第9話 「帰ってきてください」
リュネ村へ戻る頃には、アカメは自分の足で歩くことすら難しくなっていた。
意識はある。話しかけられれば返事もできるし、自分が今どこにいるのかも分かっている。それでも《痺毒蜥蜴》に噛まれた右腕から始まった痺れは、時間が経つにつれて肩まで広がり、森を抜ける頃には両脚にも力が入りにくくなっていた。
「父さん……ちょっと、足が」
「ああ。もう歩くな」
「でも――」
「いいから掴まれ」
父は返事を待たずにアカメの身体を背負った。
十四歳にもなって父親に背負われるのは少し恥ずかしい。しかし今はそんなことを言っている場合でもなく、アカメは素直に父の肩へ腕を回した。
「呼吸は?」
「大丈夫」
「吐き気は?」
「少しだけ」
「指は動くか?」
言われて右手を動かそうとしたが、思うように曲がらない。
「……あんまり」
「分かった。喋らなくていい。息苦しくなったらすぐ言え」
普段の父より声が低い。
その背中越しに、何度もこちらを振り返るマーレンが見えた。
顔色は、アカメ以上に悪いのではないかと思うほど青ざめていた。
「叔父様、まだ村には着かないのですか?」
「もう少しです」
「ですが、さっきより歩けなくなっています。解毒薬は本当に効いているのですか? もっと強い薬は――」
「マーレン」
エルヴァレイン伯爵が静かに名前を呼ぶ。
その声でマーレンは口を閉じたものの、落ち着いたわけではないらしい。胸元で組んだ両手には力が入り、白い指先がさらに白くなっていた。
自分のせいだと思っているのだろう。
アカメがそう考えているうちにも、身体はどんどん重くなっていった。
ベルクの冒険者ギルドで《痺毒蜥蜴》の毒について聞いた時には、どこか他人事だった。
少量なら手足が痺れ、量が多ければ呼吸に使う筋肉にまで影響する。
知識として聞くのと、自分の身体が思い通りに動かなくなるのとではまるで違う。
指を動かそうと命じているのに、わずかに震えるだけで言うことを聞かない。その感覚が、想像していたよりずっと不気味だった。
それでも恐怖に飲まれずにいられたのは、父がそばにいたからかもしれない。
森で噛まれた直後に解毒薬を使った。
父は「大丈夫」とは言わなかったが、取り乱してもいなかった。その落ち着いた背中を見ていると、今はただ父を信じていればいいと思えた。
「……父さん」
「何だ?」
「重くない?」
「くだらないこと喋れるならまだ平気だな」
「酷い」
「いいから寝てろ」
少しだけ笑ったところで、強い眠気が襲ってきた。
毒のせいなのか、薬のせいなのかは分からない。
父の背中が揺れるたびに、意識が遠ざかっていく。
最後に聞こえたのは、すぐ後ろから響いたマーレンの声だった。
「眠ってしまって大丈夫なのですか?」
「大丈夫です、お嬢様。呼吸は安定している」
「でも……」
そこで、声は途切れた。
―✧―◇―✧―
次に目を開けた時、見慣れない天井があった。
「アカメ!」
耳元で声が響き、ぼんやりしていた意識が一気に引き戻される。
顔を向けると、母がベッドのすぐ横にいた。頬へ掛かっていた髪を払いながら、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「母さん……」
「気分は? 苦しくない? ちゃんと見えてる?」
「うん……見えてる」
声を出したところで、自分が村の診療所へ運び込まれたのだと気づいた。
薬草独特の青い匂いが漂い、窓の近くには乾燥させた植物が何束も吊るされていた。棚には瓶や包帯が所狭しと並んでいる。
身体を起こそうとすると、右腕が鉛でも詰め込まれたように重い。
「動くな」
薬師がすぐに止めた。
「毒が抜けきってない。寝てろ」
「どれくらい寝てた?」
