第30話 「触れないで」
アカメがルカとの模擬戦で勝利してから、一週間が経った。
王立学園の第一級教室では、始業の鐘が鳴る前から落ち着かない空気が漂っていた。普段なら教本を開いている生徒まで教壇の方を気にしており、アリアは先ほどから何度も廊下を覗き込んでいる。
「ねえ、アカメ。今日、何か発表があるらしいよ!」
「そうなの? 試験の予定でも変わるのかな」
「もっと大きな話だって聞いたけどなあ。特級の先生たちも来るんだって!」
「……朝から騒がしいと思ったら、それか」
少し離れた席で、セドリックが眠そうに頬杖をついていた。アリアが「気にならないの?」と問いかけても、彼は欠伸を一つ返すだけだった。
アカメも話の内容は気になったが、まず頭に浮かんだのは昨日の訓練だった。リゼットと練習している回避からの反撃は、足運びを間違えなければ随分安定してきた。ルカとの模擬戦で使えた時は嬉しかったものの、次に同じ手が通じるとは限らない。ヴァルからも、まだ柄の握り方に改善の余地があると言われている。
考えているうちに教室の扉が開き、ダリオとセレナが入ってきた。生徒たちが席へ戻るのを待ち、ダリオが教壇の前に立つ。
「よし、全員聞け! 先日の合同実技と模擬戦の結果を踏まえて、学園から新しい通達がある!」
セレナが資料を開いた。
「第一級の一部の生徒について、特級の専門課程へ編入することが決まりました。ジョブの等級が変わるわけではありませんが、今後は能力に応じた専門指導を受けてもらいます」
教室がざわめいた。特級にはルカやヴァル、リゼットが在籍している。S級のジョブを授かった生徒を中心に、高度な実技や研究を行う課程だと聞いていた。
「対象者を発表します。アカメ・オルディンさん、セドリック・ローヴェンさん、アリア・フェルネットさん、ノア・ベルンさん、エアシル・リーフェンさん。以上の五名です」
「……俺?」
「やったあ! 特級だって!」
アリアが思わず立ち上がり、周囲から笑いが起きる。隣のエアシルは自分の名前を確かめるように小さく繰り返し、それから遠慮がちに手を挙げた。
「あの、先生。私も専門課程でやっていけるのでしょうか……?」
「もちろんです。エアシルさんの《風癒術師》は、治癒と風の力を組み合わせられる貴重なジョブです。今できることだけでなく、これから伸ばせる部分も含めて評価しています」
「……ありがとうございます。頑張ります」
セレナの答えに、エアシルはほっとしたように笑った。
「アカメは敏捷性と実戦での判断力、セドリックは剣と雷の複合運用、アリアは魔糸の制御、ノアは魔獣との連携だ。だが、どいつも課題は山ほどある! 特級に行っただけで強くなった気になるなよ!」
「はい!」
アカメは思わず背筋を伸ばした。ルカに勝てたことは自信になったが、剣の扱いでは今も敵わない。相手の隙を一度突けたというだけで、彼との差がなくなったわけではないのだ。
授業が終わり、荷物をまとめていると、アリアが机へ身を乗り出してきた。
「よかったね、アカメ。これでリゼットとも同じ課程だよ!」
「うん。また一緒に勉強できるね。分からないところも聞けるし」
「……もうちょっと別の感想はないの?」
「えっ? 特級の授業、楽しみだよ?」
「そっちじゃなくて!」
アリアは呆れたように笑い、アカメは首を傾げた。何が足りなかったのか考えている間に、次の集合を知らせる鐘が鳴った。
―✧―◇―✧―
特級で最初に参加する実技は、学園南側の林を利用した探索訓練だった。
背の低い木々の間に岩場や小川が設けられ、足元には落ち葉が積もっている。整備された演習場とはいえ、森の中にいるような土と草の匂いがした。故郷のリュネ村で父ロンドと山を歩いた日のことを思い出し、アカメは自然と表情を緩めた。
「アカメ! こっち! こっち!」
林の入口でルカが手を振っていた。その隣にはヴァルとリゼットもいる。
「特級に来るんだってな! おめでとう!」
「ありがとう、ルカ。これからよろしくね!」
「おう! そのうち再戦もするからな!」
