第32話 「盾と短剣」
治療室を出て、久しぶりに特級の教室へ足を踏み入れた朝、アカメは思わず立ち止まった。
窓際ではアリアがノアと話し込み、セドリックは机に突っ伏している。ヴァルは手帳に何かの寸法を書きつけ、ルカは椅子を後ろに傾けていた。たった一週間ほど離れていただけなのに、見慣れた光景がひどく懐かしい。
「おっ、アカメ! 復帰おめでとう!」
「ありがとう、ルカ。まだ座学だけだけどね」
「それでもいいだろ! 隣が静かすぎて落ち着かなかったんだよ!」
「ルカさんが静かにしてくだされば、ちょうどよかったと思いますけど」
「リゼット、それは言わない約束だろ!」
隣に立つリゼットが微笑むと、周囲から笑い声が上がった。アカメは自分の席へ向かい、机に置かれた教本を開く。右腕にはまだ薄い包帯が残っていたが、もう胸の前に固定する必要はなくなっていた。
休んでいた分の遅れを取り戻したくて、その日のアカメはよく手を挙げた。分からない術式の意味や、実戦での判断の違いについて質問すると、教師は一つずつ丁寧に答えてくれた。
「なるほど……。じゃあ、同じ術式でも使う場所によって結果が変わるんですね」
「そのとおりです。よく気がつきましたね」
教壇から褒められると、隣のリゼットが小さく笑った。それを見たルカが、なぜか勢いよく手を挙げる。
「先生! 俺からも質問!」
「はい、ルカさん」
「剣の振り下ろしと横薙ぎだったら、魔力を乗せる時はどっちが強いんですか!」
「それは条件によります。そもそも今は術式の組み方のお話ですよ」
「あっ、そっか!」
教室が笑いに包まれる。ルカは少しも気にせず、今度こそ授業の内容に沿った質問を考え始めた。アカメも笑いながら教本へ目を戻す。戻ってきたのだと、ようやく実感が湧いてきた。
―✧―◇―✧―
午後の実技では、アカメだけが演習場の端に設けられた見学席へ座っていた。
ミレイアの許可が出ているのは座学までだ。右腕に大きな負担をかけることも、魔力を体外へ放出する訓練も禁じられている。分かってはいるのだが、仲間たちが動き始めると、どうにも身体がうずうずした。
ルカの剣が風を切り、アリアの魔糸が光を受けてきらめく。レオンは盾を構え、相手の攻撃を受けながら滑らかに位置を変えていた。
アカメの視線は、足元に置かれた訓練用の短剣へ向かった。普段使っている父の短剣ではない、刃の丸められた木製のものだ。何となく左手で持ち上げてみると、握り慣れた重さがいつもとは違う場所に収まった。
「……あれ」
手首を小さく返してみる。思ったより素直に刃先が動いた。今度は逆手に握り直してみると、左肩から腰へかけての動きも意外なほど滑らかだった。
《体術》によって身体の使い方を身につけているおかげだろうか。右手と同じようにはいかなくても、練習すれば使い道がありそうだ。
もう一度、短剣を動かしかけたところで、向こうから視線を感じた。
リゼットが、じっとこちらを見ている。
アカメは慌てて左手を持ち上げ、右腕は使っていないと示してから、親指を立てた。大丈夫、というつもりだった。
リゼットは少しも安心した顔をせず、両手で大きく罰印を作った。続けて椅子を指差し、そこに座っていろと言いたげに眉を寄せる。
隣でそれを見ていたアリアが、ぱっと目を輝かせた。
「ねえ、リゼット! 何、今の! 二人で秘密の暗号でも飛ばしてるの!?」
「ち、違います! アカメが大人しくしているか、確認しているだけです!」
「ええ~? 顔、赤いよ?」
「赤くありません! それより、アリアさんも訓練に集中してください!」
アカメが思わず笑うと、リゼットの視線が再び飛んできた。今度こそ短剣を膝へ置く。治療室で、もう勝手なことはしないと約束したばかりなのだ。
「……お前、まさか」
汗をタオルで拭いながら、ヴァルが近づいてきた。
「そう、そのまさか。左でも扱えないかなって。よく分かるね」
「短剣を持ってる時点で分かる。……まだ実技は禁止だろ」
「うん。ちょっと握ってみただけ。もう置いたよ」
「ならいいけどな。左で扱うのは、そう簡単じゃないぞ」
「でも《体術》のおかげか、思ったより動かせたんだ。許可が出たら練習してみたい」
「……はあ。止めても、きっと考えるのをやめないんだろうな」
「よく分かってんじゃん」
「無茶はするなよ。お前がまた怪我したら、俺までリゼットに怒られる」
「ま、まじか……」
