来、起きてはいけないことですから」
伯爵は少し間を置き、続けた。
「農奴の婚姻許可や移動許可については、今後どう扱うべきか私も検討しています。制度だからといって、その運用まで無条件に正しいわけではありません。少なくとも、規定にない金を要求するような行為は認めません」
アカメは少し離れたところから、その会話を聞いていた。
農奴という言葉は以前の授業で知り、父とベルクへ行く道中で、初めて実際に働いている姿を見た。
貴族は、そんな制度を何の疑問もなく受け入れているものだと、アカメはどこかで勝手に想像していた。けれど、少なくとも目の前の伯爵は、今ある決まりをすべて当然だと考えているわけではないらしい。
「叔父様」
その時、馬車の反対側から少女の声がした。
アカメがそちらを見た。
一人の少女が、侍女に付き添われて降りてくるところだった。
年齢はアカメたちとそれほど変わらないだろう。整えられた髪に、村ではまず見かけない上質な服。いかにも貴族の令嬢という姿なのに、馬車を降りるなり周囲を珍しそうに見回している。
「マーレン。待たせましたね」
「いいえ、叔父様。わたくしも、お話を伺っておりました」
伯爵を「叔父様」と呼んだことで、アカメにも彼女がエルヴァレイン家の令嬢なのだと分かった。名前はマーレン。年齢は自分たちとそれほど変わらないように見えた。
―✧―◇―✧―
伯爵がリュネ村を訪れた理由の一つは、森の状況を確認するためだった。
最近、街道寄りで魔物を見かける回数が少し増えている。それが季節的なものなのか、森の奥で何かが起きているのかを確かめたいらしい。
そこで呼ばれたのが父だった。
「森のことならロンドにお聞きください」
村長のその言葉で、父が森の案内役を務めることになった。
「恐縮ですが、案内をお願いできますか?」
「構いません。ただ、森の中じゃ伯爵様でも俺の言うことを聞いてもらいますよ」
周囲の空気が一瞬固まった。
しかし伯爵は怒るどころか、楽しそうに笑った。
「もちろんです。森ではあなたの方が上でしょう」
護衛が四人同行することになり、マーレンも一緒に行くと言い出した。
「マーレン、村で待っていても構わないのですよ」
「いいえ。わたくしも参ります」
「森ですよ?」
「承知しています」
伯爵が少し困ったように眉を下げる。
「無理をする必要はありません」
その言葉に、マーレンの表情がほんの一瞬だけ強張った。
しかし、それはすぐに消えた。
「無理ではありません。エルヴァレインの名を持つ者なら、領地で何が起きているのか自分の目で知るべきだと思います。農地も森も、そこで暮らす方々の生活に繋がっているのでしょう?」
十四歳ほどの少女の言葉にしては、妙に強いものだった。
伯爵はしばらくマーレンを見つめ、それ以上は止めなかった。
「分かりました。ただし、ロンドさんの指示には必ず従うこと」
「はい、叔父様」
出発前に簡単な紹介を済ませ、そこへアカメも同行することになった。普段から父に森の歩き方を教わっていることもあり、今回の調査を見るのも勉強になるだろうと、父が許したのだ。
「お前は余計なところへ行くなよ」
森へ入る直前、父が念を押した。
「もう十四歳だよ」
「十歳の時も似たような顔してたな」
「まだ言うの?」
「一生言う」
もはや恒例になっていた。
隣でマーレンが小さく笑った。
「何ですか?」
「いえ。仲がよろしいのですね」
「これ、仲がいい会話に見えます?」
「ええ。少なくとも、わたくしには」
「どこが?」
「ご本人には分からないものなのですね」
マーレンはそう言って微笑んだ。
伯爵家の令嬢と聞いてもっと話しにくい相手を想像していたが、思ったほどではなさそうだった。
森へ入ると、父はいつものように歩調を落とした。
「この辺りは村の人間もよく入ります。薬草、木の実、薪になる枝。魔物なら《角兎》や《灰嘴鳥》が多いですね」
「危険な魔物は?」
伯爵が尋ねる。
「《森狼》も出ます。ただ、最近増えたって話は今のところ聞いてません。足跡も例年通りです」
