第28話「崩壊」
リラに圧力がかかった。
管理局から——魔物使いの結晶に「再検査」の通知が届いた。「ジョブ変更歴のある冒険者に対する定期検査」という名目。形式的には全員が対象だが、実際にはリラだけだ。ギルドの掲示板に通知が貼り出されたが、他の冒険者は誰も呼ばれていない。
「再検査の結果によっては——魔物使いとしてのジョブ適正に疑義があると判断される場合があります」
通知書の文面は丁寧だが、意味は明確だ。——俺と距離を置けば検査は通る。そうでなければ、魔物使いの資格が疑問視される。
リラは剣士Lv6の経験者だ。ジョブ変更歴がある。管理局にとっては——カイの影響でジョブを変えた「不安定な冒険者」として記録されている。
「……カイさん。これ——」
リラが通知書を手にしている。手が震えていた。指先が白くなるほど紙を握っている。8年間の剣士時代を思い出したのだろう。また、誰かに「お前は向いていない」と言われる恐怖が——体の奥から蘇ってきている。
「リラ。これは俺に対する圧力だ。あんたは——」
「わかってます。わかってますけど——」
リラの声が詰まった。
「やっと——見つけたんです。魔物使いとしての居場所。カイさんが見つけてくれた。角兎を呼べた日のこと、森猪を誘導した日のこと——全部、やっとつかめたと思ったのに。それを——また奪われるのが——」
泣かなかった。でも、唇を噛んでいた。路地裏で初めて会った時と同じ仕草。あの日、リーダーに「ビビりの剣士」と言われて、声も出せずにいた時と同じ。
でも——あの時と違うことが一つある。リラは今、俺の顔を見ている。下を向いていない。逸らしていない。
「……カイさん。私——逃げません」
「逃げろとは言ってません」
「でも——距離を置けって言おうとしてたでしょう」
「……」
「顔に書いてます」
「書いてません」
「書いてます。眉間に皺が寄って、視線が右に泳いで、口が開きかけて閉じる。カイさんが『面倒くさいことを言おうとして引っ込める』時の顔です」
「……魔物使いの感知力を俺に使うのやめてもらえませんか」
「これは感知じゃないです。一緒にいればわかります」
……面倒くさい。
「いつも、こういう時——一人で背負おうとする」
図星だ。リラは——魔物使いとしてだけじゃなく、俺を読む力も育っている。
「再検査は——受けます。正々堂々と。魔物使いとしての実績データはヴェルさんが持ってます。Lv3の使役でC級の群れ誘導に成功した記録が。管理局も——データを無視できない」
「……そうですね」
「それに——ノアがいます」
ノアがリラの影から顔を出した。金色の瞳がリラを見上げている。
「ノアは——私の味方です。管理局が何を言っても」
ノアが「クゥ」と鳴いた。小さく。リラの手に鼻先を寄せた。
◇
その日の午後、リラがソロで受けた依頼から戻ってきた。
顔色が悪い。
「……どうでした」
「依頼は完了しました。森猪の群れ誘導。いつも通り」
いつも通り。でもリラの手が震えている。剣士時代の震えと同じ、指先の白さ。
「いつも通り、じゃないでしょう」
「……途中で止まっちゃったんです。森猪の群れが突進してきた時に。体が勝手に退路を探して、足が止まった。3秒くらい。ノアが影で群れの気を逸らしてくれなかったら——」
3秒。魔物使いにとっての3秒は、剣士にとっての3秒と違う。後衛が3秒止まっても即死にはならない。でもリラにとっては、8年間克服したはずのビビりが戻ってきた3秒だ。
「……剣士の時と同じだった。頭が先に動きを読んで、体がそっちに反応して。魔物使いとしてじゃなくて、剣士としてのビビりが出た」
リラの目が赤くなっていた。泣いてはいない。泣くのを我慢している。
「せっかく見つけた場所なのに。魔物使いならビビりが武器になるって、カイさんが言ってくれたのに。なのに——圧力がかかった途端に——」
「リラ」
「はい」
「3秒で止まったのは、ビビりじゃない」