「大した時間じゃない。森から戻ってきて、追加の解毒薬を飲ませたところだ」
薬師がアカメの瞼を指で開き、瞳を確認する。それから右腕を持ち上げ、牙の跡の周囲を軽く押した。
「ここは?」
「痛い」
「こっち」
「……ちょっと分かりにくい」
「指先は?」
「痺れてる」
薬師は一つずつ確認すると、ようやく小さく頷いた。
「幸い、毒量はそこまで多くない。それに森での処置が早かった。今の状態なら命に関わることはないだろう」
その言葉を聞いた瞬間、母の肩から目に見えて力が抜けた。
「よかった……」
母に手を握られ、その指が微かに震えていることに気づくと、アカメは胸の奥が少し痛くなった。
以前、《森狼》に襲われた時にも同じ顔をさせた。
あの時、もうこんな心配はかけたくないと思ったはずなのに。
「ごめん、母さん」
「謝るのは元気になってからにしなさい」
「元気になったら怒られるの?」
「当然でしょう?」
「……元気になるのやめようかな」
「アカメ」
「冗談です」
声は優しいのに、笑っていない。
これは治ってから間違いなく説教される。
「本当に、死なないのですね?」
母とは別の声が聞こえた。
視線を動かして初めて、診療所にまだ何人もいることに気づく。
少し離れたところにはエルヴァレイン伯爵と父。それからベッドの反対側に、マーレンが立っていた。
胸元で両手を強く組み、薬師をまっすぐ見ている。
「ああ。この状態ならひとまず心配はない」
「絶対にですか?」
「……医者でも薬師でも『絶対』とは言わんよ。毒というのは体質や量でも症状が変わる。ただ、今すぐ命がどうこうなる状態ではない」
薬師としては安心させるための言葉だったのだろう。
しかしマーレンの表情は逆に強張った。
「絶対では、ない……」
その呟きは小さかった。薬師が安心させようとして口にした言葉よりも、「絶対ではない」という部分だけがマーレンには強く残ってしまったように、アカメには見えた。
「マーレン」
伯爵が静かに声をかけた。
「……はい」
「少し外で休みなさい。朝からずっと気を張っているでしょう」
「嫌です」
返事は即座に返ってきた。伯爵がわずかに眉を上げる。
「アカメ君は大丈夫だと、薬師も言っています」
「それでも、ここにいます」
「マーレン」
「お願いします、叔父様」
口調こそいつもの丁寧なものだったが、その声には引くつもりがないと分かるほどの必死さが滲んでいた。
「わたくしが勝手に道を外れたせいで、彼は怪我をしました。せめて目を覚ますまでは、そばに――」
「もう目覚めてるけど」
思わずアカメが口を挟むと、マーレンがこちらを見た。
「……では、完全に良くなるまでです」
「伸びましたね」
「あなたは黙っていてください」
「はい」
これでは、どちらが病人なのか分からない。
伯爵はそんな姪をしばらく見つめていたが、その表情がほんの一瞬だけ揺らいだ。困ったというより、何か遠いものを思い出して痛みを堪えたような――そんな顔に見えた。
けれど、アカメがその意味を考えるより早く、伯爵はいつもの穏やかな表情へ戻った。
「分かりました。今日は領都へ戻らず、この村で一泊しましょう」
「叔父様……」
「ただし、マーレンもきちんと休むこと。自分まで倒れるほど看病するのは、責任を果たすこととは言いません」
「はい、ありがとうございます」
マーレンが深く頭を下げ、ひとまず話がまとまった――かと思った、その直後だった。
「あなた」
今度は別の方向から、低い声が飛んできた。
「……俺か?」
父が自分を指差す。
「あなたが一緒だったんでしょう?」
「一応、そうだな」
「一応?」
「いや、その……伯爵様の護衛も四人いたし――」
「人数の話をしているのではありません」
「……はい」
