第13話「王立学園への推薦状」
《神授祭》から一週間が過ぎても、リュネ村の空気は元には戻らなかった。
朝、家を出ればいつもの道がある。石を積んだ低い塀も、井戸のそばに立つ古い木も、畑の向こうに広がるリュネの森も、何一つ変わっていない。
変わったのは、そこを歩く人たちだった。
「おはようございます」
向かいから歩いてきた村の男へ声を掛けると、男は一瞬だけ足を止めた。
「あ、ああ……おはよう」
返事は返ってきた。ただ、すれ違う直前、男はほんの少しだけ道の端へ寄った。
以前なら気にも留めなかった程度の距離だった。それでも神授祭から一週間、同じようなことが何度も続けば、嫌でも意味は分かってしまう。
アカメは何も言わず、そのまま歩いた。
最初の二、三日は腹も立った。今では、少し慣れた。
慣れてしまったことが、一番嫌だった。
広場へ差しかかると、幼い子供たちが木の枝を剣代わりにして遊んでいた。何度か顔を合わせたことのある子たちだ。以前ならアカメを見つけるなり駆け寄ってきて、森の奥には何がいるのか、《角兎》は本当に角で人を刺すのかと、質問攻めにしてきた。
「あ、アカメ兄ちゃん――」
一人の少年が声を上げる。
だが、その隣にいた母親が、そっと少年の肩へ手を置いた。
「ほら、こっちへいらっしゃい」
「でも――」
「いいから」
強い言い方ではなかった。むしろ、アカメに聞こえないよう気を遣っているような声だった。
それでも少年は母親に連れられ、広場の反対側へ歩いていった。
残された子供たちも、どうすればいいのか分からないらしい。手に持った枝を下ろし、困ったようにアカメを見る。
アカメは軽く手を上げた。
「気にしないで遊んでて」
「……うん」
返ってきた声は小さかった。
その場を離れてから、アカメは小さく息を吐いた。
誰も石を投げてくるわけではない。罵倒されるわけでもない。
だからこそ、どうすればいいのか分からなかった。
「……暗殺者、か」
口にしてから、腰へ手を置く。
父から譲られた短剣が、いつもと変わらずそこにある。
何年も父と森を歩いてきた。弓を引き、《角兎》を仕留め、獲物の血抜きを覚え、毒草と薬草を見分けながら、ずっと父の背中を追ってきた。
村の子供に森の話をしたこともある。足を怪我した老人へ薬草を届けたこともある。
そのどれも、神授祭の日を境に消えたわけではない。
それなのに今は、それらより先に《アサシン》という一つの言葉が自分を説明してしまう。
それが、少しだけ悔しかった。
「アカメ!」
後ろから聞き慣れた声が飛んできた。
振り返ると、ヴァルがこちらへ走ってくる。片腕には紙袋を抱えていた。
「何してんの?」
「母さんに頼まれて薬師のところまで。ヴァルは?」
「買い物。父さんが鉄釘足りないって」
「鍛冶屋なのに?」
「俺も言った」
ヴァルが肩をすくめる。
「『作れるけど、今は釘打ってる暇があるなら剣打て』だって」
「忙しいんだ」
「神授祭から急にな。S級の息子が出た鍛冶屋だって、勝手に評判になってる」
ヴァルは困ったように息を吐いた。
神授祭以降、生活が変わったのは彼も同じだった。
ただし、アカメとはまるで逆の方向に。
S級《戦闘鍛治師》を授かったヴァルを一目見ようと、近隣から人が訪れるようになった。ガルドの鍛冶場には仕事の依頼だけでなく、「息子に剣を作らせてくれ」という気の早い話まで持ち込まれているらしい。
「まだ《鍛造》もまともに使えないのにな」
「S級なのに?」
「父さんにも言われたよ。『S級でも鉄は勝手に剣にならねえ。まず普通に打て』って」
「ガルドさんらしいな」
「昨日なんて、村の人に『S級なんだからすごい剣作ってみろ』って言われた」
「作ったの?」
「鍬の柄、直して渡した」
「夢がないな」
