第9話「初めての使役」
リラの魔物使いがLv3になった日、スキル「使役・初級」が開放された。
結晶が一段濃くなった。薄かった菫色が、はっきりとした紫に変わっている。リラは手の甲を何度も見つめていた。もう怖がる目ではない。確かめるように、自分の色を見ている。
「使役って、魔物に命令するんですか?」
「命令じゃない。共鳴です。魔物使いの結晶が、対象の魔物と波長を合わせる。合えば動く、合わなきゃ動かない」
「共鳴……」
「強制じゃないってことです。魔物使いの適性がある人間は、魔物の『周波数』が読める。だから合わせられる。リラさんがやってた先読みと同じ原理です」
リラが頷いた。理屈ではわかっている。でも、実際にやるのは別の話だ。
◇
遺跡の外周部。いつもの調査場所だ。
ヴェルが同行していた。フィールドで結晶の変化を観察したいと言って、二日前から一緒に来ている。白衣の上に革のフィールドジャケットを羽織って、帳簿と測定器具を肩にかけている。場違いだが、本人は気にしていない。
「本日の観察記録。カイさんの結晶、変化なし。リラさんの結晶、Lv3到達に伴い色相が一段深化。使役スキル開放を確認」
「ヴェルさん、いちいち声に出さなくていいですよ」
「声に出すと記憶に定着するんです」
「俺たちの記憶には定着しなくていいんですけど」
「報告書に——」
「書く必要がある、でしょう。わかってます」
「正確には、『報告書に書かないと、自分が忘れてしまうから』です。記憶力が良いのはデータだけなんです。日常のことはすぐ忘れます」
「……昨日の昼飯は?」
「……覚えてません」
「ほらね」
リラが小さく笑った。三人の掛け合いに、もう慣れた空気がある。
ノアが前方を偵察している。影から影へ滑るように移動して、戻ってきた。耳が右を向いている。
「リラさん」
「はい。……右の方、茂みの奥に——」
目を閉じなくても感知できるようになっている。Lv2の感知スキルが育った証拠だ。
「角兎が二匹。あと——もう少し大きいのが一匹。森猪かな」
「正確です。ノアと同じ方向を指してる」
ヴェルがペンを走らせている。
「森猪はC級下位の魔物です。攻撃的ではないが、追い詰めると突進する。リラさん、使役の練習には——」
「角兎から、ですよね」
「わかってるじゃないですか」
リラが茂みの方に歩いていった。俺とヴェルは後方で見守る形だ。ノアがリラの影に潜り込んだ。
茂みの手前で、リラが足を止めた。
手の甲の結晶が微かに光った。使役スキルの発動。
「……出てきて」
声に出して言う必要はない。使役は結晶を通じた共鳴だ。でも、初めての発動だから声に出しているのだろう。
茂みが揺れた。
角兎が一匹、のそのそと顔を出した。小さな角が木漏れ日を反射している。鼻をひくひく動かして、リラの匂いを嗅いでいる。後足で耳の後ろを掻いた。のんきなやつだ。丸い目がリラを見ている。逃げない。警戒はしている。耳が少し倒れている。でも、逃げない。
リラの手が震えている。でも、剣を持った時の震えとは違う。集中の震えだ。結晶が脈打つように明滅している。
「こっちに……来て」
角兎が一歩、二歩。リラの足元に近づいてきた。鼻をひくひく動かして、リラの手の匂いを嗅いでいる。
リラの結晶が明るく光った。菫色が脈打つように膨らんで——角兎の耳がぴんと立った。風が止まった。木の葉のざわめきも、虫の声も、遠ざかった。リラと角兎の間に——見えない糸が張られたような静寂。
共鳴した。
「……あ」
リラの声が震えた。でも、唇は笑っている。目が潤んでいる。手の甲の菫色が、さっきより少しだけ深くなった気がした。
「来た。来てくれた——」
角兎がリラの足元で丸くなった。耳をぺたんと伏せて、目を閉じている。安心している。
