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第19話「留まる理由」

 商人の仕事は、思ったより忙しい。


 朝の市場は活気に満ちている。焼きたてのパンの香ばしい匂い、荷車が石畳を転がる音、革と香辛料が混ざった独特の空気。その雑踏の中を歩くと、足の裏から街の脈動が伝わってくる。


 メイナス商店の在庫整理を皮切りに、市場の他の店からも声がかかるようになった。「あの鑑定士崩れの商人、目利きが確かだ」という噂が、今度は良い方に広がっている。C級の鑑定士としては評判が悪かったが、商人としてはジョブの経歴が「知識の幅」として機能する。


 鍛冶師の知識で武具の不良品を見抜き、薬師の経験で薬草の品質を判断し、盗賊の感覚で出土品の真贋を嗅ぎ分ける。17職分の引き出しが、商人のフレームで初めて全開になった。


 そんな忙しさの中で、トランのことはしばらく頭の隅に追いやっていた。


 トランがギルドの雑用を辞めた。


 それを知ったのは、翌週のことだ。ギルドの食堂で飯を食っていたら、受付の女性が教えてくれた。


「トランさん、昨日付で退職されました。教官試験を受けるそうです」


「……そうですか」


 路地裏で虚ろな目をしていた男が、教官試験を受けると決めた。


 スープの湯気が顔にかかった。熱い。食堂の喧噪がいつもより賑やかに聞こえる。隣のテーブルで冒険者が笑い声を上げている。剣の手入れ油の匂いが漂ってきた。


 リラが隣で小さく笑った。


「カイさん。また、見えたから言っただけ、ですか」


「……ああ」


「今回は、タイミングが合ってましたね」


「……多分」


 ◇


 教官試験は1ヶ月後だ。ギルドが運営する若手育成プログラムの指導員を選抜する試験。実技と面接がある。倍率は10倍以上。教える側に回りたい冒険者は多いが、枠は少ない。


 トランが試験対策をしているという噂が、ギルドで流れ始めた。雑用係を辞めた男が教官を目指す——珍しい話だ。ギルドの食堂で、何人かがその噂をしていた。


「あの逃げ癖のある男が教官だって?」

「8回も辞めたやつに何が教えられるんだよ」


 聞こえた。食堂の油と焦げた肉の匂いが、急に鼻についた。リラが隣で唇を噛んでいた。ノアがリラの影の中で尻尾を巻いて、耳だけをぴくぴくと動かしている。空気の温度を感じ取っているのだろう。


 俺は——何も言わなかった。トランのことは、トランが自分で証明する。


「カイさん、何か言ってやったらどうですか」


「必要ないです」


「カイさん。何も言わないんですね」


「言う必要がない。あいつは自分で動いてる」


「……カイさんも、成長しましたね。前なら言ってた」


「成長じゃないです。面倒くさいだけです」


「嘘ですよ」


 リラの声に笑いが混じっていた。ノアが尻尾を振った。こいつら、息が合いすぎだ。


 数日後、トランがギルドに現れた。


 ギルドの扉が開いた瞬間、外から風が流れ込んだ。春の草と土の匂い。


 顔色が良くなっている。目に焦点が合っている。背筋が伸びている。路地裏で膝を抱えていた男とは別人だ。手の甲には——薄い青の結晶。魔法使いLv1。


「9個目。決めたんですか」


「はい。教官になるなら、広い知識がいるので。魔法系はまだやってなかったから」


「Lv4くらいで壁が見えたら」


「今度は逃げません。壁が見える場所で、立ち止まって見ます。それが教官に必要な経験だから」


 トランの手が震えていない。


「カイさん。あの時言ってくれたこと。壁が見えるのは才能だって。まだ、半分しか信じてないです」


「半分でいいですよ。残りの半分は、教官になった時に信じればいい」


「……はい」


 トランが頭を下げた。深く。しばらく上げなかった。手の甲の薄い青が、午後の光を受けて揺れていた。


 リラが隣で泣きそうな顔をしていた。泣いてはいない。泣くのを我慢する顔。この女、人の話で泣きそうになりすぎだ。


「リラさん。泣かないでください」


「泣いてないです。……泣いてない」


 リラの袖口を見ると、目元を拭った跡がある。泣いてない、と言いながら——この女はいつも、人の話で泣く準備ができている。8年間剣を握って泣かなかった分を、取り戻すように。


 ノアがリラの足元から影を伸ばして、トランの靴の先をそっと嗅いだ。尻尾がゆるく揺れている。認めた、ということだろう。


「……リラさん。人の話で泣きすぎです」


「泣いてません」


「濡れてますよ、袖」


「……これは汗です」


「嘘が下手ですね」


「カイさんよりマシです」


 ……返せなかった。


 ノアがリラの足元で尻尾を振っている。トランの方を見て、耳を動かした。警戒していない。トランの結晶は——Lv1の薄い色だ。縛りが弱い。ノアが落ち着いている理由は、そこかもしれない。


 ◇


 その夜。宿の部屋。


 ノアに干し果物をやった。ノアが前足で俺の指を叩いて、二つ目を要求してきた。断った。三度目の要求で折れた。噛み砕く小さな音が静かな部屋に響く。甘い匂いが指先に残った。


 蝋燭の灯りが揺れている。壁に映る自分とノアの影が、ゆらゆらと形を変えている。影の中のノアは——実物よりずっと大きく見える。壁一面に広がる黒い影。こいつの本来の姿は——もしかしたら、こっちの方が近いのかもしれない。


 懐から帳簿を出した。革表紙が手に馴染む。インク壺の蓋を開けると、鉄と酸の混じった匂いがした。商人の取引記録だ。今日の売上。仕入れ値。利益率。ペンの先が紙を擦る音が、静かな部屋に心地よい。ペンを走らせながら、トランの顔が浮かんだ。


 トランの選択を考えていた。窓の外に星が出ている。この街の夜は静かだ。遠くで犬が一声吠えた。冒険者街の喧噪も、深夜には遠い。夜風が窓の隙間から忍び込んで、蝋燭の炎が揺れた。ノアの耳がその風を追った。


 全員違う。


 窓ガラスに自分の顔が映っている。33歳。17回色が変わった手の甲。19番目の灰銀。映った顔は、特に何も語っていない。いつもの顔だ。


 ノアが膝の上で寝ている。小さな体温が太腿に染みてくる。黒い毛並みが月明かりに微かに光っている。呼吸のたびに柔らかい腹が膨らんで、しぼんで。


 窓ガラスに触れた。夜の冷気がガラスを通して指先に伝わる。手の甲を見た。灰銀のLv3。この色もいつか消える。


 でも、何かが残るはずだ。17回、残ってきたものが。まだ名前がつかないだけで。


 明日は管理局への納品だ。レンズ研磨材の第一便。制限区画の倉庫に、堂々と入る。商人の仕事として。結晶の真実に——一歩、近づくために。


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