「必要なもん直す方が先だろ」
真顔で返され、アカメは吹き出した。
ヴァルと話していると、神授祭の前と何も変わっていない気がした。
いや、実際にヴァルだけは何も変わっていない。
それが今は、ありがたかった。
「そういえば」
ヴァルが紙袋を抱え直した。
「教会から呼ばれてるの知ってる?」
「俺も?」
「うん。家に神官さんが来た。昼過ぎに教会へ来てくれって」
「また調査かな」
アカメは自分の右手を見る。
神授祭から数日の間に、教会から何度か確認を受けていた。
身体に異変はないか。《隠密》は使えるのか。《毒適性》とは何なのか。黒く染まった神授晶を見た時、何か聞こえなかったか。
聞かれても、答えられることはほとんどなかった。
《気配感知》や《危険感知》は以前より鋭くなった気がする。だが《隠密》や《急所看破》は、意識すれば使えるものなのかさえ分からない。
《毒適性》に至っては、試したいとも思わなかった。
「今度は何だろうな」
「俺も呼ばれてるなら、《アサシン》だけの話じゃないんじゃないか?」
「じゃあヴァルのS級?」
「そっちも嫌だな」
「贅沢な悩みだねぇ」
「アカメもスキル七個あるだろ」
「判定不能だけどな」
「交換するか?」
「できるなら一回やってみたい」
そんな話をしながら歩いていると、前方から来た女性が二人に気づいた。
女性の視線がまずアカメへ向き、それから隣のヴァルへ移る。
「あら、ヴァル君」
「こんにちは」
「この前はすごかったわねえ。S級なんて、この村じゃ初めてでしょう?」
「あ、ありがとうございます」
女性は嬉しそうに話しかける。
アカメも昔から何度も会ったことのある相手だった。目が合ったため、軽く頭を下げる。
「こんにちは」
「……ええ」
返事だけが返ってきた。
女性はすぐヴァルへ顔を向け直す。
「王都からお迎えが来るんじゃない? うちの主人もね、きっと大物になるって言ってたのよ」
「いや、まだ何も決まってないですよ」
「でもS級でしょう?」
会話は続いていく。
アカメはその横で黙って聞いていた。
慣れたはずだった。
なのに胸の奥には、小さな棘が刺さったままだった。
やがて女性と別れると、ヴァルが眉を寄せた。
「……悪い」
「何でヴァルが謝るんだよ」
「いや。でもさ」
「S級なのは本当だろ。褒められとけって」
「アカメだって七個あるだろ」
「判定不能で七個な」
「じゃあ……すごく判定できない」
「それ褒めてんの?」
「たぶん」
「絶対違うだろ」
ヴァルが小さく笑う。
アカメも、つられて笑った。
神授祭のあと、以前と同じように笑えたのは、たぶんヴァルといる時だけだった。
その時、教会の鐘が鳴った。昼を知らせる音だった。
ヴァルが鐘楼を見る。
「行くか?」
「行こうか」
二人は顔を見合わせ、そのまま教会へ向かった。
―✧―◇―✧―
教会の奥にある応接室へ入ると、いつもの神官だけではなく、見知らぬ男が一人座っていた。年齢は四十前後だろうか。濃紺の外套を身につけ、胸元には銀色の紋章が留められている。
机の上には、二通の封書が並べられていた。
父と母、それにガルドとエルナもすでに来ている。
「来ましたね」
いつもの神官が立ち上がった。
「アカメ君、ヴァル君。こちらはベルク中央教会から来られたセイル神官です」
「セイルです。突然呼び出してしまって申し訳ありません」
男が軽く頭を下げる。
アカメとヴァルも挨拶を返し、向かいの椅子へ座った。
ヴァルが真っ先に机の上を見る。
「それで……その手紙は?」
「お二人宛てです」
「俺たちに?」
セイル神官が頷く。
「王立学園から通知が届いています」
「王立学園?」
アカメとヴァルの声が重なった。
父たちはすでに説明を受けているらしく、特に驚いた様子はない。
