第7話 「村の外」
十三歳になった春、アカメは初めて「村の外」が世界地図の上に書かれた知識ではなく、実際に人の暮らす場所として存在していることを実感した。
きっかけは、いつものように狩りから戻ってきた父だった。
その日の獲物は《角兎》が二匹と、小型の鳥型魔物《灰嘴鳥》が一羽。父は家の裏で手際よく解体を終えると、肉とは別にした角や羽根、それから布で厳重に包んだ小さな袋を革鞄へ詰めていた。
「父さん、それどうするの?」
「明日、ベルクへ持っていく。ギルドに納める分だ」
「ベルク?」
「この辺りじゃ一番近い町だ。リュネ村から馬車で三時間くらいのところにある」
「町ってことは、リュネ村より大きい?」
「そりゃな。市場もあるし、冒険者ギルドと生産者ギルドの支部もある」
「ギルド……」
言葉自体は知っている。教会の授業でも、冒険者ギルドと生産者ギルドについて簡単には習った。父が冒険者ギルドに登録していることも、母やガルドたちが生産者ギルドに加入していることも知っている。
ただ、リュネ村にはどちらのギルドもない。
アカメにとってギルドとは、教会の授業と父たちの会話の中だけに存在する場所だった。
「ベルクに行くんだよね?」
「ああ。素材も溜まってきたし、受けてた依頼の報告もしないとな」
――俺も行きたい。そう口にする前に、父が先に言った。
「駄目だ」
「まだ何も言ってないけど」
「顔に書いてある」
即答され、アカメは口を尖らせた。
昔ならここで食い下がっていただろう。しかし森で《森狼》に襲われて以来、父も母も「外へ行く」という言葉には以前より慎重になっている。何より、あの一件以降はアカメ自身も、知らない場所へ勢いだけで飛び出すことが危険だと理解していた。
「父さんと一緒でも?」
だから今度は少しだけ条件を変えてみる。
父は革鞄の口を閉じながら、アカメを見た。
「明日は遊びに行くんじゃないぞ」
「分かってる。ギルドで仕事するんでしょ?」
「それだけじゃない。朝早く出るし、帰りは遅くなる。街道とはいえ魔物が出ないとも限らん」
「森より危ない?」
「場所による」
「じゃあ、行った方が勉強になるじゃん」
我ながら悪くない理由だと思った。
父は少し黙ったあと、困ったように鼻から息を吐いた。
「……母さんに聞け」
「父さんが決めてよ」
「こういう時だけ父親に決定権を押しつけるな」
結局、夕食の席で母を交えた家族会議が開かれた。
母から「お父さんから離れない」「勝手に店へ入らない」「知らない人についていかない」「危険な場所へ近づかない」と次々に条件を追加され、最後には父が「そこまで言うなら紐でも付けるか?」と笑ったせいで、アカメが本気で抗議することになった。
それでも翌朝、アカメは父と並んでリュネ村を出た。
―✧―◇―✧―
ベルクは、リュネ村から馬車で三時間ほど離れた町だった。
村を出る商人の荷馬車に同乗させてもらい、アカメは揺れる荷台の端から流れていく景色を眺めていた。
最初は見慣れた森が続いた。
ところが一時間もすると木々が減り、代わりに広大な畑が姿を現した。小麦らしき穂が風に揺れ、その向こうにはアカメが今まで見たこともないほど長い柵が続いていた。
「すごいな……」
リュネ村にも畑はある。
けれど規模が違った。村の畑がいくつ集まれば、この広さになるのか分からない。
「アルセリアは食料で有名なんだよね?」
「ああ。南へ行けば、この程度じゃ済まんぞ。地平線まで畑って場所もある」
「地平線まで?」
「俺も一度しか見たことないがな」
授業で習ったことを思い出した。
アルセリア王国は、五つの国の中で三番目に広い国土を持つ大国だ。肥沃な土地に恵まれ、他国へ大量の食料を輸出している。
授業で聞いた時にはただの知識だったが、目の前で風に揺れる広大な麦畑を見ると、その意味が少しだけ分かった気がした。確かに、アルセリアは豊かな国に見えた。
街道を進むにつれ、畑の中で働く人々の姿も増えていった。大人だけではなく、アカメより幼そうな子供もいる。鍬を振るう者、籠を運ぶ者、泥まみれになりながら水路を整える者。皆が同じような粗末な服を着ていた。
その中に、妙なものが見えた。
畑の周囲を囲む柵とは別に、人の背丈ほどの簡素な木柵があり、その出入口には槍を持った男が立っている。
「父さん」
「ん?」
「あそこ、何?」
父はアカメの視線を追い、少しだけ表情を硬くした。
「農荘だ」
「農荘?」
「領主や貴族が持ってる大きな農地だ。あそこで働いてるのは、たぶん農奴だな」