「この前も、お前の短剣の具合を聞かれた。壊れそうなら先に止めろってな」
ヴァルは呆れたように笑い、アカメの左手にある訓練用短剣を指差した。
「本当に左右で持ち替えるなら、柄の形も考え直さないとな。片手で握りやすい形が、もう片方でも同じとは限らない」
「……父さんの短剣も?」
「すぐに変えろとは言わない。ただ、今のまま無理な持ち替えを繰り返せば、柄の方が先に傷むかもしれない。刃をいじらずに済む方法もあるから、まずは腕を治せ」
「……うん。ありがとう、ヴァル」
父ロンドから受け取った短剣。握るたびに故郷を思い出す大切なものだから、簡単には変えたくなかった。それでも、ヴァルの言葉は頭の片隅に残った。
―✧―◇―✧―
それから数日が過ぎた。
ミレイアの診察で右腕の傷は十分に回復したと確認され、アカメはようやく実技への復帰を許された。魔力を体外へ放出することは引き続き禁じられていたが、身体を動かせるだけでも嬉しかった。包帯も外れ、右手には少しだけ皮膚の色の違いが残っているものの、痛みはもうない。
最初の訓練では、予想外のことが起きた。久しぶりに駆け出した身体が、驚くほど軽かったのだ。
毎日の走り込みや模擬戦で溜め込んでいた疲れが、長い休養の間に抜けたのかもしれない。足の運びが素直で、呼吸にも余裕がある。アカメはその感覚を確かめながら、まず右手で、次に左手で短剣を振った。
右腕をかばう癖はまだ少し残っていた。それでも左手に持ち替えた時、相手の予想を外せるかもしれないという手応えがある。左右の入れ替えに加えて逆手の構えまで使いこなせたら、攻め方はずっと増えるはずだった。
ただ、一人ではどこが悪いのか分かりにくい。
授業が終わったところで、アカメはレオンに声をかけた。
「レオン、よかったら一緒に訓練しない?」
「もちろんだ! 俺もアカメと一度、しっかり戦ってみたかったんだ!」
「本当に? 助かるよ。左手の使い方も見てほしくてさ」
「任せろ。俺は左利きだからな。教えられることがあれば、いくらでも教えるぞ!」
レオンは快活に笑い、訓練用の剣と盾を持ち直した。彼は《聖騎士》のジョブを授かった特級生で、左手に剣、右手に盾を構える。小貴族の家で育ったためか、立ち姿には自然な品があるが、勝負の話になると途端に目が輝く男だった。
訓練場を使いたいと相談すると、ちょうどその時間帯の優先利用枠を持っていたルカが、二つ返事で場所を譲ってくれた。
「おっ、二人でやるのか! 俺も混ざりたい!」
「まずは一対一で試したいんだ。終わったら相手してよ」
「約束な! あとで見に行くから!」
そうして二人は、特級生が使う演習区画の一つへ向かった。
開始の合図とともに、アカメは低く踏み込んだ。真正面から打ち合えば、剣と盾を備えたレオンに分がある。だからこそ、速度で横へ回り、盾の外側を狙う。
《急所看破》が、レオンの構えのわずかな隙を教えてくれた。
「そこっ!」
「甘いっ!」
しかし短剣の先端が届くより早く、盾がその位置を塞ぐ。硬い音が鳴った直後、左から訓練剣が迫った。
《危険感知》が反応し、アカメは身を引いてかわした。
今度は短剣を左手へ渡す。
左側からの切り返しに、レオンの眉がわずかに上がった。
「ほう、そちらも使うのか!」
「まだ練習中だけどね!」
勢いよく踏み込む。ところが、右手と同じ間合いを取ったつもりが、腰の向きが合っていなかった。短剣が狙った位置を外れ、次の一歩でも足がもつれる。
レオンはその隙を見逃さなかった。盾でアカメの体勢を止め、訓練剣を肩口の寸前で静止させる。
「一本だな!」
「……参った! 思ったより難しいや」
二人は武器を下ろした。アカメは左手を開いたり閉じたりして、今の動きを思い返す。レオンは盾を地面に置くと、彼の横へ並んだ。
「速さは驚くほどだ。守るので精いっぱいになる瞬間もあったぞ。ただ、左手に持ち替えた時、足は右手の構えのままだったな」
「やっぱり。自分でも何か変だと思ってた」
「見ていてくれ。俺が左から踏み込む時は、こうする」
レオンはゆっくりと動きを再現した。左肩の向き、腰の回転、盾で相手の視線を遮る位置。アカメは何度も真似し、どこへ体重を乗せれば短剣を運びやすいのかを確かめた。
「……なるほど。利き手を変えれば、足の使い方も変わるんだね」
「ああ。だが、お前には俺にない身軽さがあるから。そこは無理に真似しなくてもいいと思うぞ!」
