表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/22

第18話「壁が見える男」

 商人Lv3。取引スキルが開放されて、仕入れ値の適正判断が結晶を通して見えるようになった。便利だが——やはり、17職分の手触りの方が先に答えを出す。


 メイナス商店への納品を終えて、ギルドに戻る途中だった。


 路地裏に、男が座り込んでいた。


 路地には排水と湿った石壁の匂いが澱んでいる。遠くからギルド食堂の喧噪が届いているが、ここには陽が差さない。


 壁にもたれて、膝を抱えている。目が虚ろだ。手の甲に——色がない。透明な結晶。ジョブについていない状態。


 でも、結晶自体は嵌まっている。つまり、冒険者登録はしている。ジョブを外しただけだ。


 年齢は30前後。俺より少し若い。痩せていて、目の下に隈がある。手の甲にマメの跡が複数の場所にある。剣士のマメ、弓兵のマメ、鍛冶師のマメ——重なっている。複数のジョブを経験した手だ。


 ……あー。


 この手は知っている。マメの跡が重なる手。始めて、進んで、やめた手。何度も何度も、新しいマメを作っては——深くなる前に止めた手。


 俺の手にもマメがある。でも俺のマメは深い。Lv7まで走ったから。この男のマメは浅い。壁の手前で止まったから。


 見覚えのある種類の人間だ。でも——俺とは違う種類。


「……すみません。ここ、通りますんで」


 声をかけると、男がゆっくり顔を上げた。焦点が合うまで数秒かかった。


「あ……すみません。邪魔でした……」


 立ち上がろうとして——膝が震えた。力が入らないのか。


「……大丈夫ですか」


「大丈夫です。ちょっと——座ってただけで」


 嘘だ。顔色が悪い。最後にまともな飯を食ったのは、多分昨日じゃない。


 ……面倒くさい。


 懐から干し果物を出した。ノアの分の予備だが、ノアは今日リラと一緒だ。


「食べてください」


「え——いや、そんな」


「遠慮してる場合じゃないでしょう。顔色見ればわかります」


 男が干し果物を受け取った。手が震えている。爪の間に泥が入っていた。雑用で土を運んでいたのだろう。一口噛んで——果物の甘い匂いが路地裏の湿った空気に広がった。急に目が潤んだ。飲み込むのに時間がかかっていた。


「……ありがとう、ございます」


「ギルドの雑用係をやってるなら、食堂で賄いが出るはずですけど」


 男がびくりと肩を竦めた。


「……なんで、わかるんですか」


「手を見ればわかります。複数のジョブのマメが重なってる。でも、どれも深くない。Lv4か5で止めてる。それが——何個も」


「……8個」


 路地裏を風が抜けた。壁に積もった埃が舞い上がって、鼻の奥をくすぐった。


「8個。それで、今は無職。ギルドの雑用係」


 男が黙った。唇が震えている。


「……逃げてるわけじゃないんです」


 聞こえるか聞こえないかの声だった。路地裏の壁に凭れた背中から、冷えた石の感触が伝わっているはずだ。


「合わなかっただけです。剣士は体に合わなくて。弓兵は手首が痛くなって。鍛冶師は火が怖くて。薬師は匂いで頭が痛くなって。……8回合わなかっただけです」


 一つ一つ、辞めた理由を数えている。丁寧に。自分に言い聞かせるように。


「……それだけです」


 最後の「それだけです」が、かすれて消えた。


 ——本当にそうか?


 見ればわかる。この男の手のマメは、どれも「始めた」跡だ。初期のマメ。Lv4-5まで進んだなら、もっと深いマメがつくはずだ。でも浅い。始めて、少し進んで、壁の気配を感じた瞬間に——手が止まる。マメが深くなる前に止まる。


 ……ああ。


 この男——壁が見える。壁が見えて、ぶつかる前に逃げてきた。8回。Lv4か5で壁の気配を感じて、「合わない」と判断して辞める。壁にぶつかることすらしていない。


 俺とは違う。俺はLv7まで走って、結晶が勝手に壊れる。この男は——壁の手前で、自分から降りる。


 でも——壁が見えること自体は、才能だ。


「……名前は」


「……トラン。トラン・リグです」


「カイです。商人をやってます。……今は」


「今は?」


「前は鑑定士でした。その前は剣士。その前は——まあ、色々と」


 路地裏の奥でネズミが走る音がした。小石がかちりと鳴って、また静かになった。


 トランが俺を見た。初めて、焦点が合った目で。


「……何個ですか」


「17個」


「……じゅう——」


 トランの目が見開かれた。


「17個。俺も——ジョブが変わる体質で。Lv7で結晶の色が消えるんです。だから17回、変わった」


「……でも——Lv7って。上級の入口ですよね。壁を——越えてるんじゃ——」


「越えてません。壁に触れたら結晶が壊れるんです。だから——越えたことは一度もない」


 沈黙。


 トランの手が、握った干し果物の上で止まっている。


「……俺は。Lv4か5で——壁が見えるんです。見えると——怖くなる。ぶつかったら砕けるかもしれないって。だから——」


「辞める」


「……はい」


「8回」


「……はい。9個目に——就こうとしたんです。今朝。管理局の窓口まで行って——手が、震えて。書類が書けなくて——」


 トランの手が震えていた。干し果物を握ったまま。


「また合わなかったら。また逃げるんじゃないか。もう31だ。いつまで——」


 声が途切れた。


 ……見えた。


 でも——壁が見えること自体は才能だ。


「トランさん」


「……はい」


「あんた、壁が見えるんだ」


「……はい。だから逃げてるんです」


「壁にぶつかってから壁に気づく人間と、ぶつかる前に壁が見える人間がいる。あんたは後者だ。8回も壁の位置を正確に見つけてる」


「見つけて——逃げてるだけです」


「壁が見える奴が横にいたら——壁で詰まる奴は減るだろうな」


 トランの目が揺れた。


「……何、ですか。それ」


「別に。見えたから言っただけです」


 トランの口が開いたまま止まっている。何かを掴みかけて、まだ手が届いていない顔だ。


「9個目のジョブ——何を選ぼうとしてたんですか」


「……教官、です。若手冒険者の指導係。ジョブっていうより、ギルドの職員枠ですけど」


「教官」


「壁にぶつかる前に——何が来るか、少しはわかるから。若い子に教えてあげられるかなって——でも、8個も逃げた人間に教わりたい奴なんていないですよね」


「逃げた人間だから、壁の手前で何が起きるか知ってる。それは——ぶつかった人間には見えない景色ですよ」


 トランが黙った。干し果物を握ったまま。


 いつもの答え。


 干し果物をもう一つ渡して、路地を出た。陽射しが眩しい。路地裏の冷たい空気から、市場の活気のある暖かさに切り替わる。トランの手が——受け取る時だけ、震えが止まっていた。食べ物を受け取る手は正直だ。体が「まだ生きたい」と言っている。


 振り返らなかった。


 でも——多分、また会う。この街のギルドで雑用をしているなら、嫌でも顔を合わせる。


 ノアがいないから肩が軽い。でも——何か、別のものが肩に乗った気がした。面倒くさい、重さ。


 悪くない重さだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