「……カイさん」
「見てます」
「使役って、こういう感じなんですね。命令じゃない。この子が来たいから来てくれた」
「そうです。共鳴ってそういうことです」
ヴェルが帳簿に書き込んでいる。ペンの動きが速い。何かに興奮しているのか、字が少し乱れている。
「リラさんの使役成功時の結晶の光、通常のLv3の発光量を超えています。異常値です」
「異常っていうのはやめてもらえますか、ヴェルさん。嬉しい時に異常って言われると複雑なんで」
「あ、すみません。正確には、統計的に特異な値です」
「同じ意味じゃないですか」
リラが角兎を撫でながら笑っている。目が輝いている。8年間、剣を握って怯えていた手が、今、小さな魔物を優しく撫でている。
剣を握って震えていた手が、角兎の柔らかい毛並みを撫でている。同じ手だ。
ノアがリラの影から顔を出して、角兎を見ている。仲間を見るような目だ。
リラが立ち上がった。角兎を肩に乗せたまま、目を閉じた。
「……右の方に——もう一匹。大きい。……森猪より大きいかも」
ノアの耳が右を向いた。俺も気配を探った。
……何もいない。ノアの耳はすぐに正面に戻った。
「リラさん。今のは——外れです」
「え——でも、確かに——」
「角兎と共鳴した直後は感知が広がりすぎる。自分の結晶の振動を拾って、それを外の気配と誤読した」
リラの顔が赤くなった。
「……すみません」
「謝る必要はない。誤読のパターンを知ることが大事です。何が本物の気配で、何が自分の結晶の反響か。区別できるようになれば、感知の精度が一段上がる」
リラが角兎を見た。角兎が無心にリラの指を舐めている。
「……失敗しても怖くないです。剣の時は、失敗が怖かった。でも——」
「魔物使いの失敗は、死なない。剣士の失敗は直結する。失敗の重さが違うから、挑戦できる」
「……なるほど」
リラが頷いた。目が少し潤んでいたが、笑っていた。
「カイさん」
ヴェルが隣に来た。声を落としている。
「何ですか」
「リラさんの結晶の光。あれ、おかしいんです」
「また『おかしい』ですか」
「Lv3の使役で、あれだけの発光量はありえない。魔物使いの適性が極めて高い可能性がある。でも——」
「でも?」
「8年間剣士をやっていたリラさんが、なぜ魔物使いの適性に誰も気づかなかったのか。管理局の適性診断は、本来ジョブ登録時に行われるはずです」
ヴェルの目が、また何かを追っている。結晶の話をしているのに、管理局のシステムの話にずれていく。
「……ヴェルさん。あんた、本当に知りたいのは結晶のことじゃないでしょう」
ヴェルが一瞬、止まった。
「……報告書に書く必要が——」
「ないでしょう、それは」
沈黙。ヴェルが眼鏡を押し上げた。
「……フィールドの観察は、まだ続けさせてください」
「構いません」
何かを抱えている技師だ。でも、今はまだ聞かない。
リラが角兎と一緒に戻ってきた。角兎がリラの肩に乗っている。ノアが足元で尻尾を振っている。
三人と二匹。増えた。
帰り道。遺跡の外壁を回り込んだところで、壁面に刻まれた文字が目に入った。
風化して半分以上読めない。石の表面を指でなぞると、溝が深い。何百年も前の彫刻だ。管理局の建物に使われている石材とは質が違う。もっと古い。
読める部分は断片的だ。「……結晶は……本来……還り……」。それだけ。文脈がわからない。
ヴェルが足を止めていた。文字を食い入るように見ている。帳簿にスケッチを描いている。丁寧に、文字の形をひとつひとつ写し取っている。
俺は何も言わなかった。気づかないふりをした。
風化した石の上に、削り残された文字の溝。「結晶は本来還り」。その先は崩れて消えていた。
頭の隅に、残った。




