第10話 「十六歳になるということ」
マーレンと出会ったあの日から、さらに一年が過ぎた。
十五歳になったアカメは、以前よりも一人で森を歩けるようになっていた。
もちろん、好き勝手に奥まで入っていいという意味ではない。リュネの森には《森狼》もいれば、毒を持つ魔物もいる。一年前、《痺毒蜥蜴》に噛まれて身体が動かなくなった経験も、まだ鮮明に覚えていた。
むしろ、危険を知ったからこそ、森を見る目が変わった。
どこを踏めば音が鳴るのか。風がどちらから吹いているのか。
鳥の声が急に途切れた時、何を警戒するべきなのか。
草木の間に残った小さな痕跡から、何が、いつ頃ここを通ったのか。
昔は父に言われて初めて気づいていたものを、今では自分から探すようになっている。
「止まれ」
前を歩いていた父が、小さく右手を上げた。
アカメも足を止める。
森の中では、父のその動作一つで十分だった。
「何が見える?」
声を落として尋ねられ、アカメは周囲を確認した。
正面には低い茂み。右手には太い木が数本並び、その根元の土が少しだけ抉れている。左側には赤い実をつけた低木があるが、以前父から触らないよう教えられた種類だ。
アカメが地面へ目を落とすと、柔らかな土の上に小さな足跡が残っていた。
「《角兎》」
「数は?」
「一匹だと思う。跡が重なってない」
「いつだ?」
アカメは指先で土に触れた。
完全には乾いていない。
「そんなに前じゃない。朝……かな」
「悪くない」
父がそれだけ答える。
褒め方が相変わらず地味だ。
「今日はお前がやれ」
「俺が?」
「俺は手を出さない」
アカメは思わず父を見る。
これまでにも獲物へ矢を放ったことはあるし、解体を任されたこともある。だが、最初から最後まで一人で仕留めろと言われたのは初めてだった。
「危なくなっても?」
「死にそうなら助ける」
「基準そこ?」
「怪我しそう、くらいで助けてたら一人で森に入れるようにならん」
父はそう言うと、少し後ろへ下がった。
どうやら本当に見ているだけらしい。
アカメは腰の弓へ手を伸ばした。
急いではいけない。
《角兎》はE級。魔物の中では最低級に分類されている。それでも額には鋭い角があり、正面から突進を受ければ大怪我をする。
十歳になる前なら、父から「今のお前なら死ぬ」と言われていた相手だ。
まず風を確認する。
頬に触れる風は、獲物のいる方からこちらへ流れていた。匂いで気づかれる心配は少ない。
アカメは茂みを避けながら、足音を抑えて進む。
やがて木々の間に、白っぽい身体が見えた。
《角兎》が地面の草を食んでいる。
まだこちらには気づいていないことを確認し、弓を構え、矢を番える。
狙うのは身体の中心ではない。
父と何度も獲物を解体してきた。骨の位置も、急所の位置も、ある程度は頭に入っている。矢を外せば逃げられるばかりか、最悪こちらへ突進してくる。
アカメは静かに息を吐き、腕から余計な力を抜いた。《角兎》がふいに顔を上げ、その長い耳が僅かに動く。
その瞬間、アカメは弦から指を離した。
風を切る音と同時に、矢が《角兎》の首元へ突き刺さった。
甲高い鳴き声が木々の間を抜け、身体が大きく跳ねたあと、数歩走る。
「……っ」
追いかけようとして、アカメは一度踏みとどまった。
周囲を見て別の魔物はいないか確認する。
地面に危険な植物も見えない。
それを確認してから距離を詰めた。
《角兎》はすでに動かなくなっていた。
矢の位置を確認し、完全に息絶えていることを確かめる。
「……倒した」
口にしてから、ようやく実感が湧いた。
後ろから父が近づいてくる。
「どうだった?」
「思ってたより緊張した」
「そうか」
「もっと何かないの?」
「何が?」
「初めて一人で倒した息子にさ。『よくやった』とか」
「まだ終わってないだろ」
アカメは一瞬きょとんとしたが、すぐに《角兎》へ視線を戻した。
「……解体か」
「それもある。獲物を持って家へ帰るまでが今日の狩りだ」
「分かってるよ」
「なら、やれ」
昔なら、また父の説教が始まったと思っていたかもしれない。
今は、その意味が少し分かる。
アカメは荷物から解体用の刃物を取り出し、《角兎》の処理を始めた。
