第3話「ビビりの剣士」
路地の奥に、二人の人影があった。夕陽が路地の入り口まで届いていたが、奥は薄暗い。石壁にこもった日中の熱が、じわりと肌に触れた。
一人は背の高い男。B級くらいの剣士だろう、手の甲に深い赤の結晶が光っている。パーティのリーダーか。腕を組んで、壁にもたれかかっている。
もう一人は、女。
年齢は20代半ば。亜麻色の髪を雑に束ねている。手の甲に赤い結晶。剣士の色だが、淡い。Lv5か6。中級の頂点あたり。腰の剣は手入れされているが、柄の握り跡が浅い。力任せに振るタイプじゃない。
女の肩が小さく震えていた。
「……お前、もう8年だろ。8年やって、Lv6で止まって。ミラの方が後から始めて、もうLv7だぞ」
男が溜息をついた。声に悪意はない。むしろ疲れている。何度も同じことを言ってきた人間の、諦めに近い口調。
「お前は——怖がるんだよ。魔物と正面からぶつかる瞬間に、一瞬止まる。あの一瞬で、前衛の連携が崩れる」
女は黙っている。唇を噛んでいる。反論しない。
「剣の筋は悪くない。型も丁寧だ。でもな、前衛ってのは踏み込むもんなんだよ。お前はいつも、踏み込む寸前で、一回読もうとする。魔物の動きを。あれが癖になってる」
何度も同じことを言ってきて、何度も変わらなかった人間に向ける声だ。
「ビビりの剣士って、パーティの中でも言われてるのは知ってるだろ。俺がかばいきれなくなる前に——」
「……わかってます」
初めて声を出した。低くて、かすれていた。
「わかってるんです。怖いのも、止まるのも、全部。何度も直そうとした。でも体が——」
言葉が途切れた。
拳を握っている。剣士の手だ。マメの位置が独特で、人差し指と中指の間、順手で振る時にかかる場所に厚い層がある。8年の証拠。
でも、その手が震えている。
「……すみません。少しだけ——考えさせてください」
男がしばらく女を見て、それから背を向けた。
「次の依頼までに決めてくれ。パーティの構成、変えないといけないから」
足音が遠ざかる。路地の角で一瞬止まった。何か言いかけたのか。そのまま、行ってしまった。
路地に残されたのは女一人。どこかの店の排水の匂いが、薄く漂っている。壁に背をつけて、ずるずると座り込んだ。石畳は冷たいだろう。膝を抱えて、額をつけている。
夕陽が路地の壁を赤く染めている。女の肩が小刻みに震えていた。声は出さない。顎を引いて、歯を食いしばるようにして、静かに崩れていく。
俺は路地の入り口で、壁に肩をつけたまま動かなかった。
……見るつもりはなかった。ただ、声に引かれて来ただけだ。
帰ろう。関係ない。
足元で、ノアが動いた。
影から、するり、と。路地の奥に向かって、女の方に、ノアが歩いていった。
おい。
ノアは女の前で立ち止まり、座った。影の中に溶けかけた黒い体が、女の影に重なるように丸まった。
女が顔を上げた。
「……なに、この子」
涙は流していなかった。でも目が赤い。泣くのを我慢した跡だ。
ノアが「クゥ」と小さく鳴いた。滅多に鳴かない。昨日は一度も鳴かなかった。鳴く時は何かを感知した時か。いや、まだ一日しか一緒にいない。パターンなんてわかるわけがない。
女がおそるおそる手を伸ばした。ノアは逃げない。黒い耳がぴくりと動いて、差し出された手の下に頭を入れた。
指が黒い毛並みに触れた瞬間、女の肩から力が抜けた。さっきまで岩みたいに固まっていた体が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……あったかい」
女の声が別人のように柔らかかった。指がノアの耳の後ろを撫でると、ノアが目を細めた。……俺にもそんな顔はしない。
……面倒くさい。
ノアのせいだ。あいつが行かなければ、俺はそのまま帰れたのに。
「その狐、俺のです。すみません」
声が出た。自分の声が、路地の石壁に反響するのが聞こえた。硬い声だ。不愛想だな、と思ったが、直す気はない。
路地の奥に足を踏み入れた。女が顔を上げる。涙の跡を隠すように、袖で目元を拭った。
「あ……飼い主さん? この子、勝手に……」
「飼い主じゃないです。昨日からついてきてるだけで」
ノアを拾い上げようとしたが、ノアは女の影に沈み込んで出てこない。尻尾だけが地面から生えている。
……お前。
「すみません、この子——」
「いいえ。あったかくて……少し、助かりました」
女が立ち上がった。膝の土を払う。背筋を伸ばすと、俺より頭半分低いくらいだ。目が合った。
赤い目。泣いた後の目。でも、逸らさない。
「……あの。さっきの話、聞いてました?」
「途中から」
嘘をつく理由がない。
「……そうですか」
女が苦く笑った。
「ビビりの剣士の話、面白くなかったでしょう」
自虐。でも声は笑っていなかった。
「ビビり、ね」
さっきのリーダーの言葉。「魔物と正面からぶつかる瞬間に、一瞬止まる」。
俺はさっき、この路地に入る前に、足を止めた。声の詰まり方で、壁の前に立っている人間だとわかった。
でも、今。
目の前に立っている女を見て、少し違うことに気づいている。
この女、構えが妙だ。
立ち上がった瞬間に、無意識に左足を半歩引いた。両方の退路を確認してから立っている。
剣士は前に出る。前足に重心を置く。この女は逆だ。退路を確保してから動く。
……斥候をやっていた時、同じ動きをする奴がいた。あいつは「臆病」じゃなかった。周囲を見てから動く、索敵型の体だった。
……それは「ビビり」か?
8年も剣を振って、ただの臆病なら、とっくに辞めている。
何か——引っかかる。
「あの、何か……?」
見すぎていたらしい。女が怪訝な顔をしている。
「……いえ。何でもないです。ノア、行くぞ」
ノアが渋々、女の影から出てきた。名残惜しそうに女の足元を見上げている。
「……あの。この子の名前、ノアっていうんですか?」
「昨日つけたばかりですけど」
「かわいい名前……。あの、私はリラって言います」
リラ。
「カイです」
リラが、俺の手の甲をちらりと見た。淡い紫色のLv1。何か聞きたそうに口を開きかけて、飲み込んだ。自分の話で精一杯なのだろう。
代わりに、小さく頭を下げた。
「ノアに、ありがとうって伝えてください」
「……自分で言えばいいでしょう。明日もギルドにいるなら」
なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからない。
リラが少しだけ目を見開いた。それから、泣いた後の赤い目で、初めてまともに笑った。
「……はい」
路地を出た。ノアが肩に飛び乗ってきた。首元で丸くなる。
背中にリラの視線を感じた。
……面白い。
あの重心の置き方。「ビビり」と呼ばれている癖。あれは——何だ?
言葉にならない。でも、17職分の体が何か言っている。
明日、ギルドに行ったら、あの女、また会えるだろうか。
ノアが肩の上で「クゥ」と鳴いた。二度目だ。今日初めて二度。
路地の奥を向いて。