領主本人がすぐそばにいることなど、今の母には何の関係もないらしい。
伯爵は小さく咳払いをして顔を逸らしたが、その口元はわずかに緩んでいるように見えた。
「父さん」
「何だ」
「頑張って」
「お前なぁ!」
思わず少し笑ったところで、急に身体の奥から重い眠気が押し寄せてきた。力を抜いた途端、瞼がゆっくりと落ちていく。
「アカメ?」
「眠いだけ……」
「薬が効いてるんだ。今は寝かせてやれ」
薬師の声を聞きながら、アカメは再び眠りへ落ちていった。
意識が途切れる直前、ぼやけていく視界の端に、ベッドの脇へ椅子を運んでくるマーレンの姿だけが見えた。
―✧―◇―✧―
どれくらい眠っていたのか分からない。次に目を覚ました時、診療所の中はすっかり薄暗くなっていた。窓の外には夜が広がり、卓上に置かれた小さな魔道具の灯りが、室内を淡く照らしている。
身体にはまだ痺れが残っていたが、夕方よりはいくらか楽になっている気がした。
「……アカメ?」
すぐそばから声がした。
顔を向けると、椅子に座っていたマーレンが慌てたように立ち上がる。昼間に羽織っていた上着は脱いでおり、きれいに整えられていた髪も少しだけ乱れていた。目の下にはうっすらと疲れが滲んでいる。
「起きたのね?」
「うん……」
「気分は? 吐き気は? 息苦しくない? 右手は動く? 喉は――」
「ちょっと待って」
「え?」
「一個ずつ聞いて」
「あ……」
マーレンは我に返ったように口を閉じ、少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……ごめんなさい」
「別にいいけど」
アカメは布団の上で右手を持ち上げてみた。まだ重さは残っているものの、指をゆっくり曲げると、昼間よりはずっと素直に動いてくれる。
「ほら」
「……動いてるわね」
「うん」
それを確認した瞬間、マーレンの肩から目に見えて力が抜けた。
「よかった……」
掠れた声が漏れる。
「ずっといたの?」
「ええ」
「寝てない?」
「少しは休んだわ」
「嘘だ」
「どうして?」
「その顔見たら分かるよ」
言われて、マーレンは自分の頬へそっと触れた。どうやら図星だったらしい。
「……横にはなったわよ」
「どれくらい?」
「それは重要なの?」
「誤魔化した」
「水、飲む?」
「話変えた」
「飲むの?」
「……飲む」
どうやら勝てそうにない。アカメが諦めて身体を起こそうとすると、マーレンはすぐに立ち上がり、背中へ手を回した。
「自分で起きられるよ」
「駄目よ」
「何で?」
「また何かあったら困るのよ」
「起きるだけだよ?」
「それでも駄目」
妙なところで頑固だった。
仕方なく支えられるまま身体を起こし、差し出された水を飲む。マーレンは水差しを戻してからも席を離れず、何か言いたそうにしながら膝の上で両手を握っていた。
しばらく沈黙が続いたあと、先に口を開いたのはマーレンだった。
「……本当に、申し訳ありませんでした」
「また?」
「何度でも謝らせて」
「そんなに謝らなくてもいいって」
「私が勝手に道を外れなければ、あなたは噛まれなかったもの」
「まあ、それはそうだけど」
マーレンが困ったように眉を寄せた。
「そこは否定しなさいよ」
「『マーレンは何も悪くないよ』って言った方がいい?」
「……それも何か違うわね」
「難しいな、マーレンは」
アカメが苦笑すると、マーレンもほんの少しだけ笑った。
昼間からずっと張りつめていた表情が、ようやく緩んだ気がした。しかし、その笑みは長くは続かなかった。
「……怖かったの」
「魔物が?」
「違うわ」
マーレンは膝の上へ視線を落とした。絡めた指には、また少しだけ力が入っている。
「あなたが倒れて、少しずつ身体が動かなくなっていくのを見ていたら……また、間に合わないんじゃないかって」