「その前に、二人とも授業を受けろよ」
ヴァルが呆れた声で言うと、ルカは笑って肩をすくめた。リゼットも記録帳を胸に抱え、アカメへ微笑みかける。
「改めて、おめでとうございます。専門課程の資料、必要でしたらお貸ししますね」
「ありがとう。でも、リゼットが貸してくれたら、全部調べたくなって寝る時間がなくなりそうだな」
「ふふっ。それは困りますね。では、最初は必要なところだけにしましょう」
「うん。先生、よろしくお願いします!」
「……もう、その呼び方はやめてくださいってば」
そう言いながらも、リゼットは楽しそうだった。アカメも笑い、彼女の手元にある記録帳へ視線を向けた。最近は一緒に過ごす時間が増え、彼女が何を調べようとしているのか、言われる前に少し分かるようになってきた気がする。
「全員、集合!」
ダリオの号令で生徒たちが集まった。セレナが林の見取り図を掲げ、今日の課題を説明する。
「演習区画の中には、五つの魔力標が隠されています。見つけたら手を触れ、中央の紋様が点灯するまで待ってください。標に組み込まれた術式が、接触した生徒の魔力を読み取って記録します」
「自分から魔法を使わなくてもいいんですか?」
アカメが尋ねると、セレナが頷いた。
「ええ。魔力を放出する必要はありません。今回の課題は身体を動かす探索が中心なので、ミレイア先生とも相談した上で参加を認めています。ただし、アカメさんが自分の魔力を体外へ放出することは、引き続き禁止ですよ」
「はい。気をつけます」
リゼットが隣でそっと息を吐いた。魔法の練習中にアカメの右手を傷つけた黒い光は、ハロルドたちが調べているものの、まだ正体が分かっていない。あの時に見たリゼットの怯えた顔を思い出すと、アカメも無茶をするつもりにはなれなかった。
「林の中には罠と、魔獣を模した魔力人形を置いてある。周囲をよく観察しろ。人形の攻撃は訓練用だが、油断すれば転んで怪我をするぞ!」
「各自の記録を取りますが、協力は自由です。誰かの得意なことに頼るだけでなく、自分に何ができるのかも考えてくださいね」
セレナの言葉を聞き、アカメは林へ目を向けた。魔力標を探すなら、足の速さだけでは足りない。木々の間の気配や足跡を見分ける、父から教わった知恵も役立ちそうだった。
「それでは、開始!」
―✧―◇―✧―
林へ入ると、入口から見えていたよりも木々が密集していた。地面には細い根が張り出し、枝に視界を遮られる場所もある。アカメは靴の裏で土の感触を確かめながら進み、近くを歩くセドリックとノアに声を掛けた。
「この辺り、足元の草が倒れてる。何か通ったのかな」
「……人形じゃない? 面倒だな」
「まだ見つかってもいないのに、そんな顔しなくてもいいじゃん」
セドリックは眠そうに答えたが、腰の訓練剣にはすぐ手が届くようにしていた。ノアは少し後ろでグラウの様子を見ている。灰色の大きな狼は、広く整えられた通路に身を置き、茂みの奥へ鼻先を向けていた。
「グラウ、どうしたの?」
ノアが声を掛けると、グラウは低く唸った。それとほとんど同時に、アカメの胸の奥を嫌な感覚がかすめる。
「……来る!」
茂みが揺れ、犬ほどの大きさをした四足の魔力人形が飛び出した。木製の胴体には青い魔石が埋め込まれ、牙を模した丸い突起を向けて突進してくる。
アカメは横へ跳んで進路を外し、人形が通り過ぎるのを見届けた。すぐに向きを変えてきた相手へ、セドリックが訓練剣を構える。
「……止めるよ」
剣に紫色の雷が走った。セドリックが前脚へ刃を振り下ろすと、雷が関節の仕組みを一瞬乱し、人形の動きが鈍る。その隙を逃さず、アカメは側面へ回り込んだ。
《急所看破》を働かせると、脚と胴を繋ぐ部分が狙いどころとして浮かび上がる。そこへ訓練用短剣を差し込むと、関節が外れ、人形は横倒しになった。魔石が赤く明滅し、やがて静かになる。
「よし、止まった!」
「……俺だけでも倒せたけど」
「そうかも。でも、二人の方が早かったでしょ?」
「……まあ、それはそうだね」