「アルセリア王国の王都セレスティアにある王立学園です。名前はご存じですか?」
「一応」
「俺も」
教会の授業で何度か聞いたことがある。
王国中から高い適性を持つ者や珍しいジョブを授かった者が集まり、騎士、魔術師、生産職、研究職を問わず専門的な教育を受ける場所。
名前だけなら知っていた。
だが、リュネ村で育った二人にとって、王都と同じくらい遠い世界の話だった。
「まず、ヴァル・グランツ君」
「はい」
セイル神官が一通目の封書を差し出した。
「S級《戦闘鍛治師》として、王立学園から正式な推薦が出ています」
「……本当に?」
ヴァルの目が大きくなる。
「はい。《戦闘鍛治師》そのものが非常に珍しいジョブです。さらに神授直後から六つの初期スキルを持っている。学園側としても、ぜひ入学試験を受けてほしいとのことです」
ヴァルは封書を両手で受け取り、表と裏を確かめる。
赤い蝋で封じられた部分には、王家のものらしい紋章が刻まれていた。
「……王立学園って、鍛冶も勉強できるんですか?」
「もちろんです」
「どんな設備があります?」
食いつくのが早い。
セイル神官が少し驚いたように瞬きをした。
「国内でも最大規模の鍛造施設があります。一般的な炉はもちろん、魔石を利用した高温炉や付与術式の研究設備も――」
「魔導炉は?」
「小型設備であれば」
「行きます」
「早いな」
アカメが思わず口を挟む。
ヴァルがこちらを見る。
「魔導炉だぞ?」
「俺に言われても分かんないって」
「俺だって詳しくは知らない」
「じゃあ何でそんな食いついてんの?」
「知らないから見たいんだよ」
アカメは一瞬黙った。
「……それはちょっと分かる」
ガルドが鼻を鳴らす。
「家の炉より王都の炉か」
「父さん、そういう言い方やめてくれよ」
「別に止めちゃいねえ。見られるもんは全部見てこい」
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、ガルドの顔にはわずかに笑みが浮かんでいた。
「そして」
セイル神官が、もう一通の封書へ手を伸ばす。
「アカメ・オルディン君」
「はい」
差し出された封書はヴァルのものとよく似ていたが、蝋印の横にもう一つ、教会の紋章が押されていた。
「君については、少々事情が異なります」
「やっぱり?」
思わずそう返すと、セイル神官が苦笑する。
「先にお伝えしますが、処罰や拘束のためではありません」
「その前置き、すごく怖いんですけど」
「……申し訳ありません」
母が心配そうにアカメを見る。
セイル神官は一度咳払いをしてから続けた。
「《アサシン》について、ベルクの教会に保管されている記録を調べました」
「ありました?」
「ありませんでした」
「……一件も?」
「少なくとも、我々が確認できる範囲では」
横からヴァルが声を漏らす。
「珍しいな」
「嬉しくないんだよ」
「でも七個もスキルあるだろ」
「だから余計怖がられてるんだって」
「……まあ、そうだな」
ヴァルがそれ以上言わず、口を閉じる。
セイル神官が静かに続けた。
「ただ、王都には地方教会とは比較にならない量の神授記録が保管されています。また王立学園にも、ジョブそのものを研究している者たちがいます」
アカメは手元の封書を見る。
「つまり俺を調べたいってことですか?」
「率直に言えば、その意味もあります」
誤魔化さないところは、嫌いではなかった。
「階級判定不能。七つの初期スキル。未知のジョブ。そして神授晶の異常反応。これだけの条件が重なった例を、教会として見過ごすことはできません」
「学園へ行ったら、ずっと見張られるんですか?」
「監視ではありません。定期的な検査と、スキルの経過確認をお願いすることになります」
「授業は?」
「普通に受けていただけます」