父が地面へ屈み、泥の上に残った跡を指した。
アカメにはすぐ分かった。
「《角兎》だね」
「ああ。昨日か今朝だな」
マーレンが足跡を覗き込む。
「これだけで分かるのですか?」
「慣れれば」
アカメが答えると、マーレンは少し感心したように目を細めた。
「あなたも狩人なのですか?」
「まだ違います。父さんに教えてもらってるだけで」
「そう。では、十六歳になれば《狩人》を授かるかもしれませんね」
「どうでしょう。まだ分かりません」
「……楽しみではないのですか?」
「楽しみではあるけど……何になるか神様に全部決められるって考えると、ちょっと変な感じもします」
言ってから、貴族令嬢相手に話すことではなかったかもしれないと思った。
しかしマーレンは怒らなかった。
「変、ですか?」
「だって、まだ何になりたいか決めてないのに、先に向いてるものを教えられるわけでしょ」
「向いているものが分かるのなら、便利ではありませんか?」
「便利なのかな……」
「あなた、少し変わった考え方をなさるのですね」
考え方は違うようだったが、マーレンはアカメの言葉を否定せず、少し考えるように森の奥へ目を向けた。
「わたくしは……少し怖いです」
「神授が?」
「ええ」
マーレンは一度言葉を切った。
「何を授かるのかを、わたくし以上に気にしている人がたくさんいますから。エルヴァレインの人間として、相応しいものを期待されているのでしょうね」
最後の言葉だけ、少し自嘲するように聞こえた。
それはアカメには意外だった。貴族なら、少なくとも農奴よりは自分の進む道を自由に選べるのだと思っていたが、身分が高ければ高いなりに、周囲から求められる役割があるらしい。
「お二人とも、少しこちらへ」
父に呼ばれ、会話はそこで途切れた。
薬草の群生地を確認し、伯爵が書記へ採取量の記録を命じた。森の状態そのものに大きな異常はなさそうで、調査は穏やかに進んでいた。
だからこそ、気が緩んだのかもしれない。
「あ……」
マーレンが小さく声を上げた。
道から少し外れた木漏れ日の中に、白い花が咲いていた。
細い茎の先に小さな花弁がいくつも開き、陽光を受けて淡く輝いている。
「綺麗……」
マーレンが一歩、道を外れた。
距離にすればほんの数歩だった。
護衛もすぐそばにいて、少なくともアカメには危険な距離だとは思えなかった。
アカメも最初は花を見ていたが、その根元で地面に張りつくような黒褐色の影が動いた。首元には紫色の模様が走っていた。ベルクで毒袋を見て以来、父から教わっていたE級魔物《痺毒蜥蜴》の特徴と一致していた。
戦闘能力そのものは高くないが、その牙には身体の自由を奪う麻痺毒がある。
「マーレン、止まって!」
「え?」
マーレンが振り返った。その足元で《痺毒蜥蜴》が身を起こし、大きく口を開いた。
考えるより先に、身体が動いていた。
アカメは地面を蹴ると、そのままマーレンとの間へ滑り込んだ。
「きゃっ!」
肩で彼女を押し退けた直後、右腕に焼けるような痛みが走った。二本の牙が前腕へ深く食い込み、反射的に息が詰まった。
「っ……!」
振り払おうと腕へ力を込めた時には、護衛の一人がすでに剣を抜いていた。鋭い一閃が走り、《痺毒蜥蜴》の身体が地面へ叩き落とされた。
「アカメ!」
マーレンの叫び声が森に響いた。それとほとんど同時に父が駆け寄り、噛まれた右腕を掴んだ。
「傷を見せろ!」
「大丈夫、まだ動くから――」
「いいから見せろ!」
押し切られるように腕を差し出すと、前腕には二つの牙痕が残り、そこから細い血が滲んでいた。父は傷口を確認した瞬間、表情を険しくした。
「……《痺毒蜥蜴》だ」
その名を聞いた途端、背後で小さく息を呑む音がした。
「……毒?」
振り返ると、マーレンの顔から血の気が引いていた。
先ほどまで気丈に振る舞っていた少女とは思えないほど、その表情は強張っていた。視線はアカメの腕へ縫い付けられたように動かず、握りしめた両手がわずかに震えていた。
「マーレン?」
「早く……」