その言葉に、アカメは引っかかった。
「また?」
「……いえ」
マーレンは顔を上げると、すぐに首を振った。
「今のは忘れて」
「……分かった」
明らかに何かを隠している。それでも、これ以上聞く気にはなれなかった。誰にだって、話したくないことくらいある。
ただ一つ分かったのは、今日の彼女の必死さが、自分のせいでアカメが怪我をしたという罪悪感だけではないことだった。
「俺、生きてるよ」
アカメがそう言うと、マーレンが顔を上げた。
「ちゃんとここにいるし、薬師さんももう大丈夫だって言ってた。だから、そんな顔しなくてもいいよ」
マーレンの唇が僅かに動く。しかし彼女が何かを口にする前に、アカメは少しだけ笑って続けた。
「でも、次からは気をつけてね」
「そこは言うのね」
「言うよ。森って、何も起きてない時は安全そうに見えるから。俺も昔、それで勝手に奥まで行って死にかけたし」
「……初めて聞いたわ」
「父さんの前では、その話はしないでね」
「どうして?」
「また言われるから」
「もう十分言われているんじゃないの?」
「これ以上増やしたくないんだよ」
今度はマーレンも自然に笑った。その表情を見て、アカメも少しだけ安心する。
だが、マーレンはしばらくして笑みを収めると、今度は真剣な目を向けてきた。
「一つ、聞いてもいい?」
「何?」
「……怖くはなかったの?」
「何が?」
「私と魔物の間に入った時」
アカメは少し考えた。
あの瞬間を思い返してみても、何か特別な覚悟を決めた記憶はない。《痺毒蜥蜴》がいて、マーレンはそれに気づいていなかった。それを見つけたのが、たまたま自分だっただけだ。
「怖かったとは思う」
「それでも、どうして?」
「俺が先に気づいたから」
「……それだけ?」
「それだけ」
もし父が先に見つけていれば、父が動いていただろう。護衛が先なら、護衛が魔物を倒していたはずだ。たまたま一番早く危険に気づいたのがアカメだった。それ以上の理由は、本当になかった。
「気づいたのに何もしなくて、あとで後悔する方が嫌だったし」
マーレンは何も言わず、その言葉を聞いていた。
やがて、静かに口を開く。
「でも……あなたが死んだら」
「え?」
「助けられた方も、ずっと後悔するわ」
声音が、それまでとは少し違っていた。
何かを必死に抑えながら、それでも伝えなければならないと決めたような声だった。マーレンはアカメから視線を逸らし、膝の上で握った指へさらに力を込める。
「誰かを助けるなら……あなたも、ちゃんと帰ってきてください」
アカメはすぐに返事ができなかった。
「助けた人だけ残して、自分はいなくなるなんて……そんなのは、優しいとは思わないわ」
静かな言葉だった。それなのに、不思議なくらい胸の奥へ残った。
父からも、森では相手を倒すことより、自分が無事に帰ってくることの方が大切なのだと何度も教えられてきた。
父とマーレンでは言い方も、その言葉を口にする理由も違う。それでも二人が伝えようとしていることは、どこか似ているように思えた。
「……じゃあ次は、噛まれずに助ける」
アカメが答えると、マーレンはゆっくりと顔を上げた。
「お願いね」
「難易度高いけど」
「そこは頑張ってよ」
「厳しいな」
「命がかかってるんだから、当然でしょう?」
二人は少しだけ笑い合った。
そのあと、マーレンはようやく椅子の背へ身体を預けた。
それでも完全に安心したわけではないらしく、アカメがうとうとすれば呼吸を確かめ、額に汗が浮かべば濡らした布を替え、少し身体を動かしただけでも「大丈夫?」とすぐに顔を覗き込んできた。
責任感という言葉だけでは説明できないほど、マーレンは必死だった。その理由をアカメはまだ知らないし、無理に知ろうとも思わなかった。