「ヴァルたちと同じように?」
セイル神官が一瞬だけ言葉を止めた。
「基本的には」
「その『基本的には』って何ですか」
「君の階級が判定できないからです」
「ああ……」
やっぱりそこか、とアカメは思った。
王立学園では、ジョブの階級が教育内容や利用できる施設に関わるという。
しかしアカメには、その基準になる階級そのものが存在しない。
「その点については、教会と学園側で協議しました」
セイル神官が姿勢を正した。
空気が少しだけ変わる。
「王立学園内において、君を暫定的に――A級相当として扱うことになっています」
一瞬、誰も口を開かなかった。
「……A級?」
最初に声を漏らしたのはヴァルだった。
アカメは、自分のことを言われているのだと理解するまで少しだけ時間がかかった。
「俺が?」
「正確には、《アサシン》というジョブそのものをA級と認定したわけではありません」
セイル神官がすぐに補足する。
「七つの初期スキルと現在確認されている適性を考えれば、低階級ジョブとして扱うのは適切ではない。しかし、未知である以上、S級と判断する根拠もない。そこで教育や施設利用についてのみ、暫定的にA級相当とすることになりました」
「じゃあ本当の階級は?」
「判定不能のままです」
「ですよね」
妙に納得してしまった。
急にA級だと言われても、実感など湧かない。
「ちなみに」
ヴァルがセイル神官を見る。
「アカメは推薦なんですか?」
「少し違います。彼の場合は特別招待に近いですね」
「特別招待」
「名前だけ聞くと格好いいな」
「理由が『よく分からないから来てください』だけどな」
「言うなよ」
セイル神官が僅かに笑った。
「入学試験を受けていただき、その結果に大きな問題がなければ入学が認められます」
アカメが眉を上げる。
「落ちたら?」
「その場合も、《アサシン》の調査のため王都へ来ていただく可能性があります」
「結局行くんだ」
「……可能性は高いですね」
隣でヴァルが小さく笑っている。
「何笑ってんだよ」
「いや。アカメらしいなって」
「何が?」
「学校から呼ばれた理由が、『よく分からないから』なの」
「好きで分からなくなってるわけじゃないからな?」
母がくすりと笑う。
少し張っていた空気が、ようやく和らいだ。
アカメは改めて封書へ目を落とした。
王都セレスティアにある、アルセリア王立学園。
国内最大規模の図書館や研究施設があり、王国中から珍しいジョブを持った者たちが集まる場所。
そこへ行けば、《アサシン》について何か分かるかもしれない。
そして、もう一つ。
「神官さん」
「はい」
「王立学園って、王国中からS級とか珍しいジョブを持った人が集まるんですよね?」
「全員ではありませんが、多くはそうです」
「神授の記録も王都に集まるんですか?」
「はい。地方教会から報告された記録は、最終的に王都でも管理されます」
その瞬間、アカメはヴァルを見る。
ヴァルも同じことを考えたらしい。
「奏馬」
「ああ」
十歳の頃から探し続けている、三人目の親友。
この世界のどこかにいる。それだけは分かっている。
自分たちと同じ十六歳なら、奏馬もすでに《神授》を受けたはずだ。
もし珍しいジョブや高い階級を授かっていれば、その記録が王都へ送られている可能性がある。
もしかすると、自分たちと同じように王立学園へ呼ばれていることだって――。
「父さん」
アカメが顔を上げた。
「俺、行ってみたい」
父は驚かなかった。
「理由は?」
「《アサシン》が何なのか知りたい。ここにいても、分からないことが多すぎるから」
「ああ」
父はしばらく黙ってアカメを見ていた。
やがて短く頷く。
「なら行け」
「いいの?」
「お前が決めることだろ」
「でも王都って遠いし」
