第2話「森で一番怖いもの」
八歳になる頃には、アカメはリュネ村の中なら一人で歩き回れるようになっていた。
言葉に困ることもなくなり、母のアレシャが裁縫仕事をする横で糸を揃えたり、父のロンドが狩りから帰れば獲物の話を聞いたりするのが、すっかり日常になっていた。
前世の記憶があるせいで、年齢より物分かりがいいと思われることはあったが、それ以上に怪しまれることもなく、アカメはこの家の子供として少しずつ馴染んでいた。
それでも、村の外へ出ることだけは許されていない。特に北に広がるリュネの森は、幼い頃から何度も「一人では絶対に入るな」と言われていた場所だ。
父が毎日のように足を踏み入れているのだから、当然アカメも興味を持った。森には何がいるのか、どこまで続いているのかという興味は、歳を重ねるほど強くなっていった。
そして九歳になったある朝、ようやくその機会が訪れた。
「アカメ。今日は一緒に来るか?」
狩りの支度をしていた父から突然そう言われ、アカメは思わず聞き返した。
「森に?」
「ああ。ただし入口までだ。俺の言うことを破ったら、次はない」
「行く!」
返事だけは考えるより早かった。父はそんなアカメを見て小さく笑うと、いつもより少しだけ荷物を増やし、腰の短剣を確かめてから家を出た。何度も遠くから眺めてきた森へ、今日は自分の足で入る。その事実だけで、胸の奥が落ち着かなかった。
初めて足を踏み入れたリュネの森は、村から眺めていた時とはまるで違って見えた。
木々は遥かに高く、枝葉に遮られた陽光が地面へまだらな模様を作っている。湿った土と草の匂い、葉擦れの音、どこかで鳴く鳥や虫の声。目に入るもののほとんどが、前世では見たことのないものだった。
「父さん、これ何?」
道端に実る赤い木の実へ手を伸ばした瞬間、父の低い声が飛んできた。
「触るな」
「何で?」
「毒がある。食えば腹を壊す程度じゃ済まない」
慌てて手を引っ込める。見た目だけなら、赤く熟した美味しそうな木の実にしか見えない。
「こっちは触っていい」
父が少し離れた草を指した。
「傷薬になる」
「これが?」
「ああ」
見たところ、そこらに生えている雑草と何も変わらない。先ほどの赤い実には人を害する毒があり、こちらの草は傷薬になると言われても、今のアカメにはその違いがまるで分からなかった。
父は歩きながら、食べられる木の実、触れてはいけない植物、獣の通り道、風向きの読み方、雲から天気を判断する方法まで、目についたものを少しずつ教えてくれた。アカメが質問するとすぐ答えることもあれば、「お前はどう思う」と逆に聞き返してくることもある。
森はただ木が生えている場所ではない。知らなければ気づくことすらできない情報で溢れていて、父はその一つ一つを当たり前のように拾い上げていた。
しばらく進んだところで、父が足を止めた。
「アカメ。ここに何がある?」
「何がって……」
父が指した地面には、湿った土と落ち葉、小枝と石くらいしか見えない。
「……何もない」
「本当に?」
目を凝らしても分からず、葉っぱ、枝、石と思いつくものを挙げたが、父はすべて首を横に振った。
「分からない」
「それでいい」
「いいの?」
「ああ」
父はアカメの隣にしゃがみ、落ち葉を数枚どかした。その下の柔らかな土に、小さなくぼみが残っている。
「足跡だ」
「これが?」
「ほら、こっちにもある」
少し先を見ると、確かに同じ形のくぼみが続いていた。言われて初めて気づく程度で、アカメ一人なら何もない地面として通り過ぎていただろう。
「何の足跡だと思う?」
「鳥?」
「違う」
「鹿?」
「違う」
もう一度じっくり見ても、答えは浮かばない。
「……分からない」
「なら、それでいい」
さっきから父は同じことを言う。
「分からないのに、いいの?」
父は少し黙ってから地面へ視線を戻した。
「分からないことは、恥ずかしいことじゃない。分からないのに、分かったつもりになる方が怖い」
いつもと変わらない落ち着いた声だったが、その言葉だけは妙に重く聞こえた。
「森で一番怖いのは、知らないことだ。何の足跡か、どこにいるのか、何を食うのか、毒を持っているのか。知らないまま近づけば、避けられたはずの危険で死ぬこともある」