教会で習った言葉だった。
特定の土地に属し、許可なく離れることができない人々。
「……あの人たちが?」
「ああ」
アカメと同じくらいの少年が、大人に混じって大きな籠を担いでいた。
別の場所では、小さな女の子が土のついた野菜を集めていた。
「子供も働くんだ」
「農家なら珍しくない。リュネだって家の仕事を手伝う子はいるだろ」
「でも……」
リュネ村で家の仕事を手伝う子供たちと、目の前の彼らは何が違うのか。そう考えたものの、アカメにはまだうまく言葉にできなかった。
リュネ村でも、子供たちは家業を手伝う。アカメだって父と森へ入るし、ヴァルはガルドの鍛冶場で働いている。
それでも、何かが違って見えた。
「帰りたいって言ったら、帰れるの?」
「どこへだ?」
「別の町とか。違う仕事したいとか」
「農奴なら勝手には無理だ。領主の許可が要る」
「授業で習ったけど……本当にそうなんだ」
父はしばらく黙っていた。
「教会で何を習ったかは知らんが、あれもこの国の一部だ」
それだけ言うと、畑へ向けていた視線を前へ戻した。
アカメもそれ以上は聞かなかった。
確かに、目の前には広大な畑があり、大量の作物が作られている。アルセリアが豊かな国だというのは間違いないのだろう。けれど、それを作っている人間がどんな暮らしをしているのかまでは、授業ではほとんど聞かなかった。
授業で聞いた「豊か」という言葉と、泥だらけで籠を担ぐ少年の姿が、アカメの中ではどうしてもうまく重ならなかった。
―✧―◇―✧―
ベルクへ着いたのは、太陽がかなり高くなった頃だった。
「うわ……」
門をくぐった瞬間、アカメは思わず立ち止まりそうになった。
何より人が多かった。リュネ村の祭りの日を遥かに上回る人々が石畳の道を絶え間なく行き交い、その間を荷物を積んだ馬車が進んでいる。道端には籠いっぱいの野菜を並べる露店があり、剣を腰に差した冒険者や大きな斧を背負った男、見慣れない服装の商人まで歩いていた。
道の両側には二階建て、三階建ての建物が並び、窓から看板が突き出している。
「前見て歩けよ」
父に肩を掴まれ、アカメは慌てて馬車を避けた。
「村と全然違う」
「そりゃ町だからな」
「夜もやっぱり明るいの?」
「中心部はな」
父が指した先には、等間隔に立てられた金属製の柱があった。
上部には透明な覆いに包まれた白い石が収められている。
「あれ、もしかして魔道具?」
「街灯だ。暗くなると点く」
授業で見た魔道具のランプを思い出した。
リュネ村では夜になれば、家の明かりは蝋燭や油灯が中心だ。しかしこのベルクでは、通りそのものが魔道具によって照らされるらしい。
「全部魔石で動いてるの?」
「ああ。定期的に交換も必要だし、術式の整備も要る。だから村じゃそう簡単に置けん」
便利だからといって、どこにでもあるわけではない。
魔石にも値段があり、魔道具を作れる職人も限られる。町と村の違いは、建物の数だけではないようだった。
アカメがきょろきょろしているうちに、父は大通りから一本入った場所にある大きな建物の前で止まった。
入口の上には、剣と盾、それに翼を模した紋章が掲げられている。
「ここだ」
「冒険者ギルド……」
扉を開けると、まず聞こえてきたのは人の声だった。
酒場のように騒がしいというほどではないが、受付で話す声、依頼書を眺めながら相談する声、素材の値段を巡って交渉する声が絶えず響いている。
広い一階にはいくつもの受付があり、壁一面の掲示板には大量の紙が貼り付けられていた。
「父さん、あれ全部依頼?」
「ああ」
近づいてみると、
《荷馬車護衛》
《薬草採取》
《街道周辺の魔物討伐》
《行方不明家畜の捜索》
など、内容は想像していたより幅広かった。
「魔物を倒すだけじゃないんだ」
「冒険者って名前の割には何でも屋だからな」
父は慣れた様子で受付へ向かい、首から下げていた小さな金属板を取り出した。
「こんにちは、ロンドさん」
「ああ。依頼の報告と素材の買い取りを頼む」
受付の女性が金属板を確認した。
あれが冒険者ギルドの登録証らしい。
「《角兎》二体と《灰嘴鳥》一体ですね」
「あと、こっちも」
父が例の布包みを取り出した瞬間、受付の女性が手を止めた。
「それは?」
「《痺毒蜥蜴》の毒袋だ。昨日見つけた」
「ちょっと待ってください。直接台へ置かないでくださいね」
それまで穏やかだった声が、少しだけ真剣になった。
奥から厚手の革手袋をした男性職員が呼ばれ、布包みが慎重に開かれた。