父は少しだけ考えた。
「森で知らないものを見つけたら、どうする」
「調べる」
「なら、同じだ」
父はそれ以上何も言わなかった。
森で育った父らしい言い方だった。
アカメにも、それで十分伝わった。
母を見ると、少し寂しそうに笑っていた。
「母さんは?」
「行ってほしくないって言ったら、残るの?」
「……たぶん行く」
「じゃあ聞かないでよ」
困ったように笑ってから、母はアカメの頬へ手を伸ばした。
「行ってらっしゃい」
その手は、いつもより少しだけ長く頬に触れていた。
「ちゃんと帰ってきてね」
胸の奥で、二つの記憶が重なった。
森で短剣を渡された日の父の言葉。
そして二年前、マーレンから言われた言葉。
――ちゃんと帰ってこい。
あの時は、答えられなかった。
アカメは少しだけ笑った。
「うん。ちゃんと帰ってくる」
今度は、迷わずそう言えた。
―✧―◇―✧―
王都への出発は、それから二週間後に決まった。
王立学園の入学試験の日程に合わせ、ベルクから王都方面へ向かう乗合馬車へ乗ることになった。
それからの二週間は、驚くほど早く過ぎた。
荷物をまとめ、教会から王都について説明を受け、父と何度も森へ入り、母には持っていく服や薬を何度も確認された。
ヴァルも同じように準備に追われていたらしい。
そして出発の朝。
まだ陽が低いうちから、オルディン家の前には大きな荷物がいくつも並べられていた。
アカメはそのうち一つを持ち上げる。
「これは?」
「着替え」
「こっちは?」
「着替え」
「……これも?」
「予備の着替え」
「多くない?」
「王都で服が破れたらどうするの」
「買えばいいんじゃない?」
「高いわよ」
「母さん、王都行ったことある?」
「ないけど高いに決まってるわ」
「偏見じゃん」
母は聞く耳を持たず、さらに小さな袋を鞄へ押し込んだ。
「薬草と傷薬。これは絶対なくさないで」
「分かってる」
「手紙も書くのよ」
「うん」
「ちゃんと食べること」
「うん」
「知らない人についていかない」
「俺もう十六歳だよ?」
「十六歳でも知らない人についていっちゃ駄目よ」
「それはそうだけど」
隣では父が短剣を鞘から抜き、刃を確かめていた。
「研いでおいた」
「ありがとう」
「王都だからって気を抜くなよ」
「森じゃないのに?」
「森より人間の方が面倒なこともある」
「それ、ちょっと怖いな」
「まあ、行けば分かる」
父が短剣を差し出す。
アカメは受け取り、いつもの場所へ差した。
少し離れたところでは、ガルド家も同じような騒ぎになっていた。
ヴァルの荷物もかなりの量で、エルナが最後まで何かを追加しようとしている。
「これも持ってきな!」
「母さん、もう入らないって!」
「押せば入る!」
「壊れるだろ!」
「S級なんだから直せばいいでしょ!」
「万能じゃないから!」
いつも通りの騒がしさに、アカメは思わず笑った。
その時、家の前の道に何人かの村人が立っていることに気づいた。
見送りに来たのか、それともただ様子を見に来ただけなのかは分からない。
神授祭以来、アカメと距離を取るようになった者たちも混じっていた。
目が合う。
一人の男が、少し気まずそうに視線を逸らした。
別の女性は、何も言わず小さく会釈した。
以前ならもっと気軽に声を掛けてくれただろう。
胸が痛まないわけではない。
この村で生まれ、この村で育った。
森の歩き方も、人との付き合い方も、この世界で生きるために必要なことのほとんどを、ここで覚えた。
だから嫌いになどなれなかった。
ただ今は、少しだけ距離ができてしまった。
「アカメ兄ちゃん!」
その中から、幼い声が飛んできた。
見ると、先日広場で母親に連れていかれた少年が走ってくる。
アカメは少し驚きながらも、その場へしゃがんだ。