ノアが笑いながら近づき、グラウが気にしていた茂みを指差した。根元には石板が一枚隠されており、教わったものと同じ紋様が刻まれている。
「魔力標ですね。グラウが気づいてくれたみたいです」
「すごいな。人形だけじゃなくて、こっちも見つけたんだ」
アカメが石板に触れると、紋様が淡く輝いた。指先には微かな温かさが伝わっただけで、魔力を外へ押し出すような感覚はない。表示が消えるのを確かめ、二人にも場所を譲った。
その後、アリアとも合流した。彼女は魔糸を枝へ伸ばし、目の届かない場所を探っている。二つ目の魔力標を高い枝の陰から見つけた時には、得意げな笑顔でこちらを振り向いた。
「どう? 私の糸、こういう時にも便利でしょ!」
「うん。俺だったら、あんなところ見落としてたよ」
「ふふん! もっと褒めてもいいんだよ?」
「すごいよ、アリア!」
「……あっさり言われると、それはそれで照れるなあ」
アリアが笑い、セドリックが「早く次に行こう」と声を掛けた。三つ目の石板は岩場の裏にあり、その手前には細い蔓を引っかけると柔らかな訓練球が落ちてくる仕掛けが設けられていた。《危険感知》の曖昧な警告でアカメが立ち止まったことが、発見のきっかけになった。
「……何が危ないかまで分かるの?」
「ううん。危なそうって感じるだけ。だから、結局自分の目で探さないと駄目なんだ」
「……それでも便利だよ」
セドリックの言葉に、アカメは頷いた。《危険感知》に助けられたことは何度もある。それでも、警告に頼り切ってしまえば、何が起きているのか分からないまま動くことになる。森で父から教わったのは、気づいた違和感を放置せず、自分でも確かめることだった。
残りの標を探して歩くうち、小川の方から人の声が聞こえてきた。木々の隙間に、赤い髪と淡い緑色の髪が見える。
「あっ、マーレンとエアシルだ」
「……俺たちは向こうを探すよ」
「うん。何か見つけたら教えるね」
セドリックとノアに声を掛け、アカメは小川へ向かった。離れたところではアリアが枝の間に糸を通しており、探索はまだ続いているらしい。
―✧―◇―✧―
「……マーレン、あの岩の辺りだけ風の流れが変なんです」
「分かったわ。私が照らすから、あなたは足元を見ていて」
小川のそばでは、エアシルが風を使って草の揺れ方を確かめていた。マーレンは指先に小さな炎を灯し、岩陰を照らしている。風が吹いても炎の形は崩れず、その細やかな制御にアカメは思わず感心した。
「二人とも、何か見つかった?」
「あっ、アカメさん! まだなんですけど、この近くが怪しくて……」
エアシルが笑顔を向ける一方、マーレンはアカメに気づくと少しだけ身を固くした。
「……あなたも来たのね」
「うん。俺たちは三つ見つけたよ。何か手伝える?」
「別に。こちらは二人で調べられるわ」
「そっか。分かった」
アカメはそれ以上話しかけず、小川の方へ視線を向けた。マーレンが自分を警戒していることは知っている。以前、近づかないでほしいと言われてからは、無理に距離を縮めようとはしていなかった。
その時、枝の間を風が抜け、マーレンの赤い髪をふわりと揺らした。細い葉が一枚、彼女の頭の上に落ちる。
「あっ、マーレン。頭に葉っぱが……」
「……何よ?」
マーレンが振り向いた時、アカメはすでに一歩近づいていた。頭に乗った葉を取ろうと、つい手を伸ばしてしまったのだ。誰かに取ってもらっても自分なら気にしない。そんな何気ない考えからの行動だった。
けれど、伸ばされた手が彼女の視界へ入った途端、マーレンの顔から血の気が引いた。
「……っ!」
その目は、アカメの顔ではなく右手に釘づけになっていた。マーレンは一歩下がり、両腕を上げて頭を庇う。まるで何かが降ってくるのを待つかのように、小さく身体を縮めた。
「――触れないでっ!!」
鋭い叫びに、アカメの動きが止まる。
「ご、ごめん! そんなつもりじゃ……!」
言い終えるより早く、マーレンの指先で炎が膨れ上がった。