中に入っていたのは、暗い紫色をした小さな袋状の器官だった。
「これが毒?」
アカメが身を乗り出した。
「近づきすぎるな」
父の手が即座に胸元を押さえた。
「触らないよ」
「触らなくても、破れたら危ない」
職員は毒袋を専用らしいガラス容器へ移しながら、アカメを見た。
「興味あるのか?」
「ちょっと」
「これは麻痺毒だよ。量が少なければ手足の痺れで済むけど、多く入れば呼吸に関わる筋肉まで動かなくなるんだ」
「解毒薬は?」
「もちろんあるよ。ただし早く使う必要があるね。毒は全部同じじゃないから、別の毒用の薬を飲んでも意味がないこともあるんだよ」
どこかで似た話を聞いたことがある。
森で父から、毒のある植物について教えられた時だ。
「毒って、見ただけで種類が分かるんですか?」
「全部は無理かな。魔物の種類、傷口、匂い、症状なんかを見て判断するんだ。だから冒険者は、よく出る毒くらい覚えておいた方がいいんだよ」
「色は関係ある?」
「あるものもあるし、ないものもある」
「匂いは?」
「それも種類によるかな。ただ、毒を確かめるために直接嗅いじゃだめだよ?」
「舐めるのは?」
「絶対に駄目だ」
「分かってるよ」
「お前はたまに怖い質問をするな」
父が呆れた顔をした。
アカメとしては、確認しただけだった。
けれど毒というものが少し面白く感じたのも事実だった。
同じ「毒」でも、痺れさせるもの、熱を出すもの、身体を弱らせるものがある。その種類によって対処方法まで違う。
知らなければ危険だが、知っていれば助かる可能性が増える。その考え方は、森について学んだ時とよく似ていた。
「これ、何に使うんですか?」
ガラス容器へ入った毒袋を見ながら尋ねる。
「薬師や錬金術師が買うよ。薄めて薬の材料にしたり、研究したり。もちろん、管理された毒として使われることもある」
「毒が薬になるの?」
「ものによるかな。量にもよるし。同じものでも、使い方次第で薬にも毒にもなるんだ」
アカメはその言葉を頭の隅へ残した。
「お前、妙なところで食いつくな」
父が言った。
「知らないより知ってた方がいいでしょ?」
「まあ、それはそうだが」
それ以上は止めなかった。
結局、《痺毒蜥蜴》の毒袋は思っていた以上の値段で買い取られた。さらに《角兎》の角や《灰嘴鳥》の羽根も査定され、受付の奥では職員たちが一つずつ素材を分けていた。
「肉だけがお金になるわけじゃないんだね」
「魔物は捨てるところが少ないからな。牙は武器や装飾品、皮は防具、骨は加工品。魔石も取れれば売れる」
「魔石って全部の魔物から出るの?」
「基本はな。ただし質も大きさも違う。弱い魔物の小さな魔石じゃ、大した値段にはならん」
魔物は人間を襲う恐ろしい存在だが、その素材によって生活している人間もいる。
冒険者が倒し、素材をギルドが買い取り、職人が加工し、それを別の誰かが使う。
魔道具を動かしている魔石だって、元を辿れば魔物の身体から取り出されたものだ。
十二歳の授業で見た小さなランプと、今目の前で査定されている魔物の素材が、アカメの中で初めて一本につながった。
―✧―◇―✧―
「母さんたちのギルドも、こんな感じなの?」
冒険者ギルドを出た後、アカメは父について大通りを歩いていた。
「生産者ギルドか? 少し違うな」
「どういうところが?」
「冒険者ギルドは、依頼を受けて働く奴が中心だ。生産者ギルドは、作った物を売ったり商売したりする人間を管理する。品質や値段の揉め事を仲裁したり、店を出す許可を確認したりな」
「じゃあ母さんが服を直してお金をもらえるのも?」
「生産者ギルドに登録してるからだ。ガルドの鍛冶場も、エルナの仕入れも同じだな」
ただの身分証だと思っていたが、それだけではないらしい。
誰が何を売っているのか、問題が起きた時に誰が責任を持つのか。
そういう仕組みまで含めてギルドが存在している。
「何か、この世界って思ってたよりちゃんとしてるな」
「何だと思ってたんだ?」
「もっとこう……剣持った人が魔物倒して、それで生活してる感じ」
「間違ってはいないが、それだけで国が回ると思うか?」
「思わない」
「ならそういうことだ」
父は笑った。
アカメも少し笑い、それから通りの向こうへ目を向けた。
魔道具の街灯があり、商人が商品を運び、冒険者が魔物の素材を売る。その素材を鍛冶師や薬師が利用し、さらに彼らの仕事をギルドが支えている。そうした一つ一つの仕組みが繋がって、この町の暮らしを作っているのだ。
