第14話 初志は霧の中
「スリーピング・フォグ」
中指と親指を弾く。
パチリ、と音が鳴った瞬間、霧が溢れた。
視界が白に沈む。
音の輪郭が、ひとつずつ消えていく。
廊下の足音が、止まる。
ドサリ、と音がした。
「こんな搦手を使うのは、久しいな」
濃霧が、ゆっくりと引いていく。
耳を済ませば、沈黙だけが返ってくる。
部屋を出る。
廊下には、メイドが二人、伏していた。
必要ないと言ったが、宿屋側が勝手に付けた歩哨だ。
立ち居振る舞いから、手練れと分かる。
しかし、今は邪魔になる。
だから眠らせた。
メイドだけではない。
霧は、宿を丸ごと包み、その周辺にまで広がっている。
廊下の窓から外を見れば、やはり静けさに満ちていた。
眠りは深い。
多少の騒ぎで、目は覚めない。
「さて……。」
顔を右に向ける。
隣の部屋に、名香の気配はある。
だが、反応はない。
「勇者といえど、不意打ちでは成すすべあるまい」
効果が強すぎて、興が削がれる。
ゆえに封じていた睡眠魔法。
「だが、魔王の俺が盗賊まがいとはな」
小さく笑い、歩を進めた。
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「……馬鹿め。
もっと自分の身を案じろ。警戒が足らん」
ドアノブを掴むと、あっさりと回った。
鍵はかかっていない。
溜息を吐き、ドアを開ける。
どうせ、起きやしない。遠慮は要らない。
「脱ぎ散らかしやがって……。」
今一度、大きく息を吐いた。
酔っ払った名香を部屋に放り込んだのは、俺だ。
鍵をかけろ、と言った。
服をちゃんと着替えろ、とも言った。
酔っているのだから、風呂には入るな、とまで言った。
何一つ、守っていない。
「俺は魔王だぞ!
どうして俺が、ハウスキーパーの真似をしなきゃならん!」
バスルームへ向かって、脱ぎ捨てられた衣類を拾ってゆく。
毛足の長い絨毯が、バスルームに近づくほど濡れていた。
踏むたびに、びしゃりと音が鳴る。
適当に身体を拭いて、それで済ませたらしい。
「うーーーん……。」
ベッドを睨む。
名香は、幸せそうに寝ていた。
原因の一端は、俺の魔法だろう。
それでも、イラッときた。
「くそっ……。」
クローゼットを開ける。
備え付けのバスタオルを掴み取る。
濡れた絨毯の上に、順に置いていく。
そして、洗面所に落ちている下着をつまみ上げる。
「相変わらず、派手な下着だな……。
女子高生なのだから……。いや、実際は婆さんだったか」
「むっ!?」
その瞬間、名香の気配が動いた。
洗面所から顔を出す。
「うーーーん……。」
「……気のせいか」
名香は、幸せそうに寝ていた。
封じていた魔法だ。
ちょっとやそっとで起きるはずがない。
見たくはないが、バスルームのドアを開ける。
中を覗き込む。
「くそっ! くそっ! くそがっ!」
案の定の惨状だった。
床も風呂も、泡まみれだ。
蛇口も少し開いたままで、お湯が出ている。
そのせいで、バスルームが湿気にまみれていた。
せめて、風呂の栓くらいは抜け。
今すぐ、幸せそうに寝ている名香の耳元で叫びたい。
「ああ、もうっ! やってやるよ!」
「ええっ……。」
「んっ!?」
「うーーーん……。」
ベッドの方を一度だけ見る。
名香は、幸せそうに寝ていた。
本気で、腹が立つ。
どデカい魔法を一発打って、この宿をぶち壊したい。
だが、放っておけない。
「俺は……。俺は、魔王だぞ!」
誰に言うでもなく、そう吐き捨てた。
俺は、汚れ物を洗面所のバスケットに叩き込み、風呂掃除をすることにした。