小さく安定していた光が急に白さを増し、彼女の手から離れる。マーレン自身が息を呑み、消そうと指を握り込んだ時には、すでに炎は放たれていた。
《危険感知》が胸の奥で跳ねる。アカメは反射的に身を引き、飛んできた炎をかわした。焼けた空気が頬をかすめ、足元の草が焦げる。
「……っ、危な……!」
「……私、今……?」
マーレンが青ざめた顔で自分の手を見つめた。エアシルも驚いて風を集めようとしている。
アカメは振り返った。かわした炎は消えていなかった。小川沿いに伸びる細い通路を、白く輝く火の塊が勢いを失わず進んでいく。
その先に、誰かがいた。
木の根元でしゃがみ込み、魔力標を調べている少女。藍色の長い髪が、木漏れ日に揺れている。
「……リゼット!?」
声を上げた瞬間、リゼットが顔を上げた。彼女はすぐに状況を理解したらしく、右手を前へ差し出す。障壁を形作る光が指先へ集まったが、炎はすでに近すぎた。
「リゼットさん、避けて!」
エアシルの叫びが重なる。リゼットは身を引こうとするものの、背後には木の根が張り出しており、足を取られていた。
アカメは地面を蹴ろうとした。だが、いつもの感覚では距離が遠すぎる。魔法が完成するまでの時間も、彼女が根を越えるまでの時間も、残されていない。
このままでは、間に合わない。
そう思った時、ついさっき見たマーレンの怯えた顔が脳裏をかすめた。自分が不用意に手を伸ばさなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。
それでも、今は後悔している場合ではない。
リゼットがいる。
一緒に笑って、何度も訓練して、分からないことを一緒に考えてくれた、大切な友達が。
あの炎を、彼女に当てたくない。
――守らないと。
その思いだけが、他の何よりも強くなった。
その瞬間、目の奥に針を押し込まれたような熱が走った。
「……っ!」
視界の中で、何かが変わる。
炎がゆっくりになったわけではない。木の葉は風に揺れ続け、火の塊は変わらない速さでリゼットへ迫っている。それなのに、アカメには今まで見落としていたものが一度に分かった。
地面の傾き。小川の縁にある石の位置。リゼットの足が引っかかっている根の高さ。炎の端を流れる不安定な光と、その中心へ向かって集まる魔力。
リゼットの障壁が、あとどれほどで形になるのか。
自分が右へ踏み込めば、どこへ足を置けるのか。
ばらばらに見えていたものが、不思議なほど明瞭に結びついていく。考えるより先に、身体が進むべき方向を理解していた。
筋肉の奥に、これまで感じたことのない緊張が走る。力が無限に湧き上がるわけではない。それでも、普段なら間に合わないはずの動作を、身体が迷うことなく繋げようとしていた。
足を置く位置も、身体を傾ける角度も、すべてが分かる。そして、その判断に応えるように、身体がこれまでの限界を超えて動き始めていた。
アカメは地面を蹴った。
その瞬間、足元の土が弾けた。
今まで経験したことのない加速だった。身体が一気に前へ押し出され、視界の端にあった木々が凄まじい勢いで後方へ流れていく。
速い。
自分でも、そう思った。
これまで何度も走り込みを重ね、誰よりも速く動ける自信はあった。それなのに、今の一歩はまるで違う。
身体が追いつかないほどの速度が出ているはずなのに、不思議と足を置く位置が分かった。地面の凹凸も、次に身体を傾ける角度も、考えるより先に理解できている。
そして次の瞬間には、アカメはリゼットと炎の間へ飛び込んでいた。
「――アカメ!?」
リゼットの声が響く。その金色の瞳に、アカメの顔が映った。
いつもの赤い瞳ではなかった。
緋色の光が、瞳の奥から燃えるように広がっていた。
アカメ自身は、その変化に気づいていない。ただ、リゼットの前へ出た自分の身体が、炎を受け止めなければならないことだけは分かっていた。
アカメは炎の正面へ飛び込むのではなく、その進路を斜めから遮る位置へ身体を滑り込ませた。リゼットへ向かう火の塊の端に右腕を突き出し、少しでも軌道を外そうとする。
