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第10話「証明」

 リラの最初の実戦依頼が来た。


 森林地帯の魔物駆除。C級依頼。対象は森猪の群れ、農地を荒らしている個体が4匹。通常は剣士2人とレンジャーで処理する案件だが、魔物使いがいれば別のやり方がある。


「魔物使いで森猪に対処するのは——」


「追い込みです。使役で森猪の動きを誘導して、罠に追い込む。直接戦闘しない。魔物使いの基本戦術のひとつです」


「やったことありますか?」


「ないです。でも、調教師をやってた時に似たことはした。獣の動きを読んで、柵に誘導する仕事。原理は同じです」


 リラが少し笑った。


「カイさんの『やったことある』は、大体別のジョブの経験ですよね」


「17個も引き出しがあると、大体どこかに当てはまる」


「それ、ずるくないですか」


「ずるくないです。全部Lv7で取り上げられてますから」


 ◇


 森の中。午後の光が木漏れ日になって降り注いでいる。湿った土の匂いと、どこかで腐った果実の甘い匂いが混ざっている。足元の落ち葉を踏むと、湿った感触が靴底を通して伝わる。革靴が泥を吸い始めている。森猪が好む匂いだ。獣道が何本も交差している。


 ヴェルが後方で帳簿を広げている。戦闘には参加しないが、結晶の挙動を観察するために同行している。最近はもう「報告書に書く必要がある」とは言わなくなった。ただ黙って書いている。


 ノアが偵察から戻ってきた。耳が北東を向いている。


「リラさん」


「わかってる。北東——森猪が3匹。固まってる。もう1匹は……少し離れたところに単独でいる」


「4匹のうち3匹が群れて、1匹がはぐれてる。どっちから行きます」


 リラが考えている。


「……はぐれた1匹から。群れを刺激すると3匹が一斉に動く。単独なら、使役で誘導しやすい」


「正解」


 ヴェルがペンを走らせた。「判断速度——即時」と書いている。この男は何でも記録する。今日の天気すら帳簿に書いていそうだ。


 ふと、ヴェルの帳簿の端が見えた。今日の記録ではないページ。古い日付の欄に、赤い線で消された文字がある。「評価認定部 異議申立報告——」。その先が塗りつぶされている。自分で消したのか、消されたのか。


 ……聞かない。まだ。


 リラの判断が変わった。3週間前は「わかりません」と言っていた。今は自分で考えて、答えを出す。しかも正しい。


 はぐれた森猪は、倒木の陰にいた。体長は1メートルほど。牙が短い。若い個体だ。


 リラが結晶に意識を集中した。菫色が脈打つように明るくなる。


「……来て。こっちに」


 森猪が顔を上げた。鼻をひくひく動かしている。腐葉土を踏む音が、やけに大きく聞こえた。リラの方を見た——そして、のそのそと歩き出した。


 使役が通った。Lv3の初級使役で、C級の魔物を動かしている。普通は難しい。でもリラの感知力——魔物の「周波数」を読む精度が異常に高い。ヴェルの言葉を借りれば「統計的に特異」だ。


 森猪が罠の方向に歩いていく。鼻を地面に擦りつけながら、のんびりと。使役の誘導は「押す」のではなく「流す」のだ。魔物が自分の意志で動いていると思わせる。


 リラが後ろから、距離を保ちながらついていく。後衛の動き。完璧だ。足音が静か。剣士の歩き方ではない。8年間の重心移動が、今は魔物使いの忍び足として機能している。


 罠——木の根元に掘った落とし穴——に森猪が落ちた。地面が崩れる音と、獣の悲鳴。暴れているが、穴が深いので出られない。


「1匹目、確保」


 リラの手が震えていない。


 ◇


 残り3匹は群れている。こちらは使役では動かしにくい。複数の個体が互いに影響し合って、一匹だけ誘導するのが難しい。


「……カイさん。群れの動きを読んでいいですか」


「どうぞ」


 リラが目を細めた。感知に集中している。


「3匹のうち——左の一番大きいのがリーダー。他の2匹はリーダーの動きに従ってる。リーダーを動かせば、全部動く」


「見えてますね」


「リーダーは……警戒心が強い。使役は通りにくい。でも——怖がっている。この森に何か別の気配がある。それを怖がってる」


 リラの目が開いた。


「ノア」


 俺とリラが同時に声を出した。


 ノアが影の中にいる。黒い体が森の影に溶けて、森猪の群れに近づいている。


 影狐の気配。森猪にとっては上位の捕食者だ。ノアの気配を感知した森猪のリーダーが、身を低くして——罠の方向に後退し始めた。


「今だ。リラさん、リーダーだけに集中。ノアが圧をかけてる間に誘導して」


「——はい!」


 リラの結晶が光った。今までで一番明るい。ヴェルの帳簿のページがめくれるくらいの光。いや、風か。


 森猪のリーダーが罠の方向に走った。2匹がついていく。3匹まとめて、落とし穴の手前で——


 止まった。


 リーダーが穴の手前で踏ん張っている。本能が罠を察知した。使役の誘導と本能が拮抗している。


「リラさん、押しすぎないで。無理に押すと暴れる。ゆっくり——圧を一定にして」


「……わかってます」


 リラの声が変わった。遠慮がない。集中している時の声だ。


 風が止まった。森の葉擦れすら聞こえない。リラの呼吸だけが、かすかに空気を揺らしている。


 森猪のリーダーが、ゆっくりと一歩、踏み出した。腐葉土が前足の下で崩れる音。穴の縁に前足がかかって——地面ごと、落ちた。獣の悲鳴。木の根が折れる音。続いて2匹も、雪崩のように。


「4匹、全匹確保——!」


 リラが振り返った。目が輝いている。汗が額を伝って、顎から落ちた。息が荒い。指先が白くなるほど拳を握っていた。


 でも——手は震えていなかった。握りしめているだけで、震えてはいなかった。


「……やりました」


「やりましたね」


 ノアがリラの足元に戻ってきた。尻尾を振っている。リラがしゃがんでノアを抱え上げた。


「ノア、ありがとう。あなたがいなかったら——」


 ノアが「クゥ」と鳴いた。


 ヴェルが帳簿を閉じた。


「観察記録。リラさんの使役——Lv3初級で、C級魔物4匹の群れ誘導に成功。通常、この難度の誘導はLv5以上の魔物使いに限られます」


 淡々と読み上げて——それから、帳簿を閉じた指が少しだけ震えていた。


「カイさんが見たものは——正しかった」


 ヴェルが帳簿を閉じて、俺を見た。いつもの分析の目ではなかった。


「……あなたの目は、信用できます」


「別に。見えたから——」


「言っただけ。知ってます。でも、見えることと言えることは別です。あなたはどちらもできた」


 ……何も返せなかった。


 喉の奥の、あの引っかかり。今日は——少しだけ軽い。


 帰り道。森を出ると夕方の光が眩しかった。汗が引いて、肌が冷える。リラの額にも汗が光っている。使役は精神力を使う。結晶を通して魔物と共鳴し続ける作業だ。初めての実戦使役で、群れ誘導まで成功したのは普通ではない。


 報酬は金貨1枚と銀貨5枚。三人で割ったら、まあ、定食15回分か。C級にしては悪くない。


 リラが隣を歩きながら、菫色の結晶を見ていた。もう怖がっていない。もう確かめてもいない。ただ——自分の手を見て、笑っていた。


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