最初に父の手元を見た時は、ただ器用だと思っていた。今では、どこへ刃を入れれば余計に肉を傷つけずに済むのかも分かる。
血の匂いが広がりすぎないよう手早く済ませ、角と魔石も回収する。
魔石は親指の先ほどだった。
「これならベルクでいくらくらい?」
「安いぞ」
「夢がないなあ」
「E級一匹で金持ちになれたら、村中が狩人だ」
「それもそうか」
処理を終えたところで、父が腰へ手を伸ばした。
取り出したのは、一振りの短剣だった。
アカメにも見覚えがある。
「それ……」
「昔から使ってたやつだ」
以前ガルドの鍛冶場へ修理に持っていった、あの短剣だった。
柄には長年使い込まれた跡が残っている。刃は何度も研がれているが、手入れが行き届いているため古びては見えない。
父が鞘ごと差し出した。
「やる」
「俺に?」
「ああ」
アカメはすぐには受け取らなかった。
「父さんが使ってたやつでしょ?」
「今は別のを使ってる。ガルドに作ってもらった」
「でも……」
「森へ入るなら、自分の刃物くらい持っておけ」
その言葉で、ようやく両手を伸ばした。
受け取った瞬間、長い年月をこの短剣と共に過ごしてきた、父の人生の重みまで手の中へ移ったような気がした。
思ったよりずっしりしていた。
単に鉄でできているからではない。
幼い頃から何度も父の腰にあるのを見てきた短剣だからだろう。
「抜いてみろ」
十五歳の手にはちょうどいい長さだった。
派手な装飾はない。魔道具でもなければ、伝説の武器でもない。
ただ、父が何年も森から持ち帰り続けた短剣だ。
「大事にする」
「大事にしすぎるな。道具は使うためのものだ」
「じゃあ傷ついても?」
「手入れすればいい」
「折れたら?」
「ガルドに怒られろ」
「父さんは?」
「俺も怒る」
「どっちにしても怒られるじゃん」
父が笑った。
それから、アカメが鞘へ短剣を戻すのを待ってから言った。
「一つだけ約束しろ」
「何?」
「その短剣を持って森へ入るなら、必ず持って帰ってこい」
「短剣を?」
父がアカメを見る。
「お前ごとだ」
少しの間、言葉が出なかった。
父は格好いい台詞を言ったつもりなどないのだろう。
いつもの表情だった。
「……うん」
アカメは短剣を腰へ差した。
「絶対持って帰る」
「ならいい」
父は先に歩き始めた。アカメもその背中を追う。
この世界に生まれたばかりの頃は、自分がこの男を心から父親と呼ぶようになるなんて想像もしていなかった。
今では、その背中を見失いたくないと思う。
腰にある短剣が、歩くたびに小さく揺れた。
―✧―◇―✧―
十六歳が近づくにつれ、リュネ村の同世代の話題は一つに偏っていった。
《神授》。
教会へ行けばその話をするし、仕事を手伝っていてもその話。
村の広場で顔を合わせれば、結局そこへ戻る。
「俺、せめてB級は欲しいな」
「無理だろ」
「何でだよ!」
「B級って結構珍しいんだぞ」
「じゃあC級」
「下がるの早いな」
教会での授業が終わったあと、アカメはヴァルと一緒に広場の端に座っていた。
少し離れたところでは、同い年の少年たちが神授について盛り上がっている。
「S級だったら王都に行けるんだろ?」
「王立学園に呼ばれるかもしれないって先生言ってた」
「いいなあ、S級」
「俺、S級《剣聖》とかがいい」
「そんなジョブあるの?」
「知らない。でも強そうじゃん」
まだ授かってもいないジョブの話で、よくここまで盛り上がれるものだ。
アカメも気にならないわけではないが、周りの熱量には少しついていけなかった。
「でもE級だったら最悪だよな」
その一言に、アカメの意識が向いた。
「分かる。せっかく神授受けてE級とか嫌だわ」
「結局、親と同じ仕事して終わりそう」
「せめてD級は欲しいよな」
笑い声が上がる。
悪意があるわけではない。
誰か特定の人間を馬鹿にしているつもりもないのだろう。
だからこそ、アカメには少し引っかかった。
母のジョブは、E級《裁縫師》。
破れた服を直し、身体に合わなくなった服を仕立て直す。
冬になれば厚手の上着を作り、誰かが困っていれば納期より先にその服を直す。