次の瞬間、炎が右腕へ激突した。
「――あああっ!!」
焼けるような熱と衝撃が腕を襲う。アカメは歯を食いしばり、火球の進む方向へ腕を押し込むように踏ん張った。
凝縮された魔力の塊が右腕にぶつかり、炎の形が大きく崩れた。アカメは激痛に耐えながら腕を押し込み、火球の中心をわずかに横へ逸らす。
残った炎はリゼットの脇を通り過ぎ、木々の間へ飛んでいった。
「アカメさんっ!」
エアシルの悲鳴と同時に、横合いから大量の水が押し寄せた。巡回していたセレナが異常な魔力反応に気づき、離れた位置から術式を展開したのだ。水が残った炎を包み込み、白い蒸気が林の中に広がっていく。
「全員、その場から離れて! 周囲に火が残っていないか確認します!」
セレナの声が聞こえた。ダリオが駆けつけ、生徒たちを安全な通路へ誘導し始める。
けれど、アカメはすぐには動けなかった。焼けた右腕が身体の横でぶら下がり、手の感覚も曖昧になっている。頭の奥では、鋭い痛みが脈打ち始めていた。
それでも、確かめたいことがあった。
アカメはゆっくり振り返る。
「……リゼット。怪我、ない……?」
リゼットは根元から離れた場所で立ち尽くしていた。魔法陣は消えかけており、差し出した手が震えている。
「……アカメ……?」
「……大丈夫、だった?」
彼女は何か言おうとして、うまく声が出ない様子だった。それから必死に首を横へ振る。
「私は……怪我、ありません。でも、アカメの腕が……!」
「……そっか。よかった……」
アカメはほっとして笑った。
そこで初めて、自分の右腕へ目を向けた。肘から先の袖はほとんど残っておらず、焼けた皮膚の下には白いものが覗いていた。
骨だった。
血の滲む部分もあり、腕を動かそうとすると身体の奥まで痛みが響いた。
眼の奥を満たしていた熱が、急に引いていく。
周囲の音が一気に押し寄せ、地面が傾いて見えた。こめかみが激しく痛み、鼻先から温かいものが流れ落ちる。
「……あれ……?」
「アカメ! 動かないでください!」
リゼットが駆け寄り、無事な左腕を支えようとした。アカメはその顔を見て、また少しだけ笑う。言いたいことはまだあったはずなのに、言葉を探すほど頭が重くなっていった。
「……守れた、よね……」
「はい……! はい、守ってくれましたから……! だから、もう……!」
最後まで聞き取ることはできなかった。力が抜けた身体を、誰かが支える感触だけが残る。
アカメの視界は、そこで途切れた。
―✧―◇―✧―
次に目を開けた時、白い天井が見えた。
薬草の匂いと、窓から差し込む柔らかな光。身体を起こそうとすると右腕に重い痛みが走り、アカメは思わず顔をしかめた。
「……っ、痛……」
「動かないでください」
声のした方へ顔を向けると、ミレイアが椅子から立ち上がった。アカメはゆっくり瞬きをし、ここが学園の治療室だと気づく。
「……ミレイア先生?」
「ええ。気分はどうですか? 目眩や吐き気はありませんか?」
「ちょっと頭が重いです。あと、腕が……」
右腕は肘の辺りまで包帯で覆われ、身体の前で固定されていた。指先は動くが、少し力を入れようとするだけで痛みが増す。
「深い熱傷と裂傷がありました。治癒魔法で傷口は塞ぎましたが、損傷していた部分が完全に元どおりになったわけではありません。数日は安静にして、訓練も中止です」
「……はい。分かりました」
「それから、意識を失う前に鼻血が出ていましたね。目にも強い違和感があったそうですが、覚えていますか?」
アカメは眉を寄せた。炎の前へ飛び込む直前、目の奥が焼けるように熱くなったのを覚えている。周りのものがひどく鮮明に見え、普段ではあり得ないほど素早く動けた気がした。
「……はい。でも、どうしてそうなったのかは分かりません」
「それで構いません。無理に思い出そうとしないでください。ハロルド先生とも確認しますが、今は身体を休めることが先です」
ミレイアはそう言ってから、ベッドの反対側へ視線を向けた。
「……それから、目を覚ましたことを知らせてあげてください」
