第1話 「知らない世界」
第1章「神が与えたもの」
異世界に転生して、最初に困ったことはいくつかあった。
言葉が分からない。
身体が動かない。
自分がどこにいるのかも分からない。
そして何より――暇だった。
赤ん坊というものが、ここまで暇な生き物だとは知らなかった。寝て、起きて、泣いて、何かを飲まされて、また眠る。ようやく目を覚ましたと思えば誰かに抱き上げられ、揺られているうちに眠くなる。
異世界転生と聞けば、剣や魔法、魔物や未知の街を巡る冒険を想像していたのに、今の凛は異世界を冒険するどころか、首を支えることすらできなかった。
笑ってしまった。「情けねぇ〜」と心の中で頬を引き攣りながら思う。
「うぁー…………」
試しに声を出してみても、当然まともな言葉にはならない。すると、その小さな声を聞きつけたのか、一人の女性がすぐにやってきて凛を抱き上げた。
「――――――――?」
何かを話しかけてくれている。けれど、何度聞いても意味の分からない音にしか聞こえなかった。
それでも、この女性が母親なのだということは何となく理解できた。柔らかな髪に優しい声。凛が泣けばほとんど必ず駆け寄ってきて、胸元へ抱き寄せながら穏やかに微笑んでくれる。
言葉が一つも通じなくても、自分が大切にされていることだけは、不思議なくらいよく分かった。
この女性が、自分の母親だ。そのことを意識した途端、自然と前の世界の記憶が蘇った。
赤西凛は死んだ。幼馴染だった柳木健太と永川奏馬も同じ事故で命を落とし、その後、三人揃って女神と名乗る存在に出会った。
『この世界を救ってください』
『世界は今、少しずつ悪へ傾き始めています』
あの時の言葉は、今でも鮮明に覚えている。
凛たちは、まずこの世界を見て、知って、それから何をするべきか考えると答えた。
そんな大層なことを言った凛が、今できることといえば――。
「うぁ…………」
「あらあら。どうしたの?」
泣くことくらいだった。
世界を救うのは、もう少し先でいい。まずは、自分で座れるようになりたい。
ほんと、情けねぇ〜
―✧―◇―✧―
赤ん坊として暮らし始めてしばらくすると、凛は一つのことを意識するようになった。この世界の言葉を覚えることだ。
前世でどうやって日本語を覚えたのかなんて、当然ながら記憶にない。ただ、今の凛には前世の記憶があり、耳から入ってくる音について考えることができる。ならば、何となく聞いているだけよりも、繰り返される音と状況を結びつけていった方が早いはずだった。
まず気づいたのは、母親が頻繁に口にする一つの言葉だった。凛を抱き上げる時も、寝台へ寝かせる時も、母親は決まって同じ音を口にする。
「アカメ」
「今日も元気ね、アカメ」
他の誰かへ凛を渡す時にも、その名前は何度も聞こえてきた。どうやら『アカメ』というのが、この世界での凛の名前らしい。
それからは、言葉を覚えること自体が暇つぶしになった。一つの意味が分かれば、その前後で使われている別の言葉も推測できる。
食事、眠る、朝、夜、水、火、家。分かる音が少しずつ増えていくと、ただの騒音にしか聞こえなかった会話が、徐々に意味を持ち始めた。
その中でも、比較的早く理解できた言葉がある。
「お父さんが帰ってきたわよ」
母がそう言った時には、決まって一人の男が家へ入ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
どうやら、この人が父親らしい。
大柄というほどではないが、細身でもない。日に焼けた肌と引き締まった身体をしていて、腕や手には大小さまざまな傷が残っていた。外出する時には必ず腰へ短剣を差し、家の壁には使い込まれた弓が掛けられている。
父が何の仕事をしているのかは、しばらく分からなかった。それが判明したのは、ある日のことだった。
「今日は大物だぞ」
そう言って帰ってきた父が背負っていたのは、大きな袋だった。母が呆れたように笑いながら場所を空け、父が床へ下ろしたそれを開く。
中に入っていたのは、鹿に似た動物だった。いや、アカメの知る生き物に当てはめるなら、たぶん鹿なのだろう。
四本脚で、身体つきもよく似ている。ただ、アカメが知っている鹿よりひと回り大きく、頭から生えている角は枝分かれするのではなく、螺旋を描くように後方へ伸びていた。
「…………!」
思わず身を乗り出すと、父が楽しそうに笑った。
「おっ、アカメも気になるか?」
抱き上げられ、その動物を近くで見せてもらう。
「これは《森角鹿》だ。もう少し大きくなったら、お前にも森を見せてやる」