「王都行くの?」
「うん。そうだよ」
「いつ帰ってくる?」
「まだ分からないかな」
「じゃあ、帰ってきたら王都の話して!」
後ろにいた少年の母親が、一瞬だけ迷ったように手を伸ばした。
けれど、今度は少年を連れていかなかった。
アカメはそれに気づいたが、何も言わなかった。
ただ、少年へ笑いかける。
「いっぱい見てくるよ」
「約束!」
「約束」
少年が大きく手を振った。
アカメも手を振り返す。
すぐに全部が元通りになるとは思わない。それでも、たぶんこれでいい。
自分自身、《アサシン》が何なのか知らない。村の人たちだって知らない。
知らないものを怖がること自体は、きっとおかしなことではない。
だったらまず、自分が知ればいい。
何を授かったのか。何ができるのか。
そして、その力を何のために使うのか。
いつかこの村へ帰ってきた時、その全部を自分の言葉で話せればいい。
「そろそろ行くぞ」
父の声に振り返る。
村の入口には、王都方面へ向かう馬車が待っていた。
ヴァルはすでに荷物を積み終え、こちらへ手を振っている。
「アカメ、置いてくぞ!」
「待って!」
アカメは両親の前へ戻った。
何か言わなければと思った。
ありがとう、とか。元気で、とか。
いろいろ浮かぶのに、いざその時になると上手く言葉にならない。
結局、口から出たのは一番普通の言葉だった。
「……行ってきます」
母が笑う。
「行ってらっしゃい」
父も頷いた。
「行ってこい」
アカメは馬車へ向かって歩き出す。
数歩進んだところで、一度だけ振り返った。
生まれてから十六年を過ごした家。その向こうに広がるリュネの森。
父と母。ガルドとエルナ。そして、少し離れたところに立つ村の人たち。
全部が、今までの自分を作ってきた場所だった。
寂しくないと言えば嘘になる。
それでも、足は止まらなかった。
馬車へ乗り込み、ヴァルの隣へ座る。
ヴァルがこちらを見る。
「忘れ物ないか?」
「たぶん」
「おばさんに服、めちゃくちゃ入れられてたな」
「見てたの?」
「村中見てたぞ」
「最悪」
御者が手綱を握る。
馬がゆっくりと歩き始め、車輪が土の道を転がった。
父と母の姿が、少しずつ遠ざかっていく。
アカメは窓から身を乗り出すように手を振った。
母も大きく手を振り返している。
父は片手だけを上げた。
やがて家々が遠ざかり、十六年間見慣れてきた村の景色が木々の向こうへ消えていく。
しばらく黙ってそれを見ていると、隣から声がした。
「アカメ」
「何?」
「王都着いたら、最初に何する?」
「奏馬の手がかり探す」
「やっぱりか」
「それと《アサシン》のこと調べる」
「俺は魔導炉」
「知ってた」
「あと付与設備」
「はいはい」
「あと王都の鍛冶屋」
「観光しろよ」
「してるだろ」
「それヴァルにとってだけだろ」
二人で笑う。
馬車はリュネ村を離れ、王都へ続く街道を進んでいく。
十六年間、アカメにとって世界のほとんどすべてだった村は、もう後ろにあった。
《アサシン》とは何なのか。奏馬はどこにいるのか。
分からないことばかりだ。
けれど、父から教わったことが一つある。
知らないものを見つけたら、まず調べる。
なら、今度も同じだ。
アカメは腰の短剣へそっと触れた。
鞘と金具が、馬車の揺れに合わせて小さな音を立てる。
その音を聞きながら、アカメは前を向いた。
馬車はそのまま、まだ見たことのない王都セレスティアへ向かっていった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回でリュネ村編は一区切りです。
次回からはいよいよ王都セレスティア、王立学園編へ入ります。《アサシン》の謎や奏馬の手がかりも、少しずつ動き始めます。
次話もよろしくお願いします。