父は足跡からアカメへ目を移した。
「知らないなら、まず知れ。調べろ。知っていれば避けられる危険は多い」
「……うん」
アカメには何もないように見えた地面から、父はそこに何かがいたことを読み取っている。足跡が見えなかったのではない。ただ、それが何を意味するのかをアカメが知らなかっただけだ。
前世の記憶があるからといって、この世界のことまで知っているわけではない。その当たり前の事実を、初めて目の前へ突きつけられた気がした。
「じゃあ、これは何の足跡?」
「《角兎》だ」
「《角兎》?」
「角の生えた兎の魔物だ」
思わず父を見る。
「魔物っているの?」
「もちろんいるぞ」
「本当に!?」
「何で嬉しそうなんだ?」
「だって――」
異世界だから、と言いかけて飲み込む。
「……見てみたい」
「やめておけ。今のお前なら死ぬ」
「そんなに危ないの?」
「角が腹に刺されば終わりだ」
急に《角兎》という名前が可愛く思えなくなった。
「父さんなら倒せる?」
「俺なら夕飯にできるぞ」
「…………いいなぁ」
「なら大きくなれ」
父が笑い、アカメもつられて笑った。その横顔を見ながら、ふと女神の言葉を思い出す。
『世界は今、少しずつ悪へ傾き始めています』
けれど、今のアカメにはその意味が分からなかった。
リュネ村は平和だ。朝になれば人々は畑へ向かい、子供たちは広場を走り回る。父が森から帰れば、母と三人で食卓を囲む。村を歩けば、知っている大人たちがアカメの名を呼んでくれる。
生まれたばかりの頃には何も分からなかったこの場所にも、今では好きな景色や、顔を見れば安心できる人たちが増えていた。
少なくとも、九歳のアカメが見ている範囲には、女神の言った『悪』なんてどこにも見当たらない。だからといって、存在しないとは限らなかった。
父の言葉が頭に残っていた。
それなら、今すぐ答えを出す必要はなかった。分からないことを分かったつもりにならず、一つずつ知っていけばいい。
白い世界で女神に告げたように、この世界を自分の目で見て、そこに生きる人たちを知ってから考えればいいのだ。
「アカメ」
前を歩いていた父に呼ばれ、顔を上げる。
「帰るぞ。母さんが待ってる」
「うん!」
木々の奥にはアカメの知らない森が続き、その向こうには、さらに広い世界がある。いつかそこへ行き、健太と奏馬を探しながら、この世界がどんな場所なのかを自分の目で確かめたい。
けれど、この時のアカメにとっての世界は、まだリュネ村と、父さんと母さんと、その向こうに広がる少し怖い森だけだった。それでも、今は十分だった。
知らない世界へ生まれ落ちて九年。いつの間にか、この小さな村はアカメにとって単なる転生先ではなく。
少しずつ――故郷になり始めていた。
読んでいただき、ありがとうございました!
今回は、アカメが初めて父ロンドとリュネの森へ足を踏み入れるお話でした。
「森で一番怖いのは、知らないことだ」
父、ロンドから教わったこの言葉は、森の中だけの話ではありません。
前世の記憶を持っていたとしても、アカメにとってこの世界は知らないことばかりです。魔物も、ジョブも、国も、人々の価値観も、そして女神の言った「悪」についても。
だからこそ、まずは知る。
この日の経験は、これから成長していくアカメの考え方にも少しずつ影響していきます。
今回登場した魔物も少しだけご紹介します!
【《角兎》(ランスラビット)】
多くの森に生息する、額に一本の鋭い角を持った兎型の魔物。E級に分類され、魔物の中では最低級の存在です。
見た目は小さく可愛らしいものの、敵と判断した相手には勢いよく突進してくるため、幼い子供にとっては十分に危険な存在です。
ちなみに父のロンドにとっては――夕飯です。
少しずつ「転生しただけの少年」から、この世界で育ったアカメへ。
次話からも、彼の成長を追っていただけると嬉しいです。
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次話もよろしくお願いいたします。