そこには、リゼットが座っていた。
いつもの記録帳は閉じたまま膝の上にあり、金色の瞳の周りは赤くなっている。アカメが顔を向けると、彼女は何かを確かめるように身を乗り出した。
「……アカメ……」
「リゼット。よかった、無事だったんだね」
その言葉を聞いた途端、リゼットの表情が歪んだ。
「……どうして……」
「……え?」
「どうして、目が覚めて最初に私の心配をするんですか……?」
声が震えていた。アカメが答える前に、リゼットは彼の包帯へ視線を落とした。
「あんなに酷い怪我をしたんですよ。意識だって戻らなくて……。なのに、どうして自分のことより私のことばかり……!」
アカメはしばらく言葉を探した。腕が焼けた時の痛みも、倒れる直前の怖さも覚えている。けれど、最初に浮かんだのは、あの炎が彼女に当たらなかったという安堵だった。
「……だって、守れたから」
リゼットが息を呑む。
「リゼットが無事なら、俺は……それが一番嬉しかったんだ」
「……本当に、馬鹿です……」
「えっ、何で!?」
「だって……私、あのままアカメが目を覚まさなかったらって、ずっと考えていたんですよ……!」
涙が頬を伝った。リゼットは慌てて拭おうとしたが、次々に溢れてくる涙を止められない。
「私が障壁を張るのに間に合っていたら、アカメはあんな怪我をしなかったかもしれません。もっと早く気づいていたら、避けることだって……」
「リゼット……」
「頭では、分かっているんです。あれは突然の事故で、今さら考えても変わらないって……。でも、もし何かが違っていたらって、どうしても考えてしまうんです」
アカメは黙って聞いていた。知らなかったせいで誰かを助けられなくなるのが怖い。以前、彼女がそう話していたことを思い出す。けれど、今もその言葉の奥に何があるのかまでは知らない。
「……リゼット」
「……はい」
「俺、前に言ったよね。分からないことがあっても、一人で全部背負わなくていいって」
彼女は顔を上げた。
「今回だって、リゼットが悪いわけじゃないよ。あの時は俺が動けたから動いたし、セレナ先生が炎を消してくれた。ミレイア先生も治してくれた。誰か一人が全部できなきゃいけないわけじゃないと思うんだ」
リゼットは何も言わず、アカメを見つめていた。その瞳に、また涙が溜まる。
「……私、怖かったんです」
ぽつりと落ちた言葉は、先ほどよりも小さかった。
「アカメがいなくなるのが、怖かったんです。毎日一緒に訓練して、分からないことを調べて、くだらないことで笑って……。次の日も会えるのが、当たり前みたいになっていたから……」
彼女は膝の上の記録帳を握りしめた。
「……アカメは、私にとって大切な友達なんです」
アカメの胸が温かくなった。研究に夢中になって時間を忘れることも、少し意地悪そうに失敗を記録することもあるけれど、リゼットと一緒にいる時間はいつも楽しい。彼女も同じように感じてくれていたことが、素直に嬉しかった。
「……俺もだよ。リゼットは、大切な友達だよ」
「……本当、ですか?」
「うん。だから、これからも一緒に訓練したいし、研究も手伝いたい。まだ教えてもらってないこと、たくさんあるからさ」
いつものように笑いかけると、リゼットは唇を噛んだまま何度も頷いた。やがて涙を拭い、小さく息を吐く。
「……でしたら、一つ約束してください」
「うん。何?」
「誰かを守ろうとして、ご自身がいなくなってしまうようなことは、しないでください。残された人がどうなるのかも、考えてほしいんです」
その声には、静かな強さがあった。
アカメはすぐには答えられなかった。炎を見た時、リゼットを助けることしか考えていなかったのは本当だ。自分が傷つけば、心配してくれる人がいるという当たり前のことを、あの瞬間には忘れていた。
「……ごめん。そこまでは考えてなかった」
「……はい」
「でも、次はちゃんと考えるよ。誰かを守って、自分も無事に帰ってくる方法を探す。そうできるくらい、もっと強くなりたい」
リゼットはしばらくアカメの顔を見つめ、それから少しだけ笑った。