いつか彼女自身が話したいと思った時に、聞けばいい。今はただ、マーレンが自分を心配してくれていることだけ分かっていれば、それで十分だった。
―✧―◇―✧―
翌朝、アカメは薬師に言われるまま、右手をゆっくりと握った。
「……もう一回」
昨日はほとんど力の入らなかった指が、今は抵抗なく掌へ収まる。開いて、もう一度握ってみても、僅かな違和感こそあるものの動きに問題はなかった。
「次は腕を曲げろ」
言われた通りに肘を曲げ、そのまま肩を回す。
「脚は?」
「もう普通です」
ベッドから降りて数歩歩いてみたが、昨日のように突然力が抜ける感覚もない。それを確認した薬師は、何も言わずにアカメの腕を取り、牙痕の残る傷口をじっと眺めた。
「……何か変?」
「変と言えば変だな」
薬師は傷の周囲を指で軽く押しながら、難しい顔をした。
「処置が早かったのは大きい。噛まれていた時間も短かったし、解毒薬も効いている。ただ、それを差し引いても回復は早い方だ。昨日の状態なら、今日いっぱいくらいは指先に痺れが残っていてもおかしくない」
「薬がすごかったとか?」
「俺の薬がそこまで万能なら、もっと金を取ってる」
「じゃあ何で?」
「さあな。毒の効き方には個人差もある。お前は比較的抜けるのが早い体質なのかもしれん」
そう答えた薬師は、そこで何か思い出したようにアカメの顔を見た。
「だからといって、もう一度毒を受けて確かめようなんて考えるなよ」
「考えてないです」
「本当か?」
「何で疑うんですか」
「お前、毒についてやたら質問するらしいじゃないか」
「父さん!」
部屋の隅で腕を組んでいた父へ目を向けると、当の本人は悪びれる様子もなく鼻で笑った。
「事実だろ」
「興味があるだけだよ」
「なら知識だけにしとけ。昨日無事だったからって、次も同じ毒が同じように効くとは限らん」
「分かってる」
そこはアカメも素直に頷いた。
毒の抜けが多少早いかもしれないと言われたところで、喜べるような経験ではなかった。腕は動かず、脚からも力が抜け、そのうち呼吸までできなくなるのではないかという恐怖を、昨日は嫌というほど味わっている。
できることなら、二度と経験したくない。
それでも右手を何度か開閉してみると、昨日は自分の意思すらまともに届かなかった指が、こうして何事もなかったように動いているのは不思議だった。
薬師にも理由は分からないというのなら、今のところは「回復が早い体質だった」で納得するしかないのだろう。
「今日は無茶するなよ。毒が抜けたからって、身体まで完全に戻ったとは限らん」
「はい」
「走るな」
「はい」
「森にも行くな」
「行かないです」
「毒の実験もするな」
「しないって!」
薬師が疑わしそうな顔をする横で、父がまた小さく笑った。
診療所を出ると、朝の光の中でエルヴァレイン家の馬車が出発の準備を始めていた。
伯爵は村長や父と最後の話をしている。
少し離れた場所では、マーレンが待っていた。
「もう歩いて大丈夫なの?」
「うん。見ての通り」
「走ったりは?」
「さすがにまだしないよ」
「本当に?」
「信用ないな」
「昨日の今日だもの」
もっともな答えだった。
「叔父様に言われたこと、覚えてるわ」
マーレンが森の方へ視線を向ける。
「責任の話?」
「うん。起きたことから目を逸らさず、次に何をすべきか考えること」
その横顔には、昨日までの怯えとは少し違うものがあった。
「次に森へ入る時は、もう勝手に道を外れない。それから魔物についても勉強するわ。知らないままでは、また同じことをしてしまうかもしれないから」
「それがいいと思う」
「毒についても」
「それは俺も勉強したい」
「あなたは、ほどほどになさい」
「何で?」
