第23話「握りつぶし」
ヴェルが原本を確認した。
4回目の納品の時に、ヴェルを「技術助手」として同行させた。商人の取引で技術者の立ち会いが必要な場合、助手の同行は認められている。正規の手続きだ。レンズ研磨材の品質確認に技術者が必要——という名目は、管理局の受付でも通った。
制限区画の廊下は相変わらず冷たかった。魔力灯の青白い光が石壁を照らしている。天井が低い。空気が乾いていて、古い紙と石とカビの匂いがする。自分の足音が反響して、二人分に聞こえた。
倉庫にレンズ研磨材を納品した。受付職員が納品書を確認している間に、ヴェルが廊下の奥に消えた。技術文書保管室は倉庫から3つ目のドアだ。俺が前回確認した位置。
「納品書、問題ないですね。サインをお願いします」
「はい」
サインをしながら、世間話をした。天気の話。結晶研磨の需要が増えている話。管理局の職員にとっては退屈な日常会話。でも俺にとっては、ヴェルの時間を稼ぐための命綱だ。
10分。ヴェルの持ち時間は10分だった。足音が聞こえないよう祈りながら、納品書の控えを丁寧に確認した。
12分後。ヴェルが廊下の奥から戻ってきた。歩き方は自然だ。さすが技師。表情が読めない。
でも、顔が白かった。読んだのだ。原本を。あの帳簿を。
制限区画を出て、階段を上がるまで、二人とも一言も話さなかった。ヴェルの手が微かに震えていた。白衣のポケットに突っ込んで隠していたが、見えた。
要所を暗記して戻ってきた。帳簿に書き写す時間はなかったが、技師の記憶力で決議の文面と日付と署名者リストを頭に入れた。
管理局を出た時、手が震えていた。二人とも。日の光が白く感じた。地上の空気が甘い。地下書庫の冷たい石と紙の匂いが鼻に残っている。
「……読みました」
ヴェルが一言だけ言った。それだけで十分だった。
その夜、三人で内容を確認した。リラの宿の部屋。窓を閉めて、声を落として。部屋には乾いた木と蝋燭の蝋の匂いがこもっている。ノアが部屋の入り口で見張りをしている——ように見えた。影の中に溶けて、耳だけ外に向けている。廊下の足音が近づくたびに尻尾がぴくりと跳ねる。
「管理局理事会決議第37号。施行日は——」
ヴェルが帳簿に記憶を書き起こしていく。ペンが走る音だけが部屋に響いている。
「署名者は当時の理事会メンバー全員。局長以下7名。決議は全会一致」
「200年前の局長の名前は——」
「記録にありませんでした。署名は職位のみ。個人名は——消されている可能性があります」
ヴェルが帳簿を閉じた。インクが乾ききっていないページがある。走り書きの字が——ヴェルにしては珍しく乱れていた。震えながら書いた字だ。でも、一字一字が正確だ。技師の矜持が、震える手でも正確な記録を残させる。
「これで——証拠は揃いました」
ヴェルが帳簿を閉じて、テーブルの上に置いた。手が震えている。でも——目は震えていない。
「全結晶の改造記録。本来の結晶の挙動。カイさんの結晶が正常であることの裏付け。200年前に何が行われたかの——全容」
リラが帳簿を見つめている。文字は読めないだろうが、ヴェルの記憶が紡いだ文字の重さは伝わっている。
「で、どうするんですか。この証拠を」
「上に報告します。登録管理部の副部長——ヘルド。私の直属の上司です」
リラが顔を曇らせた。
「上司に報告して、大丈夫なんですか。前に左遷された時も」
「前回は、正式な証拠がなかった。感覚的な違和感だけで報告して、握りつぶされた。今回は原本の存在を確認しています。データもある。握りつぶすには——」
ヴェルが言い切れなかった。
「握りつぶすには——」
「……十分な理由があるかもしれません。でも——報告しないことは、もうできません」
◇
翌日。ヴェルはヘルドに報告書を提出した。
結果は——3日後に来た。
ギルド裏手の路地で、ヴェルが待っていた。顔が白い。
「……握りつぶされました」
「……」
「ヘルド副部長は——報告書を読んで、こう言いました。『よくやった。これは俺が預かる。お前はこの件から手を引け』」
「預かる——って」
「形式上は『上に上げる』ということですが——上に上がった形跡がない。ヘルドが自分のデスクに入れたまま、何もしていない」
リラの拳が握りしめられた。
「なんで——証拠があるのに——」
「ヘルド副部長は、真実を知らないんです。改造のことを知らない。でも25年間管理局で積み上げてきた実績が、この報告書を認めたら全部否定される。制度そのものが間違っていたということになる。それを認められないんです」
ヴェルの声が静かだった。
「ヴェルさん。怒らないんですか」
「怒っています。でもヘルドは制度を信じているだけです。間違っているなんて、想像もしていない」
「じゃあ——どうするんですか」
ヴェルが眼鏡を押し上げた。目が据わっている。
「もう一度、ヘルドに直接話をします。報告書ではなく、対面で。データを見せます。カイさんの結晶のデータを」
「俺のデータを」
「17回分の到達返還の記録。色の消え方の均一性。回を重ねるごとに効率化しているサイクル。これを見せても認めないなら」
ヴェルが帳簿を閉じた。
「そこから先は、私の覚悟の問題です」
リラが俺を見た。何か言いたそうにしている。でも飲み込んだ。ヴェルの覚悟を、軽い言葉で汚したくないのだろう。
ノアが三人の足元で丸くなっていた。影に溶けかけて、金色の瞳だけが光っている。
窓の外が暗くなっていた。いつの間にか日が沈んでいる。三人とも——時間を忘れていた。
「……飯にしましょう。頭が回らない」
「カイさん。こういう時にも——飯の話するんですね」
「腹が減ると判断力が落ちる。商人の基本です」
「商人の基本なんですか、それ」
「知りません。今作りました」
「ヴェルさんは何食べたいですか」
「……報告書に書く必要がないものを」
「何ですかそれ」
「辛いやつが食べたいです。頭がぼんやりするので」
「ヴェルさんって辛いの好きなんですか」
「好きというより、必要な時があります」
「技師の基本ですか」
「……それは今作りました」
リラが笑った。ヴェルも——少しだけ口の端が緩んだ。
笑えるうちは、まだ大丈夫だ。
ギルドの食堂に入った。夜の食堂は昼間より空いている。煮込みの湯気と安い麦酒の匂いが天井に溜まっている。隅のテーブルに三人で座った。木の椅子がぎしりと鳴った。ノアが俺の膝に飛び乗った。
メニューは安いものにした。報酬が減っている。管理局の商人契約はまだ生きているが、制限区画への出入りは回数が限られる。無駄遣いはできない。
リラが黙って飯を食べている。ヴェルも黙っている。でも隣に人がいる。黙っていても、同じテーブルにいる。
煮込みを口に運んだ。辛い。ヴェルが頼んだ唐辛子入りの煮込みを間違えて取ったらしい。舌が痺れた。目の奥が熱くなった。辛いせいだ。多分。
面倒くさいが、美味い。