アカメが幼い頃から着てきた服の多くも、母の手で作られたものだった。
それを「最悪」と言われても、どうにも実感が合わない。
「どうしたの?」
隣からヴァルに聞かれる。
「別に」
「顔に出てるよ」
「……E級って、そんなに嫌なものなのかなって」
ヴァルも話していた少年たちを見る。
「母さんE級だよ」
「うちも」
「でも別に、困ったことないよね」
「うん」
それだけの会話だった。
アカメはまだ、ジョブ差別という言葉を自分の中ではっきり意識していたわけではない。ただ、教会で「E級が最も低い」と教えられることと、大切な母親がE級であることが、どうしても一つに重ならなかった。
そもそも「低い」とは、何が低いのだろう。能力なのか、それとも希少性なのか。まさか、人間としての価値まで低いという意味ではないはずだ。
そんなことを考えていると、一人の少年がこちらへ振り返った。
「アカメは何が欲しいんだ?」
「俺?」
「ロンドさんの息子だし、《狩人》?」
「分かんない」
「何かあるだろ。欲しいジョブ」
「本当にないんだよ」
「変なの」
少年はそう言って、すぐ仲間との話へ戻っていった。
「ヴァルは?」
アカメが尋ねる。
「物作れるやつ」
「昔と変わってないな」
「魔法より面白いからな」
「まだ根に持ってる?」
「二年やって水一滴動かせなかったこと?」
「言い方!」
ヴァルが笑う。
それから自分の手を見る。
ガルドの鍛冶場を手伝うようになって長い。昔より指には細かな傷も増え、十四歳の頃には難しかった仕事も少しずつ任されるようになっている。
「父さんと同じ《鍛治師》でもいいよ」
「D級でも?」
「別に」
答えに迷いはなかった。
「作れるものが増えるなら、何でもいい」
「ヴァルらしい」
「アカメは本当に何もないの?」
「うーん……」
腰の短剣へ触れる。狩りは好きだし、森を歩くのも嫌いではない。弓を扱うことにも慣れ、一年前の出来事をきっかけに毒について調べることも増えた。
けれど、アカメにとってそれらはどれも、自分が興味を持って身につけてきた別々の知識や技術だった。十六歳の《神授》で、それがどんなジョブへ結びつくのかまでは想像できない。
「父さんみたいな《狩人》でもいいかな」
「いいんじゃない?」
「でも魔術師も捨てがたい」
「まだ魔法諦めてないの?」
「神授された瞬間、突然使えるようになる可能性あるだろ」
「ないと思う」
「夢くらい見させてよ」
二人で笑う。
笑いが収まったところで、アカメはふと思い出した。
「……奏馬、結局見つからなかったな」
ヴァルの表情も少し変わった。
「うん」
十歳の頃から、機会があれば探してきた。
ベルクへ行けば同年代の少年について聞き、教会で近隣の村のことも調べた。
旅人から遠くの町の話を聞いたこともある。
だが、名前も顔も分からない人間を探すのは、やはり難しかった。
奏馬は、この世界では奏馬ではない。
どんな名前で、どこに生まれているのかも分からない。
「十六歳になったら、教会にジョブの記録が残るんだよね」
「でも名前分からないよ」
「そうなんだよな……」
「王都とか行けるようになったら、探せる範囲も増えるんじゃない?」
「王都か」
以前、世界地図を初めて見た日のことを思い出す。
あの頃は、リュネ村から出ることさえほとんどなかった。
今でも世界は広い、けれど十六歳になれば、少しだけ自分で行ける場所が増えるのかもしれない。
「見つけたいな」
「見つけるでしょ」
ヴァルは当たり前のように言った。
「何でそんな自信あるの?」
「俺たちが会えたから」
単純な答えだったけれど、それで十分な気もした。
「そうだな」
三人揃ったら、とりあえず飯。
前世では何度も口にした、どうでもいい約束。
今度三人が揃った時には、本当に何か食べに行くのも悪くない。
アカメはそんなことを考えた。
―✧―◇―✧―
それから季節が一つ巡った。
《神授祭》当日、アカメはいつもより早く目を覚ました。まだ日が昇り切っておらず、窓から差し込む光も薄い。家の中には静けさが残っているというのに、不思議と眠気はなかった。
今日、アカメは《神授》を受ける。