「ありがとう。じゃあ、もう一回やろう!」
「望むところだ!」
その日、勝負はほとんどレオンが取った。けれどアカメは、負けるたびに新しい発見を得ていた。
―✧―◇―✧―
それから、アカメとレオンは頻繁に訓練を重ねるようになった。
左手だけで短剣を扱う日もあれば、右から左へ受け渡す瞬間だけを繰り返す日もあった。逆手に持つと間合いが変わり、腕の動きが大きすぎれば懐へ入り込まれる。そうした癖を、レオンは遠慮なく指摘してくれた。
一方で、アカメにも教えられることがあった。
ある日の夕食、二人は食堂の隅で訓練の続きを話していた。レオンは食器を丁寧に揃え、アカメは皿に残った最後の一口を頬張りながら手を動かす。
「今日の最後の打ち込み、レオンが盾で受けた時さ。俺、すぐに体勢を戻せたんだ」
「む? あれはしっかり防いだつもりだったんだがな」
「うん。防ぐのは完璧だった。でも、正面から止められると、俺もその反動で下がれるから。力を流されてたら、もっと崩れてたと思う」
アカメは空いた左手で、盾の面を斜めにする仕草を見せた。
「例えばこう。短剣を弾くんじゃなくて、滑らせるように外へ逃がす。そうしたら、俺の肩が開いたところへ剣を入れられるんじゃないかな」
「……なるほど! 防ぐだけでなく、次の攻撃のために相手を動かすわけか!」
「そうそう。レオンならできそうだと思って」
「面白い! 明日、早速試そう!」
レオンは嬉しそうに笑った。普段の整った所作が崩れるほど前のめりになり、アカメまでつられて笑う。
「俺も助かっているんだ、アカメ。速さと手数で押される相手は、どうにも苦手でな。アカメほどいい練習相手はいない」
「俺も、レオンの盾には毎回苦労してるよ」
「それでこそ訓練だ! 簡単に勝てたら、互いのためにならないからな!」
ふと、レオンが声を落とした。
「……正直に言えば、最初は少し身構えていたんだ。《アサシン》というジョブにな」
アカメの手が止まる。レオンはその表情を見て、逃げることなく続けた。
「人を殺めるための職だと、幼い頃から聞かされてきた。だが、お前と話し、一緒に戦って分かったよ。ジョブの名前だけで人柄を決めつけるのは、間違いだった」
「……レオン」
「困っている誰かを放っておけないところも、自分をもっと鍛えようとするところも、俺は好きだ。だから、これからも遠慮なく勝負してほしい」
レオンは拳を差し出した。
「親友として、な!」
アカメは少し驚いてから、嬉しそうに笑った。
「……うん! 俺もレオンと親友になれてよかった!」
二人の拳が、食卓の上で軽く触れ合った。
―✧―◇―✧―
訓練を重ね始めて、二週間近くが過ぎた。
特級の演習場には、いつしか二人の模擬戦を見に来る生徒が増えていた。放課後になると、アカメとレオンが訓練用の短剣と剣、盾を手に向かい合う。それがちょっとした楽しみになっているらしい。
最初の頃は右手で攻撃するたびに左手への持ち替えが遅れていたアカメも、今では左右どちらからでも鋭く踏み込めるようになっていた。
短剣を逆手に握り、盾の下をくぐるように切り返すこともできる。動きの精度は日に日に上がり、右手と左手の差は、見ている者にはほとんど分からなくなっていた。
向かい合うレオンも、以前とは別人のようだった。
盾で攻撃を正面から受け止めるだけではない。短剣の角度に合わせて盾を傾け、勢いを逃がしながら相手の肩を開かせる。そこへ左手の剣を伸ばすため、アカメは一瞬たりとも気を抜けなかった。
「はあっ!」
「まだだ!」
短剣が盾を滑り、剣がアカメの肩先をかすめる。アカメは後ろへ下がると見せかけて横へ踏み込み、短剣を右手から左手へ渡した。レオンはすぐに盾を返し、互いの一撃が届かないぎりぎりの距離で向き合う。
「……おい、もう三十分近くやってるぞ」
「あんなに動いて、まだ終わらないのか……?」
見学していた生徒たちがざわめく。二人とも息は上がり、額から汗が滴っていた。それでも、攻防が途切れるたびに呼吸を整え、再び構え直す。速さだけに頼らず、相手の動きを読み合う時間さえ、観客には目を離せないものになっていた。
「うおおっ、すげえ! なあ、俺も途中から混ざっていいか!?」
「ルカ、今入ったら二人とも怒るって!」
「だって、見てるだけじゃ我慢できねえよ!」
アリアは目を回すように顔を左右へ動かしていた。
「もう、どっちが攻めてるのか全然分かんない! さっき右にいたと思ったら、もう左にいるし!」
