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第29話「最悪の朝」

 朝が来た。起き上がる気力がない。


 天井の木目を数えていた。17本目で飽きた。……17。この数字からは逃れられないらしい。


 ノアが顔の横で丸くなっていた。寝息が聞こえる。小さな体が上下するたびに、黒い毛並みが微かに揺れる。こいつだけは何も変わらない。依頼がゼロでも、管理局にマークされても、同じ場所で同じ寝息を立てている。


 体を起こした。窓から朝日が差し込んでいる。埃が光の中で漂っている。手の甲の灰銀が光った。商人Lv5。数字は上がっている。取引スキルも品質鑑定も育っている。でも——使う場所がない。


 服を着替えた。鏡を見た。33歳の顔が映っている。目の下に隈がある。最近、眠りが浅い。夜中に目が覚める。手の甲を見て——色がまだあることを確認して、また目を閉じる。色が消える恐怖ではない。色があっても意味がないことへの、鈍い痛み。


 ギルドに行く足が重い。行っても依頼がない。行かなくても状況は変わらない。


 初めて——ギルドに行きたくない、と思った。


 17回ジョブが変わって、1度もそう思ったことがなかった。どんな時も、ギルドに行けば何かが始まった。掲示板を見れば面白そうな依頼があった。


 今は——掲示板を見るのが怖い。ゼロが並んでいるのを見るのが怖い。


 ◇


 結局、行った。ノアが先に玄関で待っていた。影の中から金色の瞳だけ光らせて。行かないのか、と言っている目だ。


「……わかったよ。行く」


 ノアの尻尾が揺れた。こいつに背中を押されて毎朝ギルドに向かう。17回ジョブが変わっても——朝起きて、ギルドに行くことだけは変わらない。それが俺の日常だ。


 ギルドまでの道を歩いた。朝の通りは冒険者でにぎわっている。結晶の色がちらちらと光っている。赤、青、緑。みんな自分の色を持って、自分の仕事に向かっている。


 俺の手の甲の灰銀は——今日も誰にも見向きされない。C級の商人。注記つき。


 ギルドに着いた。扉の取っ手が朝の冷気で冷えている。握った指先がじんとした。扉を押し開けると、いつもの酒と木の匂い。いつもの喧噪。でも——俺が入った瞬間に、カウンター付近の会話が一瞬だけ止まった。すぐに再開した。気にしていない振りをしている。でも——空気が微かに変わった。


 食堂で一人、飯を食っていた。リラは今日、ソロの依頼に出ている。魔物使いとしての仕事は——俺と離れていれば、まだ受けられる。


 カウンターの隅に座って、スープを啜っていた。周囲の冒険者たちの声が遠い。俺の存在を避けるように、席が空いている。


「……あの、すみません」


 声がした。振り返ると——見覚えのある顔。


 弓兵。以前、ジョブに口を出した若い弓兵だ。B級パーティの——あの件で怪我人が出た、あの弓兵。


「……あの時の」


「は、はい。あの——その節は——」


 弓兵が頭を下げた。深く。


「え——何で謝るんですか。俺が余計なことを——」


「いいえ。あの後——手首の使い方を、自分で調べました。カイさんが言ったこと——正しかったんです。手首の角度が弓兵向きじゃなかった。矯正したら——射撃の精度が上がりました」


「……」


「あの時は——動揺して、ミスしました。でもそれは——カイさんのせいじゃなくて、俺が弱かったからです。指摘自体は——正しかった。感謝してます」


 弓兵が真っ赤な顔で立っていた。拳を握って、体が少し震えている。緊張している。ギルドの食堂で——管理局にマークされた男に話しかけるのは、勇気がいる。周囲の冒険者が見ている。それでも——来た。


 この弓兵は——俺が壊した人間だ。タイミングを間違えて、依頼中にミスをさせた。怪我人まで出た。それでも——謝りに来たのではなく、感謝しに来た。


 ……人間は、想像よりも強い。


「……ありがとうございます」


 弓兵の言葉が——胸に沁みた。スープが冷めるのも忘れていた。


「でも、タイミングが悪かったのは俺のミスです。すみませんでした」


「いいえ。あの——もう一つ。手首の矯正のこと、パーティの他のメンバーにも教えてもらっていいですか? 剣士のグリップの見方とか、盾職の重心の読み方とか——」


「……それは、聞かれたらですね。聞かれてもいないのに言うのは——もうやめることにしたんで」


「あ、すみません——」


「いや。……聞かれたら、喜んで」


「いえ。——あの、もう一つだけ」


「何ですか」


「パーティのリーダーが——あの後、カイさんのことを聞いて回ったらしいんです。Lv6の剣士を魔物使いにした話とか、17回ジョブが変わった話とか。それで——『あいつの目は本物だ。次に何か見えたら聞きに行け』って言ってました」


 ……。


 あのリーダー——あのB級パーティの——が、そんなことを。


「あのリーダーさんに——伝えてもらえますか。依頼があれば受けます、って」


「はい!」


 弓兵が敬礼のような仕草をして——恥ずかしくなったのか、耳を赤くして去っていった。背中が小さくなるまで見えた。手首の角度が——前より良くなっている。走る時の腕の振りが自然だ。矯正した成果が、歩き方にも出ている。


 スープが冷めていた。ぬるいスープを飲み干した。味がする。豆の粉っぽさと、ベーコンの塩気。さっきまでは何を食べても味がしなかったのに、弓兵の言葉の後で味が戻った。


 見えたから言った。タイミングを間違えた。でも——見えたことは正しかった。時間はかかったが——伝わった。


 弓兵の背中を見送りながら考えた。あの時の俺は間違えた。でも——間違えたのは「見えたこと」じゃない。「伝え方」だ。見えること自体は——正しかった。


 一人じゃなかった。


 ◇


 その日の夕方、メイナス商店の店主がギルドに来た。


「カイさん。管理局との契約は凍結されましたが——街中の取引は生きてます。新しい仕入れ先を見つけました。遺跡素材ではなく、一般素材の卸売り。管理局を通さないルートです」


「……ありがとうございます」


「お互い様です。あなたの目利きがなかったら、うちの店は在庫を抱えたままでした」


 メイナス商店。最初の依頼先。ジョブが変わっても、関係が続いている。


「あと——嫁がお茶を詰めてきました。あの木の実の焙じたやつ。カイさん気に入ってたでしょう」


「……奥さんに、ありがとうございます、って」


「自分で言ってくださいよ。今度うちに食いに来ればいい」


 店主が笑った。分厚い手で俺の肩を叩いた。力が強い。商人は——こういう手の人間なのだ。


 夜。宿の部屋で、ノアが膝の上にいる。


 最悪の朝から始まった日が——少しだけ、光を取り戻して終わった。


 ノアが膝の上で丸くなった。温かい。窓の外に、夕焼けが広がっている。橙色。鍛冶師の結晶と同じ色だ。懐かしい。あの色も、もう手の甲にはない。


 でも——鍛冶師の手触りは残っている。今日、弓兵の手首の矯正が正しかったのは——弓兵やってた時の体感があったからだ。色は消えても、手は覚えている。


 まだ戦える。まだ——見える。見えたものを、伝える方法はある。


 17回、ジョブが変わった。そのたびに——「見えたから言っただけ」の数が増えていた。気づかないうちに。面倒くさがりながら。


 その一つ一つが——今、返ってきている。


 借りを返しに来る人間がいる。恩を覚えている人間がいる。


 向こうが——覚えている。


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