「……約束ですよ」
「うん。約束」
アカメが左手を差し出すと、リゼットは一瞬戸惑ったあと、その手をそっと握り返した。指先が温かかった。
ミレイアは二人のやり取りを静かに見守っていたが、リゼットが落ち着いたのを確かめると、薬の準備をするため隣室へ戻っていった。
―✧―◇―✧―
しばらくして、治療室の扉が控えめに叩かれた。
「……失礼します」
入ってきたのは、マーレンとエアシルだった。エアシルはベッドの上のアカメを見るなり胸を撫で下ろしたが、マーレンは入口からなかなか動こうとしなかった。
「あっ、二人とも。心配かけてごめんね」
「……アカメさん、目が覚めてよかったです。本当に……」
エアシルが目元を押さえた。マーレンはアカメの包帯へ視線を向けると、苦しそうに唇を結ぶ。
「……マーレン?」
「……ごめんなさい」
思いがけない言葉に、アカメは目を瞬いた。
「……えっ?」
「一回で聞いてちょうだい。……今日のことは、私が悪かったわ」
マーレンの声はかすかに震えていた。
「あなたが手を伸ばした時、私……怖くなって、何も考えられなくなって……。炎を止めようとしたのに、間に合わなかった。あなたにも、リゼットにも、危険な思いをさせたわ」
アカメは、マーレンが頭を庇った時の表情を思い出した。彼女は怒っていたのではない。少なくとも、あの瞬間は本当に怯えていたのだ。
「……俺も、ごめん」
「……何で、あなたが謝るのよ」
「勝手に手を伸ばしたから。葉っぱを取ってあげようと思っただけだったけど、マーレンが嫌がるって考えてなかった」
マーレンが息を呑んだ。
「次からは、触る前に聞くよ。嫌だって言われたら、近づかない。……今までも、そうするべきだったね」
「……そういうことを言っているんじゃ……」
反論しかけた彼女は、言葉を飲み込んだ。エアシルがそっと隣に立っているが、無理に話を促すことはしない。
しばらく沈黙が続いた後、マーレンが顔を上げた。
「……どうして、リゼットを庇ったの?」
「……どうしてって?」
「あなたは最初、炎を避けたでしょう。それなのに、わざわざ戻って……。自分が死ぬかもしれないとは思わなかったの?」
アカメは少し考えた。確かに、あのまま逃げていれば自分は怪我をしなかっただろう。けれど、リゼットが危険だと気づいた時には、身体が動いていた。
「……リゼットに当たりそうだったから。守りたかったんだ」
「……それだけ?」
「うん。それだけ」
マーレンは信じられないというように目を見開いた。
「……本当に、馬鹿じゃないの」
「さっき、リゼットにも言われた」
「笑い事じゃないわ!」
強い声が響き、アカメは思わず口を閉じた。マーレンはすぐに目を伏せ、指先を握りしめる。
「……あの時も、そうだったわ」
「……あの時?」
「初めて会った時よ。森で……私が魔物に襲われていた時」
十四歳の頃、森で彼女を助けた日のことを思い出す。あの時も、目の前の誰かが危ないということしか考えられなかった。
「……ああ。覚えてるよ」
「あなたは……本当に変わらないのね」
マーレンの声が少しだけ柔らかくなった。けれど、すぐに彼女は顔を逸らした。
「……でも、これであなたを信用したわけじゃないから」
「うん。分かってる」
「まだ……怖いのも、変わらないわ」
アカメは頷いた。理由は知りたいと思ったが、今ここで聞けば、また彼女を追い詰めてしまう気がした。
「……そっか。じゃあ、無理しなくていいよ」
「……え?」
「俺も気をつけるから。マーレンが嫌じゃない距離で、少しずつ話せたら嬉しいな」
マーレンは何も言わなかった。けれど、先ほどまできつく握っていた指が、ほんの少し緩む。
「……本当に、理解できない人ね」
「それ、よく言われるよ」
アカメが笑うと、エアシルも小さく微笑んだ。マーレンは一度だけ包帯へ視線を落とし、何か言いたそうにしたものの、結局口を開かなかった。
やがて二人が治療室を出ていく時、マーレンは扉の前で立ち止まった。
