第22話「お前は壊れてない」
プロアに会ったのは、半分だけ偶然だった。
ヴェルが言っていた。「Lv10を捨てた人物が辺境の村に住んでいるらしい。遺跡周辺の素材を扱う村です」。仕入れルートの開拓と、もう一つ。Lv10を手放した人間が何を見たのか、知りたかった。
メイナス商店の出張という名目で、辺境の村を訪れた。リラとノアは街に残っている。一人旅は久しぶりだった。
村の外れに、小さな家があった。石積みの壁に、蔦が絡んでいる。煙突から煙が細く立ち上っている。
家の前で、女が椅子に座って茶を飲んでいた。
55歳か60歳くらい。白髪混じりの長い髪を一つに束ねている。穏やかな顔だ。体格は小柄だが——座っているだけで、何か違う。空気が違う。
手の甲を見た。結晶が——透明だ。ジョブについていない。
でも、手にマメの跡がある。剣士のマメだ。深い。何十年も剣を振り続けた手。今は柔らかくなっているが、骨格が——剣士の骨格だ。
「あら。お客さん?」
女が顔を上げた。目が合った。穏やかだが、深い目。
「すみません。仕入れの下見で来たんですが、道を間違えまして」
「あー、素材屋さんなら村の中心の方よ。ここは外れ。……でも、お茶でも飲んでく?」
断る理由もない。椅子に座った。木の椅子だ。座面が日に焼けて白くなっている。茶が出てきた。木の実を焙じた香りが、鼻先を撫でた。温かい。
「お若いわね。商人さん?」
「はい。カイです」
「私はプロア。引退した冒険者よ。……もうずいぶん昔の話だけど」
プロア。
——あの、プロア?
「Lv10を——」
「あら、知ってるの?」
「噂だけです。『Lv10を捨てた狂人がいるらしい』って」
プロアが笑った。からからと、乾いた笑い声が辺境の村に響いた。鳥が驚いて飛び立った。
「狂人ねぇ。いいわねぇ、その呼ばれ方。若い頃は怒ったけど——今は気に入ってる。狂人の方が、退屈な常識人よりずっと面白いもの。……嬉しいねぇ、まだ覚えてる人がいるんだ」
Lv10。達人。国に数人しかいない領域。それを——自分の意志で捨てた。
辺境の村の風が、プロアの白髪を揺らしている。鶏が遠くで鳴いている。畑の匂いがする。都の英雄が住む場所ではない。でも——この人は、ここを選んだ。
「なんで——やめたんですか」
「やめた、ってのは違うわね。やりたいことが変わっただけよ」
プロアが茶を啜った。穏やかに。Lv10を手放した人間とは思えない静けさだ。
「あなた——手を見せて」
「え?」
プロアが俺の手の甲を見た。灰銀のLv3。商人の色。
「……ふうん。商人ね。でもこの手は商人だけじゃないわね。マメの跡が多すぎる。剣士、盾職、鍛冶師……いくつやったの?」
「17個です」
プロアの目が光った。
「17。……嬉しいねぇ。私以外にもいたんだ、物好きが」
物好き。
「Lv10を捨てた人と、17回Lv7で結晶を失った人間を一緒にしないでください」
「一緒よ。結晶の色が消えるのを——何度も見た人間。私は1回。あなたは17回。回数は違うけど、見たものは同じ」
プロアがゆっくりと茶を置いた。
「あなたの結晶——色が消える時、どんな感じ?」
「……中心から均一に透明に戻ります。痛みはない。冷たくなるだけです」
「そう。私もそうだった。Lv10の時——結晶の赤が、綺麗に消えた。壊れたんじゃなかった。還ったのよ」
ヴェルと同じことを言っている。
「管理局が飛んできたわ。『色を入れ直せ、秘密にしろ』って。……おかしいと思ったのよ。Lv10まで極めた私の結晶が『定着不全』? 彼らの顔を見て、わかった。隠してるな、って」
「……隠してる」
「結晶の色が消えることは——本来、正常な動作なの。到達のサインよ。『十分に学んだ。続けるか変えるか、選んでいいよ』って、結晶が言ってくれてる」
卒業。ヴェルが使った言葉と同じだ。
「……プロアさん。あなたは——管理局が何を隠してるか、知ってるんですか」
「全部は知らないわ。でも——自分の目で見て、自分の体で感じたことはわかる。色が消えた時、初めて透明な結晶の自分を見た。Lv10の剣士じゃなくて、ただのプロアを」
プロアが俺を見た。穏やかだが、深い目。
「カイくん。あなたは壊れてないわよ」
……。
「17回、色を失った。17回、『欠陥品』と言われた。でも——あなたは壊れてない。最初からそうだった。結晶が正しく動いているだけ」
喉の奥が詰まった。名前のないものがこみ上げてきた。
「あなたの結晶は——あなたに選択肢を返し続けていたの。『十分学んだ。次に行っていいよ』って。それを管理局が『欠陥』と呼んだだけ」
「……17回」
「17回、卒業おめでとう。誰も言ってくれなかったでしょう?」
言葉が出なかった。
17回。結晶が色を失うたびに——喉の奥に引っかかっていた、名前のないもの。小さくて、悲しいとも悔しいとも違う何か。
それはもしかしたら、「卒業おめでとう」に対する自分の返事だったのかもしれない。
「……ありがとう、ございます」
声がかすれた。
プロアがにっこり笑った。
「お茶のおかわり、いる?」
「……もう一杯。お願いします」
辺境の村の小さな家で、プロアの淹れた茶を飲んだ。温かかった。木の実を焙じた香りがする。素朴な味だ。茶碗は手作りだろう、形が少し歪んでいる。でもその歪みが手に馴染む。完璧じゃないものの方が——手に合うことがある。
Lv10を手放した女が、穏やかにお茶を淹れている。国に数人しかいない達人が——辺境の村で一人暮らしをして、蔦の手入れをして、茶を焙じている。その落差が——なぜか、すごく自然に見えた。
この人は——自分で選んだのだ。Lv10の名声も報酬も捨てて、ここにいることを。管理局の「色を入れ直せ」を断って、自分の足でここまで歩いてきた。
……それが自由か。
「もう一つだけ聞いていいですか」
「なあに」
「後悔は——ありますか。Lv10を手放したこと」
プロアが——笑った。穏やかに。
「ないわ。一度もない。——嘘。最初の1年は少しあった。でも——2年目には消えてた。結晶の色が消えた時に見えた透明な自分が——本物の自分だったから。色をかぶせた自分は——着ぐるみだったの。立派な着ぐるみ。みんなに褒められる着ぐるみ。でも中身は、ただのプロアだった」
着ぐるみ。
帰り道。一人で街道を歩いた。ノアがいない肩が軽い。
プロアの家を振り返った。小さな石造りの家。蔦。煙突の煙。Lv10の英雄が住む家には見えない。でもあの家が、たしかにLv10の家だった。
帰りの街道で、夕陽が赤かった。剣士の色と同じ赤。一番最初のジョブの色。
あの赤も——壊れたんじゃなくて、還ったのか。
喉の奥の引っかかりが、少しだけ変わった気がした。名前はまだない。でも形が変わった。
……面倒くさい。でも、早く帰りたい。