リラが顔を上げた。
「森猪が突進してきた時に、退路を探した。それは魔物使いの感知だ。全体を見渡して、逃げ道を確認した。それが3秒でできたなら——成長してる」
「でも、足が——」
「足が止まったのは、体が先に答えを出したからだ。『ここは危ない。下がれ』って。剣士なら致命的だが、魔物使いなら正しい判断だ。問題は——あんたがそれを『ビビり』と呼んでること」
リラが黙った。長い沈黙。ノアがリラの膝に飛び乗って丸くなった。
「……もう一回、言ってもらえますか」
「ビビりじゃない。感知だ」
「……ありがとうございます」
リラの手の震えが、少しだけ収まった。完全には止まっていない。でも——8年前の路地裏とは違う。今のリラは、震えながらでも立てる。
◇
ヴェルにも圧力がかかっていた。
管理局内部で「業務態度の見直し」を理由に、デスクが移動された。窓際の席——左遷と同じ扱い。帳簿も一部没収された。ただし、ヴェルの頭の中のデータは消せない。
三人が——同時に追い詰められている。
メイナス商店の店主からも連絡が来た。
「カイさん。管理局から、うちの店に『取引監査』の通知が来ました。あなたとの取引について——書類を出せ、と」
「……すみません。巻き込んで」
「巻き込まれたつもりはないです。ただ——しばらく、表立った取引は控えた方がいいかもしれません」
取引ルートが一つずつ閉じていく。管理局の包囲網が——俺の周りから、俺の仲間の周りに広がっている。
◇
その日の夜。宿の部屋で一人になった。
リラは自分の宿に戻った。ヴェルとは管理局の外では会わないようにしている。接触を見られると、さらに圧力がかかる。
一人。
ノアが膝にいる。温かい。でも——それだけでは、喉の奥の冷たさが溶けない。
見えるだけだ。
全部見えた。でも変えられない。見えることが、仲間を傷つけている。
リラの震える手を思い出した。ヴェルの窓際の席を想像した。メイナス商店の店主の申し訳なさそうな声が耳に残っている。
……リラは、俺と出会わなかった方がよかったのか?
剣士Lv6のまま、「ビビり」と呼ばれながらも——少なくとも管理局に目をつけられることはなかった。
ヴェルは、報告書を書き続けるだけの技師でいられた。帳簿を取り上げられることもなかった。
俺が「見えたから言っただけ」を繰り返した結果が——これだ。
ノアが「クゥ」と鳴いた。俺の手の甲に鼻先を寄せた。いつもの仕草。灰銀の結晶に黒い鼻が触れる。尻尾がゆっくり揺れた。
……ノアの目に、俺はどう映っているのだろう。色のある時も、ない時も、同じ顔をするこいつに——俺はどう見えているのだろう。
窓の外に月が出ている。冷たい光が部屋に差し込んでいる。街の遠くで犬が吠えている。それきり静かだ。壁に映った影が一つ——俺と、膝の上のノアだけ。
17回やり直してきた。どのジョブでも、最初の一歩は見えた。何をすれば立ち上がれるか、体が知っていた。
でも今——初めて、次の一歩が見えない。
今まで壊れてきたのはジョブだけだった。結晶の色が消えても、手の記憶は残った。次のジョブを選べば、また歩き出せた。
手を見た。マメの跡。剣士の、鍛冶師の、盾職の。17職分の手だ。この手で鉄を叩いたし、剣を振ったし、盾を構えた。
でも、この手でリラの震えを止めることはできなかった。
明日——何をすべきか、わからない。
目を閉じた。ノアの温もりだけが、暗闇の中で確かだった。
今までは壊されたら走れた。止まらなければよかった。
でも今は走れない。走ることが仲間を傷つけることになる。
初めて、立ち止まることを強いられている。
ノアが寝返りを打った。小さな前足が俺の手に触れた。冷たくはない。温かい。
ノアは——俺がどれだけ追い詰められても、同じ顔をしている。同じ温度で丸くなっている。依頼がゼロでも。管理局にマークされていても。仲間が傷ついていても。
明日のことは明日考える。今日はノアの温もりだけで十分だ。