リュネ村だけを見ていた頃より、世界が少しずつ複雑になっていく。
そして複雑になるたびに、分からないことも増えていった。
帰りの馬車から、もう一度街道沿いの農荘が見えた。朝と同じ畑で、同じように人々が働いていた。
遠くから見れば、そこは豊かなアルセリアを象徴する広大な農地だった。けれど今のアカメには、朝に見た時とは少しだけ違って見えた。
ベルクでは大勢の人が、自分の仕事を選び、商品を売り、依頼を受けていた。
その一方で、あの畑にいる人々には、同じように選ぶことができない。
「父さん」
「何だ?」
「農奴って、冒険者になれるの?」
父は少し考えた。
「領主が許せばな」
「許さなかったら?」
「なれない」
「生産者ギルドも?」
「勝手には入れんだろうな」
アカメは荷台の縁に頬杖をつき、畑を眺めた。
教会では、神がその人に《ジョブ》を授けると習った。十六歳になれば、それぞれに向いた力が与えられる。けれど、もし農奴に《鍛治師》が授けられても、領主が畑から出ることを許さなかったらどうなるのだろう。
それが《商人》でも、《剣士》でも、《魔術師》でも、身分がその道を選ぶことを許さなければどうなるのか。
「ジョブと身分って、どっちが強いんだろ」
「何の話だ?」
「いや……何でもない」
まだ質問の形にもなっていなかった。
そもそも、アカメは農奴の生活を何も知らない。今日見たのだって、馬車からほんの少し眺めただけだ。それだけで何かを決めつけるのは違う気がした。
ただ、十二歳の授業で感じた小さな引っかかりは、消えるどころか少しだけ大きくなっていた。
アルセリアが豊かな国だというのは、きっと嘘ではない。今日訪れたベルクには活気があり、商品が並び、魔道具まで使われていたからこそ、その豊かさの外側にいるように見えた人たちのことが、アカメには余計に気になった。
「アカメ」
父の声に顔を上げた。
「これ、持っておけ」
差し出されたのは、小さな紙包みだった。
「何?」
「さっきギルドで買った。痺れ止めと簡単な解毒薬だ」
「俺に?」
「今日、毒の話にやたら食いついてただろ」
「勉強になるかなって」
「勉強するのはいい。ただし、毒は知識があっても間違えれば死ぬ。まず触らない、口にしない、分からない物を勝手に使わない。それを覚えろ」
「分かった」
「本当に?」
「森の時みたいに言うのやめてよ」
「一生言うって言っただろ」
「本当に一生言う気なんだ……」
父は笑いながら、紙包みをアカメの手に乗せた。
軽い。
けれど、その中に入っているものが誰かの命を救うこともあるのだと思うと、妙に重く感じた。
アカメは包みを鞄の奥へしまい、もう一度街道の向こうを眺める。
朝、この道を通った時にはベルクへ行けることだけで胸がいっぱいだったが、帰り道には知っていることがいくつも増えていた。
魔物は素材になるし、魔石は町の明かりを灯す。毒は人を殺すだけではなく、扱い方によって薬にもなる。ギルドは冒険者や職人の仕事を支えている。そして、同じアルセリア王国に生まれても、誰もが同じように生きられるわけではない。
どれも教会で言葉として習ったことはあった。けれど実際に見ると、それはまるで違った。村の外には、アカメの知らないものがまだいくらでもある。
奏馬も、そのどこかで暮らしている。
いつか探しに行くためにも、女神に言われた「世界」を知るためにも、知らなければならないことは思っていたより多そうだった。
馬車がリュネ村へ近づく頃には、空は茜色に染まっていた。遠くに見慣れた森が見えてきた。
それを見た途端、アカメは少しだけ安心した。
広い世界を知ることは面白いけれど、帰る場所が見えるのも悪くない。
アカメは鞄の中にある小さな解毒薬を指先で確かめながら、揺れる馬車の上で静かに目を細めた。
読んでいただき、ありがとうございました!
今回は、アカメが初めて村の外へ出て、ベルクや冒険者ギルドを自分の目で見るお話でした。
【今回の公開情報】
ベルク:ベルディア領東部にある地方都市。リュネ村から馬車で約三時間。冒険者ギルドと生産者ギルドの支部があります。
《痺毒蜥蜴》(パラリザード):麻痺毒を持つE級魔物。毒袋は薬や研究素材として取引されます。
アカメが興味を持ち始めた「毒」が、今後どう繋がっていくのか。
次話もよろしくお願いいたします!
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