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第4話「剣士じゃない」

 掲示板の前に、リラがいた。


 翌朝のギルド。床板が軋む音。カウンターでグラスを磨く音。朝は昼間より静かで、匂いが濃い。酒と木の匂いが、いつも通りに流れてくる。


 依頼書を睨んでいる。でも手は出さない。腕を組んで、下唇を噛んで、ずっと立っている。周囲の冒険者が横を通り過ぎても動かない。


 昨日と同じ赤い結晶。淡いLv6の色。剣士の色。


 近づくと、足元からノアが影を滑って走った。リラの足元で止まって、顔を見上げる。


「あ、ノア」


 リラの表情がぱっと変わった。しゃがんで、ノアの頭を撫でる。ノアが目を細めて、喉の奥で小さく唸った。満足の音だ。昨日もそんな顔してた。……やっぱり、俺にはしない顔だ。


「カイさん。来てくれたんですね」


「ギルドに用があっただけです」


 嘘じゃない。鑑定の依頼を探しに来た。別にリラに会いに来たわけじゃない。


 周囲の冒険者がちらちらとリラを見ている。掲示板の前で動かない女。手の甲のLv6は、この場所では珍しくもない数字だ。でも、ソロで立っている剣士は目立つ。


「……依頼、決まらないんですか」


 掲示板を見た。C級〜B級の依頼が並んでいる。リラの手の甲のLv6なら、B級依頼も受けられる。でも、


「パーティがないと受けられない依頼ばかりで。ソロで受けられるのは……」


 掲示板の下の方。D級〜C級のソロ依頼。薬草採取、荷物運搬、見回り。剣士Lv6の仕事じゃない。


「昨日のリーダーのパーティは」


「……保留中です。次の依頼までに決めろって言われてるんですけど、決められなくて」


 リラが立ち上がった。ノアを抱えたまま。ノアは嫌がっていない。


「辞めるか、続けるかって話なんですけど。続けても、また同じことの繰り返しで。踏み込む瞬間に止まるのが直らない限り」


 声が少しずつ小さくなる。


「8年、直そうとしたんです。訓練もした。意識もした。でも——体が勝手に、魔物の動きを読もうとする。剣士としては致命的で」


 止まった。


 胸の奥で、昨日から引っかかっていた何かが、かちりと嵌まった音がした。


 今、何と言った?


「もう一回言ってもらえますか」


「え……?」


「今の。体が勝手に、の後」


 リラが戸惑った顔をした。


「……魔物の動きを、読もうとする?」


 ——あー。


 見えた。


 昨日から引っかかっていたもの。あの重心の置き方。退路を確保してから動く構え。「ビビり」と呼ばれている癖。


 あれは恐怖じゃなかった。


「リラさん。あんた、魔物と戦ってる時、魔物が次にどう動くか、わかる時がありますか」


 リラの目が揺れた。


「……あ、ります。時々。右に跳ぶな、とか。次は尻尾を振る、とか。なんとなく、体が先に反応するんです。でも、それが来るのを待つから踏み込みが遅れて」


 やっぱりだ。


 前衛は反射だ。読んでたら遅い。


 でも——魔物使いは逆だ。


「あんた、剣士じゃない」


「……は?」


「剣士に向いてないんじゃなくて。やってることが剣士じゃないんです」


 リラが固まった。


「魔物の動きを読んでから動く。全体を見渡してから動く。それは剣士の仕事じゃない」


「じゃあ——」


「魔物使いです」


 沈黙。ノアが俺の影の中でぴくりと耳を立てた。リラの心拍の変化を拾ったのかもしれない。


 掲示板の依頼書が一枚、風に揺れた。その紙の音が、妙にはっきり聞こえた。ギルドの喧噪が遠くなった気がした。リラが俺を見ている。唇が少し開いている。何か言おうとして、言葉が見つからない顔。


「あんたが剣士として『欠点』だと思ってたこと。先読みする癖、退路を確保する構え。全部、魔物使いなら『適性』です」


「でも——私は8年——」


「8年いたんなら、なおさら体が覚えてるでしょう。魔物の動き」


 リラの手が震えていた。昨日とは違う。昨日は絶望の震え。今は、何だ。


「……そんなの。そんなこと——」


 声がかすれた。


「8年で、一度も、誰にも——」


 言いかけて、止まった。唇を噛んだ。目が潤んでいる。


 ノアが腕の中で「クゥ」と鳴いた。リラの腕に頭をすり寄せた。


「……信じていいんですか。それ」


 声が震えている。でも、目は逸らさない。昨日もそうだった。泣いた後の赤い目で、逸らさなかった。この女の強さは、そこだ。


「俺は見えたものを言っただけです。信じるかどうかはリラさんの判断で」


 リラが長い間、黙っていた。唇が微かに動いている。何かを繰り返し咀嚼するように。「魔物使い」という言葉を、口の中で転がしているのかもしれない。


 掲示板の依頼書が風に揺れている。午前の光がギルドの窓から差し込んで、リラの亜麻色の髪を明るく照らしていた。その光の中で、リラの手の甲の赤い結晶が、最後の輝きを放っているように見えた。もうすぐ、この赤は消える。


 ……あの、


「魔物使いって、どうやったらなれるんですか」


 声は小さかった。でも、震えは止まっていた。


 ギルドの窓から差し込む光が暖かい。埃が光の筋の中でゆっくり舞っている。カウンターの方から、グラスを磨く規則的な音が聞こえている。


「管理局で結晶の色を変えてもらえばいい。申請すれば誰でもできる。ただ——」


「ただ?」


「世間的には白い目で見られます。ジョブ変えるの、この世界じゃ珍しいんで」


 リラが少し笑った。目はまだ赤いが、昨日の笑いとは違う。


「……もう白い目には慣れてます。8年分。『ビビりの剣士』より、ずっとマシかもしれない」


 ノアが尻尾を揺らした。リラの袖口に鼻先を押し当てている。こいつはリラが笑うと尻尾を振る。泣くと寄り添う。感情を読んでいるのか、それとも結晶の変化を感知しているのか。


 どちらにしても、ノアはリラが好きらしい。俺の時より、尻尾の振り方が大きい。


「あの、カイさん」


「何ですか」


「なんで、わかったんですか。その、魔物使いの適性が、私にあるって」


「……剣士やってた時に、同じの見たことがあるんで」


 いつもの答え。


 でも本当は、少し違うことも思っていた。


 8年、場所を間違えて苦しんでいた人間を見て、17回、場所を変え続けてきた自分のことが、ほんの一瞬だけ頭をよぎった。


 ……まあ、それは面倒くさい話だ。


「行きましょう。管理局、午前中なら空いてます」


「え、今からですか?」


「善は急げ、でしょう。俺も管理局に行く用事があるんで。……ついでです」


 管理局に用事はない。ノアが肩の上で小さくあくびをした。甘い干し果物の匂いが残った息。


 リラが半歩、こちらに寄った。目がまだ少し赤かったが、足取りは昨日より軽い。


 ノアが肩に飛び乗ってきて、小さく「クゥ」と鳴いた。リラの方を向いて。


 三度目。こいつ、リラの近くでしか鳴かない。


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