ベッドから起き上がり、着替える。
腰には父から譲られた短剣を差した。
普段なら森へ行く時にしか身につけないが、今日は何となく持っていきたかった。
部屋を出ると、すでに母が朝食の準備をしていた。
「おはよう」
「おはよう、母さん」
母が振り返り、少しだけ笑う。
「眠れた?」
「一応」
「嘘ね」
「何で分かるの?」
「母親だから」
「母親」。その言葉にもう違和感なんてなかった。
食卓には父もいた。
「緊張してるか?」
「ちょっと」
「何が出ても死にはせん」
「励まし方が雑だよ」
「父さんらしいでしょ?」
母が笑う。
アカメも席についた。
いつもと同じ朝食だった。
焼いたパンに卵、野菜のスープ。
十六歳になっても、神授の日でも、家の朝は変わらない。
「母さん」
「何?」
「もし俺がE級だったら、どうする?」
何となく聞いてみたくなった。
母は目を瞬かせる。
「どうするって?」
「がっかりする?」
「どうして?」
「いや……母さんもE級だけど、村の奴らがE級は嫌だって話してたから」
言った瞬間、余計なことを言ったかもしれないと思った。
けれど母は怒らなかった。
少し考えるようにアカメを見て、それから穏やかに笑った。
「アカメ」
「うん」
「どんなジョブをもらって帰ってきても、母さんが迎えるのはジョブじゃないわ」
母の手が、アカメの頭へ伸びる。
「アカメよ」
たったそれだけだった。
それなのに、胸の奥にあった妙な緊張が少しだけほどけた。
「……そっか」
「ええ」
「S級でも?」
「アカメ」
「E級でも?」
「アカメ」
「変なジョブでも?」
「それもアカメ」
父が横から口を挟む。
「ただし、とんでもなく危ないジョブだったら一回話し合う」
「何それ!?」
「例えばの話だ」
「朝から変なこと言わないで」
母に睨まれ、父が黙る。
いつもの朝だった。だからこそ、アカメは少し安心した。何を授かっても、最後にはこの家へ帰ってくればいい。
腰に差した短剣へ触れると、森で父から言われた言葉が蘇った。
『必ず持って帰ってこい』
それが短剣だけを指した言葉ではないことは、もう分かっている。
やがて教会の鐘が鳴った。
今日はいつもの授業を知らせる鐘ではない。
十六歳になった者たちを呼ぶ、《神授祭》の始まりを告げる音だった。
アカメは椅子から立ち上がる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「気負うなよ」
「父さんがそんなこと言うなんて」
「何だと?」
アカメは笑いながら家を出た。
外では、少し先にヴァルが待っていた。
「遅い」
「今来たところでしょ」
「まあね」
二人で教会へ向かう。
十歳の頃、鍛冶場で再会した時には、十六歳という年齢はずっと先に思えた。
奏馬はまだ見つからない。
世界がなぜ「悪へ傾いている」のかも分からない。
魔法はいまだに一度も成功していない。
それでも六年間で、知ったことは増えた。
森や毒、魔物だけではない。ギルドの仕組みや農奴という身分、貴族、そして《ジョブ》についても、この六年間で少しずつ知ってきた。それと同時に、自分がまだどれほど多くのことを知らないのかも分かるようになった。
教会の尖塔が見えてくる。
その扉の向こうで、今日、アカメたちの人生を大きく左右するものが与えられる。
「ヴァル」
「何?」
「何が出ても笑うなよ」
「アカメもね」
「約束な」
「うん」
二人は並んで教会の階段を上った。
何を授かるのか。それによって、この先の人生がどれほど変わるのか。考えても答えは出ない。
アカメは隣にいるヴァルと一度だけ顔を見合わせ、そのまま重い扉へ手をかけた。
読んでいただき、ありがとうございました!
今回は、アカメの初めての単独討伐と、父から短剣を受け継ぐお話でした。
「その短剣を持って森へ入るなら、必ず持って帰ってこい」
「短剣を?」
「お前ごとだ」
そして、ついに《神授祭》当日。
ヴァルには何が授けられるのか。
アカメには、どんな《ジョブ》が与えられるのか。
次話、二人の《神授》です。
ここから物語が大きく動き始めます。
次話もよろしくお願いいたします!




