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第20話「9個目の色」

 管理局への納品を2回こなした。


 制限区画の倉庫には問題なく出入りできている。レンズ研磨材の納品。正規の商取引。受付職員の顔も覚えた。倉庫の配置も頭に入った。技術文書保管室の位置と棚の配置は、2回目の時に廊下を歩きながら完全に記憶した。


 次の納品でヴェルを連れて行く。いや、まだ早い。もう一度、自分の目で棚の配置を確認する必要がある。どの帳簿がどこにあるか。何年代のものがどの位置に収まっているか。商人の記憶力で地図を頭の中に作る。


 そんな裏の動きと並行して、表の世界でも変化があった。


 ◇


 トランが教官試験に受かった。


 1ヶ月後の結果発表の日。ギルドの掲示板に合格者の名前が貼り出された。5名。その中に——


「トラン・リグ。教官候補生として採用。配属先:若手育成第三班」


 掲示板の前に、トランが立っていた。棒立ちだ。周囲の冒険者が横を通り過ぎても動かない。革鎧と汗の匂いが行き交う人波の中で、トランだけが静止している。風が掲示板の紙をめくっても、トランの目は自分の名前が書かれた一行だけを見つめている。


 結晶の色が——Lv3の青に変わっていた。1ヶ月前は虚ろな目をしていた男の手の甲に、確かな色が灯っている。1ヶ月でLv3。壁が見える才能は、適切な場所では成長速度も速い。


「カイさん」


 トランが振り返った。目が赤い。泣いた跡がある。でも——笑っていた。泣き笑い。男泣きだ。


「受かったんですか」


「……はい」


 声が震えていた。嬉しいのを抑えきれないのか、言葉がうまく出てこない。鼻の奥が熱い。こいつの感情が空気を通してこっちまで伝わってくる。


「面接で——壁が見える、って話をしました。8回逃げた経験と、壁の手前で何が起きるかを知ってるって」


 トランの声が弾んでいる。食堂のパンの焼ける匂いが、その声と妙に合っていた。


「面接官の反応は」


「最初は怪訝な顔をされました。8回もジョブを変えた人間が教官? って。履歴書を見て、ため息をつかれました。剣士Lv4中退、弓兵Lv5中退、鍛冶師Lv4中退……中退の行列です」


「……まあ、そうですよね」


「でも——壁の手前で何が起きるかを具体的に話したら、空気が変わったんです。剣士の壁は踏み込みの恐怖。弓兵の壁は手首の負荷。鍛冶師の壁は火への忍耐。それぞれ違う場所に壁が来ることを話したら、面接官が前のめりになって」


「何と」


「『壁にぶつかった後の指導者はたくさんいる。壁の手前を教えられる指導者は初めてだ』って」


 リラが隣で鼻をすすった。


「泣いてないです」


「泣いてますよ」


「泣いてません」


 泣いてる。


 トランが深く頭を下げた。長い間、頭を上げなかった。肩が震えている。掲示板の紙が風に揺れて、かさかさと音を立てていた。ノアがリラの足元から出て、トランの靴の先をくんくんと嗅いだ。尻尾がゆっくり左右に揺れている。


「カイさん」


 顔を上げた時、目が赤かった。鼻も赤い。顔中が赤い。


「あの日——路地裏で干し果物をもらった日。手が震えて書類が書けなくて、壁にもたれて座り込んでた日。あの一言がなかったら、俺は今もギルドの隅で雑用をしてました。9個目に踏み出せなかった。『壁が見えるのは才能だ』——あの言葉がなかったら」


「見えたから言っただけです」


「知ってます。でも——見えたから言ってくれる人がいなかったら、俺は一生自分の才能に気づけなかった」


 ……。


 喉の奥に、あの名前のないものが引っかかった。今回は——温かい方だ。


「教官として——最初の生徒には、壁の見つけ方から教えます。壁はぶつかるものじゃなくて、見えるものだって」


「いい先生になりそうですね」


「……カイさんのせいです」


「俺のせいにしないでください。面倒くさい」


 トランが笑った。初めて見る、まともな笑顔だった。路地裏で虚ろな目をしていた男とは別人だ。背筋が伸びている。目に光がある。手が震えていない。


「第一期の生徒が来月から来ます。15歳の新人冒険者が5人。全員、壁にぶつかる前の——まだ柔らかい子たちです」


「壁が見える教官にはちょうどいい」


「……はい。壁がどこにあるか、先に教えてあげられます。ぶつかる前に」


 トランの目が光っている。教官として立つ自分を——もう想像できている。


「あと、一つだけ。カイさんに報告したいことがあるんですが」


「何ですか」


 トランが声を落とした。周囲を見る。食堂の喧噪が遠いが、念のためだろう。教官になって、慎重さも身につけたらしい。


「教官の研修で、ギルドの古い育成マニュアルを読んだんです」


 食堂の喧噪が一瞬遠のいた。ノアの耳がぴくりと跳ねた。


「その中に——『結晶の飽和サインが出た生徒には、ジョブ変更の選択肢を提示すること』って書いてあったんです」


「……飽和サイン」


「今のマニュアルには載ってません。古いやつにだけ。200年以上前の版に」


 また200年前。遺跡の壁の文字。ヴェルが見つけた古い文書。そしてトランが見つけた古いマニュアル。あちこちに痕跡が残っている。消したはずの歴史の欠片が。


 リラがまた鼻をすすった。ノアがリラの足元で尻尾を振っている。こいつら、息が合いすぎだ。……前にも同じことを思った気がする。


「……トランさん。そのマニュアル、まだありますか」


「ギルドの書庫にあります。誰でも閲覧できます。管理局の管轄じゃないから」


 管理局が消せなかった記録。ギルド側に残っていた。


「……ヴェルさんに伝えます」


「お願いします。——あの、管理局のことは詳しくわからないんですが……何か大きなことが動いてるんですよね」


「……ああ。動いてます」


「俺に手伝えることがあれば言ってください。教官として。若手育成の立場から」


 トランが一瞬だけ、路地裏で座り込んでいた男の顔に戻った。弱さを知っている顔。壁の前で震えていた記憶を持つ顔。


 でもすぐに教官の顔に戻った。弱さを知っているからこそ、強い。


「ありがとうございます」


「……カイさんに借りがありますから。いつか返します」


「借りなんて——」


「あります。干し果物一つ分の」


 トランが笑って、去っていった。足取りが軽い。背中が人混みに消えるまで、革靴が石畳を叩く軽快な音が聞こえていた。


 ◇


 トランが去った後、リラと二人でギルドの食堂に座った。ノアが俺の膝で丸くなっている。


 ノアが膝の上で伸びをした。前足で俺の手を叩いた。小さな肉球の感触が手の甲に残る。腹が減っているらしい。


「……はいはい。干し果物ですね」


 ノアの尻尾が揺れた。こいつの要求だけは、いつも明快だ。


 明日、管理局への3回目の納品だ。ヴェルを連れて行く段取りを組む。


 真実の扉は——もうすぐそこにある。


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