「昨日、毒に倒れた人が言う台詞ではないわ」
「知ってた方が次は避けられるでしょ」
「それはそうだけど……」
マーレンは少し考え、それから諦めたように息を吐いた。
「では、勉強だけにして」
「何と戦ってるの?」
「あなたの好奇心よ」
失礼な話だった。
やがて伯爵がマーレンを呼ぶ。
「もう行かなければ」
「うん」
マーレンは数歩進み、それから思い出したように振り返った。
「アカメ」
「何?」
「次に会う時まで、お互いもう少し賢くなっていましょう」
「俺もなの?」
「当然よ」
「昨日の原因はマーレンだったよね?」
「私は道を外れた。あなたは毒を持つ魔物に自分から飛び込んだ」
「助けるためだよ!」
「だから次は、噛まれずに助ける方法を考えるの」
昨夜と同じ言葉だった。
けれど、今度のマーレンは少しだけ笑っている。
「……努力します」
「約束よ」
「うん」
アカメが答えると、マーレンはようやく安心したように微笑んだ。
そして馬車へ乗り込む。
アカメには、マーレンがなぜあれほど自分の怪我を恐れたのか、まだ分からなかった。毒だと聞いた瞬間に顔色を失い、何度も「死なせないで」と訴え、眠っている間も呼吸を確かめ続けていた。
そして夜には、『また、間に合わないんじゃないかって』と口を滑らせていた。
彼女がそこまで「帰ってきてほしい」と願うようになった理由を、アカメは知らない。ただ、本人が話さないことを無理に聞くつもりもなかった。いつかマーレン自身が話したいと思った時に、聞けばいい。
馬車の少し前では、エルヴァレイン伯爵が最後まで村人たちの話を聞いていた。
農奴からの訴えも、農道の補修も、森の魔物についても、領都の屋敷に座っているだけでは分からないことなのだろう。
貴族というものについて、アカメはまだほとんど何も知らない。
それでも、あの伯爵が自分の目で領地を見ようとしていることだけは分かった。
やがて馬車が動き出し、窓越しにマーレンが小さく手を振った。アカメもそれに応えるように左手を上げる。
右腕には、《痺毒蜥蜴》の牙が残した二つの傷があった。指先でそっと触れるとまだ僅かな痛みは残っているが、昨日まで身体を蝕んでいた痺れはもうほとんど感じない。
早く処置できたから助かった。それでも、自分の身体が少しずつ動かなくなっていく感覚も、その傍らで必死に「死なせないで」と訴えていたマーレンの顔も、簡単には忘れられそうになかった。
そして何より、彼女が夜に口にした言葉が胸に残っている。
『誰かを助けるなら……あなたも、ちゃんと帰ってきてください』
神授まで、あと二年。自分が何を授かるのかはまだ分からないが、それまでに知っておきたいこと、身につけておきたいことは、また一つ増えた気がした。
読んでいただき、ありがとうございました!
今回は、《痺毒蜥蜴》の毒に侵されたアカメと、そのそばを離れようとしないマーレンのお話でした。
「また、間に合わないんじゃないかって」
なぜマーレンがあれほどアカメの死を恐れたのか、その理由をアカメはまだ知りません。
そして今回、特に大切にしたかったのが、「誰かを助けるなら……あなたも、ちゃんと帰ってきてください」という言葉です。
誰かを守ることと、自分の命を粗末にすることは同じではない。
父から教わってきた「帰ること」の大切さを、アカメはマーレンからも別の形で受け取ることになりました。
次話もよろしくお願いいたします!
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【今回の公開情報】
マーレン・エルヴァレイン
現ベルディア領主であるエルヴァレイン伯爵の姪。アカメと同年代の伯爵令嬢。責任感が強く、今回の一件ではアカメのそばに残り続けた。