「……足じゃなくて、腰を見ると少し追いやすいよ」
セドリックが眠そうに助言する。その隣でノアはグラウの頭を撫でながら、二人の動きをじっと見つめていた。
ヴァルは少し離れたところで、アカメが持ち替えるたびの手の位置を確かめていた。時折《鑑定》を働かせ、訓練用短剣の柄にかかる力や握り方を見比べている。
「……やっぱり、あの持ち替え方だと負担が偏るな」
隣ではリゼットが記録用紙を埋め続けていた。攻撃の種類、回避の方向、盾に弾かれた角度まで、筆先が休むことはない。
その時、見学者の後ろから声がした。
「……なあ、あいつ《アサシン》だろ? 仮とはいえA級なんじゃなかったか?」
「相手はS級の《聖騎士》だぞ。なんであんなに渡り合えるんだよ」
「そりゃ、人を殺すためのジョブなんだからな。ああいう動きは得意なんだろ。……正直、怖いよな」
ルカの表情が変わった。アリアも眉を吊り上げ、一歩踏み出そうとする。
「おい、お前ら――」
「ルカ、いい」
ヴァルが腕を伸ばして止めた。同時にリゼットも、アリアの手首へそっと触れる。
「……言わせておきましょう。今は、あの二人の訓練を見ていたいです」
「でもさ、リゼット……!」
「悔しくないわけではありません。でも、アカメは今、自分の力で一つずつ積み重ねていますから」
リゼットは静かに演習場へ目を戻した。ルカとアリアも、不満げな顔のまま、それ以上は何も言わなかった。
最後の攻防が始まった。
アカメが右から踏み込み、レオンが盾を斜めに傾ける。刃を滑らされたアカメは、その力に逆らわずに身体を回した。回転の途中で短剣を左手へ移し、逆手に握り直す。
「――そこっ!」
「読んでいたぞ!」
レオンが盾を引き、剣を突き出した。アカメも一歩だけ深く入り、二人の武器が同時に止まる。
訓練剣の先端はアカメの肩口へ。短剣の切っ先は、レオンの脇腹へ。
どちらも、あとわずか進めば有効打になる位置だった。
「……相打ち、だな」
「……うん。やられた」
レオンが笑う。アカメも息を切らしながら笑い返した。周囲から大きな歓声が上がり、ルカの声がひときわ高く響く。
「すっげえええ! 次、俺な! 俺もやる!」
「……先に二人を休ませてあげなよ」
セドリックの言葉に、見学者たちが笑った。
二人は演習場の端へ移動して腰を下ろした。水を飲むなり、レオンが地面に指で線を引き始める。
「最初の一撃だが、俺はアカメが右へ抜けると読んでいた。だが、左へ回っただろう?」
「うん。レオンが盾を出す前に横へ行きたかったんだ。でも、そのあと剣を返してきたよね」
「あれはアカメが足を止めたからだ。次は、もっと早く盾を滑らせたい」
「じゃあ俺は、そこからもう一歩踏み込めるようにしないとな」
話は尽きなかった。始まりの踏み込みから、途中の持ち替え、最後の相打ちまで、二人は互いの立ち位置と攻撃の向きを驚くほど細かく覚えていた。
どの一撃に力が入りすぎていたのか、どこで盾が半歩遅れたのか。地面に描かれる線は、いつしか小さな戦場の地図のようになっていた。
「……アカメ、よくそんなところまで見ていたな」
「レオンだって、俺が足を置き直した回数まで覚えてるじゃん」
「ははっ! 確かにな! それだけ夢中だったんだろうな」
レオンが拳を差し出すと、アカメも左の拳を合わせた。
「次は勝つぞ、アカメ!」
「俺だって。次は負けないよ!」
片づけを終え、二人が訓練場を出ようとした時だった。
「……アカメ」
振り返ると、リゼットとヴァルが並んで立っていた。リゼットの手には文字で埋まった記録用紙が、ヴァルの手には何やら細かな寸法を書き込んだ手帳が握られている。
「二人とも、どうしたの?」
ヴァルはアカメの腰に下げられた、父ロンドから譲り受けた短剣へ目を向けた。
リゼットはその顔をじっと見つめた。
「……話がある」
「私からも、お話ししたいことがあります」
二人の声が、ほとんど同時に重なった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
今回はアカメの授業復帰と、新しい戦い方への挑戦、そしてレオンとの友情を描きました。
互いの長所を学び、切磋琢磨する二人の成長を楽しんでいただけたら嬉しいです!
そして最後に声をかけてきたヴァルとリゼット。二人はアカメに何を伝えたいのでしょうか?
次回もよろしくお願いします!