か細い声が漏れた。
「早く、何とかしてください!」
突然張り上げられた声に、近くの護衛が振り返った。
「お嬢様、落ち着いてください。ロンド殿が処置を――」
「落ち着いてなどいられません! 解毒薬は!? 治癒術師は!? 町まで戻るのに、どれくらいかかるのですか!」
「マーレン」
伯爵が静かに名を呼んだ。
それでも、マーレンはアカメから目を離さなかった。
「お願い……」
声が震えていた。
「死なせないでください……」
その言葉だけは、先ほどまでの取り乱した叫びとは違っていた。今にも消えそうなほど弱く、目の前の出来事とは別の何かに怯えているようにも聞こえた。
アカメには、どうして彼女がここまで「毒」という言葉に怯えるのか分からなかった。けれど、ただ自分が噛まれたことを心配しているだけではない――そんな気がした。
「マーレン、大丈夫だから」
「どうしてあなたが大丈夫だと言えるのよ!」
思っていた以上に強い声が返ってきた。
マーレン自身も驚いたらしい。息を呑み、それでもすぐにアカメのそばへ膝をついた。
「……ごめんなさい。でも、お願いです。早く薬を」
「鞄は?」
父の声に、アカメは我に返った。
ベルクへ行ったあの日、父から渡されたもの。《痺毒蜥蜴》を含む、この辺りで見かける麻痺毒に対応した解毒薬と痺れ止めだった。
森へ入る時には持ち歩けと言われていた。
左手で鞄を開こうとしたが、指先が思うように動かなかった。
「……父さん」
「もう回ってるな」
父が素早く薬を取り出した。
「水を」
「あります!」
マーレンが誰より早く答え、自分の水筒を差し出した。父が取り出した薬をアカメへ渡すと、マーレンはすぐに水筒の蓋を開け、その口元へ運ぼうとした。
「自分で飲めるよ」
「いいから飲んでください!」
「……はい」
逆らえる空気ではなかった。
アカメが薬を飲み込むと、父は続けて傷口にも必要な処置を施した。すぐに毒が消えるわけではないが、早く使うほど広がりを抑えられることはアカメも知っていた。
マーレンはその間ずっと、アカメの顔色と右腕を交互に見ていた。
「指は動きますか?」
「まだ少し」
「息苦しくありませんか?」
「大丈夫」
「本当に?」
「本当」
「気持ち悪くは?」
「マーレン」
伯爵が静かに呼びかけた。
少女が振り返った。
「今はロンドさんに任せなさい」
「ですが――」
「心配することと、慌てることは違います」
伯爵は優しく、しかしはっきりと言った。
「あなたが今すべきなのは、自分を責めることでも、最悪の結果を想像することでもありません。アカメ君の状態を見て、必要なことがあれば手を貸すことです」
マーレンは唇を噛んだ。
「……はい」
「責任とは、自分を傷つけ続けることではありません。起きたことから目を逸らさず、次に何をすべきか考えることです」
その言葉を聞いたマーレンの瞳が、一瞬だけ大きく揺れた。伯爵の言葉が、彼女の中の何かに触れたように見えた。けれどアカメがその意味を考えるより先に、腕の痺れが強くなった。
肘から先が徐々に重くなり、指先の感覚までぼやけ始めていた。
「戻るぞ」
父の声に、誰も異論を挟まなかった。
帰路につく間も、マーレンは何度もアカメの様子を確かめていた。その顔に浮かぶ怯えは、自分の怪我を心配しているだけのものではないように思えて、アカメの中に小さな引っかかりが残った。
読んでいただき、ありがとうございました!
今回は、エルヴァレイン伯爵家の来訪と、マーレン・エルヴァレインとの初対面のお話でした。
十四歳になっても魔法を使えないアカメと、すでに物作りへ興味が向いているヴァル。同じ転生者でも、少しずつそれぞれの「向いているもの」が見え始めています。
そして、アカメの怪我に対して人が変わったように取り乱したマーレン。
彼女がなぜ「毒」をあれほど恐れたのかは、まだアカメには分かりません。
次話もよろしくお願いいたします!
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