第18話「壁が見える男」
商人Lv3。取引スキルが開放されて、仕入れ値の適正判断が結晶を通して見えるようになった。便利だが——やはり、17職分の手触りの方が先に答えを出す。
メイナス商店への納品を終えて、ギルドに戻る途中だった。
路地裏に、男が座り込んでいた。
路地には排水と湿った石壁の匂いが澱んでいる。遠くからギルド食堂の喧噪が届いているが、ここには陽が差さない。
壁にもたれて、膝を抱えている。目が虚ろだ。手の甲に——色がない。透明な結晶。ジョブについていない状態。
でも、結晶自体は嵌まっている。つまり、冒険者登録はしている。ジョブを外しただけだ。
年齢は30前後。俺より少し若い。痩せていて、目の下に隈がある。手の甲にマメの跡が複数の場所にある。剣士のマメ、弓兵のマメ、鍛冶師のマメ——重なっている。複数のジョブを経験した手だ。
……あー。
この手は知っている。マメの跡が重なる手。始めて、進んで、やめた手。何度も何度も、新しいマメを作っては——深くなる前に止めた手。
俺の手にもマメがある。でも俺のマメは深い。Lv7まで走ったから。この男のマメは浅い。壁の手前で止まったから。
見覚えのある種類の人間だ。でも——俺とは違う種類。
「……すみません。ここ、通りますんで」
声をかけると、男がゆっくり顔を上げた。焦点が合うまで数秒かかった。
「あ……すみません。邪魔でした……」
立ち上がろうとして——膝が震えた。力が入らないのか。
「……大丈夫ですか」
「大丈夫です。ちょっと——座ってただけで」
嘘だ。顔色が悪い。最後にまともな飯を食ったのは、多分昨日じゃない。
……面倒くさい。
懐から干し果物を出した。ノアの分の予備だが、ノアは今日リラと一緒だ。
「食べてください」
「え——いや、そんな」
「遠慮してる場合じゃないでしょう。顔色見ればわかります」
男が干し果物を受け取った。手が震えている。爪の間に泥が入っていた。雑用で土を運んでいたのだろう。一口噛んで——果物の甘い匂いが路地裏の湿った空気に広がった。急に目が潤んだ。飲み込むのに時間がかかっていた。
「……ありがとう、ございます」
「ギルドの雑用係をやってるなら、食堂で賄いが出るはずですけど」
男がびくりと肩を竦めた。
「……なんで、わかるんですか」
「手を見ればわかります。複数のジョブのマメが重なってる。でも、どれも深くない。Lv4か5で止めてる。それが——何個も」
「……8個」
路地裏を風が抜けた。壁に積もった埃が舞い上がって、鼻の奥をくすぐった。
「8個。それで、今は無職。ギルドの雑用係」
男が黙った。唇が震えている。
「……逃げてるわけじゃないんです」
聞こえるか聞こえないかの声だった。路地裏の壁に凭れた背中から、冷えた石の感触が伝わっているはずだ。
「合わなかっただけです。剣士は体に合わなくて。弓兵は手首が痛くなって。鍛冶師は火が怖くて。薬師は匂いで頭が痛くなって。……8回合わなかっただけです」
一つ一つ、辞めた理由を数えている。丁寧に。自分に言い聞かせるように。
「……それだけです」
最後の「それだけです」が、かすれて消えた。
——本当にそうか?
見ればわかる。この男の手のマメは、どれも「始めた」跡だ。初期のマメ。Lv4-5まで進んだなら、もっと深いマメがつくはずだ。でも浅い。始めて、少し進んで、壁の気配を感じた瞬間に——手が止まる。マメが深くなる前に止まる。
……ああ。
この男——壁が見える。壁が見えて、ぶつかる前に逃げてきた。8回。Lv4か5で壁の気配を感じて、「合わない」と判断して辞める。壁にぶつかることすらしていない。
俺とは違う。俺はLv7まで走って、結晶が勝手に壊れる。この男は——壁の手前で、自分から降りる。
でも——壁が見えること自体は、才能だ。
「……名前は」
「……トラン。トラン・リグです」
「カイです。商人をやってます。……今は」
「今は?」
「前は鑑定士でした。その前は剣士。その前は——まあ、色々と」
路地裏の奥でネズミが走る音がした。小石がかちりと鳴って、また静かになった。
トランが俺を見た。初めて、焦点が合った目で。
「……何個ですか」
「17個」
「……じゅう——」
トランの目が見開かれた。
「17個。俺も——ジョブが変わる体質で。Lv7で結晶の色が消えるんです。だから17回、変わった」
「……でも——Lv7って。上級の入口ですよね。壁を——越えてるんじゃ——」
「越えてません。壁に触れたら結晶が壊れるんです。だから——越えたことは一度もない」
沈黙。
トランの手が、握った干し果物の上で止まっている。
「……俺は。Lv4か5で——壁が見えるんです。見えると——怖くなる。ぶつかったら砕けるかもしれないって。だから——」
「辞める」
「……はい」
「8回」
「……はい。9個目に——就こうとしたんです。今朝。管理局の窓口まで行って——手が、震えて。書類が書けなくて——」
トランの手が震えていた。干し果物を握ったまま。
「また合わなかったら。また逃げるんじゃないか。もう31だ。いつまで——」
声が途切れた。
……見えた。
でも——壁が見えること自体は才能だ。
「トランさん」
「……はい」
「あんた、壁が見えるんだ」
「……はい。だから逃げてるんです」
「壁にぶつかってから壁に気づく人間と、ぶつかる前に壁が見える人間がいる。あんたは後者だ。8回も壁の位置を正確に見つけてる」
「見つけて——逃げてるだけです」
「壁が見える奴が横にいたら——壁で詰まる奴は減るだろうな」
トランの目が揺れた。
「……何、ですか。それ」
「別に。見えたから言っただけです」
トランの口が開いたまま止まっている。何かを掴みかけて、まだ手が届いていない顔だ。
「9個目のジョブ——何を選ぼうとしてたんですか」
「……教官、です。若手冒険者の指導係。ジョブっていうより、ギルドの職員枠ですけど」
「教官」
「壁にぶつかる前に——何が来るか、少しはわかるから。若い子に教えてあげられるかなって——でも、8個も逃げた人間に教わりたい奴なんていないですよね」
「逃げた人間だから、壁の手前で何が起きるか知ってる。それは——ぶつかった人間には見えない景色ですよ」
トランが黙った。干し果物を握ったまま。
いつもの答え。
干し果物をもう一つ渡して、路地を出た。陽射しが眩しい。路地裏の冷たい空気から、市場の活気のある暖かさに切り替わる。トランの手が——受け取る時だけ、震えが止まっていた。食べ物を受け取る手は正直だ。体が「まだ生きたい」と言っている。
振り返らなかった。
でも——多分、また会う。この街のギルドで雑用をしているなら、嫌でも顔を合わせる。
ノアがいないから肩が軽い。でも——何か、別のものが肩に乗った気がした。面倒くさい、重さ。
悪くない重さだ。