「……腕、ちゃんと治しなさいよ」
「うん。ありがとう」
彼女は振り返らずに出ていった。けれど、その言葉だけでも、アカメには少し嬉しかった。
―✧―◇―✧―
窓の向こうが夕焼けに染まり始めた頃、リゼットは閉じていた記録帳を膝の上へ置いた。
「……聞かないんですね」
「ん? 何を?」
「マーレンさんが、どうしてあんなに怖がったのかです」
アカメは少し考えてから答えた。
「気にはなるよ。でも、本人が話したくないこともあるでしょ? 俺が知りたいからって、無理に聞いていいわけじゃないと思うんだ」
リゼットは黙って彼を見つめていた。それから、どこか安心したように微笑む。
「……そうですね」
アカメは窓の外へ視線を向けた。マーレンのことも気になったが、もう一つ、頭から離れないことがあった。
「……ねえ、リゼット。俺、炎の前に飛び込んだ時、変な感じがしたんだ」
「……変な感じ、ですか?」
「うん。目がすごく熱くなって、周りが急にはっきり見えるようになった。どこへ足を置けばいいのかも、考える前に分かった気がして……」
リゼットの表情が変わった。彼女は一度、アカメの両目を確かめるように見つめる。
「……実は、私もお話ししたいことがありました」
「何?」
「アカメが炎の前に来た時、瞳の色が変わって見えたんです。いつもの色よりずっと鮮やかな、燃えるような赤色に……」
「……俺の目が?」
「はい。ほんの一瞬でしたけど、見間違いではないと思います。それに、あの速さも……先日の模擬戦で見た動きとは、明らかに違っていました」
アカメは思わず自分の目元へ左手を当てた。《アサシン》に備わっている七つのスキルは、ハロルドと一緒に確認したはずだ。その中に瞳の色を変えるものはなかった。
「……また、分かんないことが増えたね」
「……そうですね」
リゼットは少しだけ困ったように笑ったが、記録帳を開こうとはしなかった。
「……調べないの?」
「調べます。でも、今ではありません」
「えっ。リゼットが?」
「失礼ですね。私だって、優先順位くらい考えますよ」
少し頬を膨らませてから、彼女は真剣な表情に戻った。
「まずは身体を治してください。あの時の魔力の反応も、黒い光のことも、危険がない方法を先生方と考えてから調べましょう。アカメがまた倒れてしまったら、私は……」
そこまで言って、リゼットは言葉を止めた。アカメは頷き、固定された右腕をそっと見下ろす。
「……分かった。今回はちゃんと休むよ。明日の訓練も我慢する」
「明日だけではありませんよ。ミレイア先生の許可が出るまで、です」
「……そこまで覚えてるの?」
「もちろんです。聞いていたのは私ですから」
朝に交わした会話と同じような言い方に、二人は顔を見合わせて笑った。
アカメは静かに息を吐いた。特級の授業が始まったばかりなのに、いきなり大きな怪我をしてしまった。マーレンのことも、目に起きた変化のことも、すぐには答えが出そうにない。
それでも、焦る必要はないのかもしれない。分からないことは誰かと調べればいいし、思いどおりにいかなかったことは、また少しずつ考えていけばいい。
「……アカメ」
「ん?」
「……今日は、本当にありがとうございました」
リゼットが穏やかに微笑んだ。アカメは左手を軽く上げ、いつものように笑い返す。
「……どういたしまして」
窓の向こうで、夕暮れを告げる鐘が鳴った。
アカメはまだ、自分の瞳に何が起きたのか知らない。ただ、炎を見た時に抱いた思いだけは、今もはっきり覚えていた。
あの時、守りたいと思った。
それだけは、間違いなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
今回は、アカメに起きた謎の変化と、マーレンの抱える恐怖に触れるお話でした。
大切な人を守ろうとした時、アカメの瞳に現れた不思議な光。あれはいったい何だったのでしょうか……。
そして、少しずつ変わり始めた彼らの関係にも注目していただけたら嬉しいです!
次回もよろしくお願いします!