《森角鹿》。初めて聞く生き物の名前を、アカメは頭の中へ刻んだ。父は森へ入り、獣を狩って帰ってくるうえ、弓と短剣も使っている。どうやら仕事は狩人らしい。
生まれてからしばらく経って、ようやく少しだけ異世界らしいものに触れた気がした。
―✧―◇―✧―
四歳になる頃には、日常会話のほとんどを理解できるようになっていた。
自分でも簡単な言葉なら問題なく話せる。ただし、前世の記憶があるからといって、年齢に似つかわしくない話し方をすることは避けていた。四歳の子供が突然、大人のような言葉を使い始めれば、いくら何でも不自然だからだ。
だから、言葉は少しずつ覚えたふりをした。
同時に、自分が暮らしている場所についても徐々に分かってきた。
自分が暮らしている村の名前はリュネ村で、アルセリア王国という国の中にあるらしい。
もっとも、アルセリア王国がどれほど大きな国なのかは知らない。リュネ村が王国のどこに位置しているのかも分からなかったし、そもそも地図すら一度も見たことがなかった。
今のアカメにとって、世界とはまだ家と、その周囲に広がる小さな村だけだった。
女神は世界が悪へ傾いていると言った。けれど、悪どころか世界そのものを、アカメはまだ何も知らなかった。
―✧―◇―✧―
六歳になる頃には、アカメが村の中を歩いて回る機会も増えていた。
もちろん、どこへ行ってもいいわけではない。村の外へ出ることは禁止されていたし、遠くへ行く時には必ず大人と一緒だった。
それでも、生まれてから家の中とその周辺ばかりを見てきたアカメにとって、村そのものを歩けるようになったことは大きかった。
リュネ村の道は舗装されていない。踏み固められた土の道に沿って、木と土で造られた家々が並び、その向こうには広い畑が続いている。
見たことのない家畜が荷車を引き、畑仕事をしている大人たちのそばを子供たちが走り回っていた。
村の中央には小さな広場があり、その近くに他の家より少し立派な建物が建っている。屋根の上には、見たことのない紋章が掲げられていた。
「あれ、何?」
母の手を握りながら尋ねる。
「教会よ」
「教会?」
「ええ。神様にお祈りしたり、神様から授かったものに感謝したりする場所」
神様という言葉を聞いて、真っ先にあの女神を思い出した。
「女神様がいるの?」
「ふふっ。女神様が教会の中に住んでいるわけじゃないわよ」
「そうなの?」
「そうよ」
母は可笑しそうに笑いながらアカメの頭を撫でた。
そのまま歩き出そうとする母の手を引き、もう一つだけ尋ねる。
「神様からもらえるものって?」
「いろいろあるわ。アカメも十六歳になったら分かるわよ」
「十六歳?」
「ええ」
その年齢を聞いた瞬間、アカメは女神の言葉を思い出した。
人は十六歳になると、神から《ジョブ》を授けられる。おそらく母が言っている「神様から授かるもの」も、それと関係しているのだろう。
もっと詳しく聞きたかったが、母はそれ以上説明することなく再び歩き始めた。十六歳まではまだ十年もある。今はそれよりも、村の外に広がる世界の方が気になっていた。
北には、父が普段仕事をしているリュネの森が広がっており、村から眺めるだけでも、どこまで続いているのか分からないほど木々が連なっている。
南には《月映みの湖》と呼ばれる大きな湖があり、夜になると水面に映る月が美しいことから、その名前がついたらしい。
東西には畑が広がり、その先へ続く道を進めば、他の村や町へ行くことができるという。
つまり、その道の先にはアカメの知らない世界があり、そのどこかに健太と奏馬がいるかもしれない。
女神の言葉が本当なら、二人もアカメと同じように、この世界のどこかで新しい人生を始めているはずだ。どんな家に生まれ、どんな名前を与えられたのか。それすら今のアカメには分からない。
二人がこの世界のどこかで生きている。それだけ分かっていれば、今は十分だった。
いつか村の外へ出られるようになったら、二人を探しに行く。そう思ってはいたものの、六歳児が「友達を探してきます」と一人で旅立てるはずもない。今は、この村で大きくなるしかなかった。
読んでいただき、ありがとうございました!
異世界へ転生したアカメの、新しい人生が始まりました。
まだ知っているのは小さなリュネ村だけ。健太と奏馬がどこにいるのか、女神の言った「悪」とは何なのか、そして十六歳になった時に何が待っているのか。今はまだ、何も分かりません。
ここから少しずつ、アカメと一緒にこの世界を広げていけたらと思います。
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