第15話「透明」
管理局の検査窓口。朝一番。
いつもの半個室のブース。いつもの器具。ヴェルが向かいに座っている。帳簿を開いて、ペンを構えている。
違うのは、リラがドアの外で待っていること。
「入ってもいいですか」とリラは聞いた。俺は「好きにしてください」と答えた。でもリラは首を振って、「外で待ちます。カイさんのプライベートだから」と言った。
プライベート。結晶の色が消えるのが、プライベートか。考えたことがなかった。毎回、技師と二人きりの事務処理だった。初めて、誰かに待たれている。
「カイさん。結晶を」
手の甲を差し出した。指先が冷えている。ブースの空気は消毒液と古い木の匂いがする。紫色は今、明滅が止まっている。止まる直前が最後の段階だ。明滅が止まって、そのまま消える。嵐の前の静けさに似ている。
ヴェルが拡大鏡をかざした。
「色相、不安定。定着率、急速に低下中。明滅は停止していますが、結晶の内部構造が変化し始めています」
器具が微かな音を立てている。ヴェルのペンが帳簿を走る。数値。データ。客観的な記録。
「カイさん。始まります」
「……ああ」
手の甲が光った。
紫色がゆっくりと薄くなっていく。中心から、均一に。端まで、同時に。ヴェルが言っていた通りだ。まるで、色が「元の状態に還っていく」ように。
壊れる音はしない。痛みもない。ただ、冷たい。手の甲から温度が消えていく。結晶の増幅が剥がれ落ちて、鑑定士としての感覚が遠ざかっていく。
スキルが消えた。素材鑑定も、品質鑑定も。テーブルの上に置かれた器具の金属光沢が、さっきまでは「測定用レンズ研磨材・純度87%」と見えていた。今はただの金属だ。情報が消えた。2ヶ月で積み上げたものが、静かに溶けていく。
紫色が——白くなった。さらに薄くなり。
透明。
手の甲には透明な結晶だけが残っている。色のない、何のジョブにも染まっていない石。18回目の透明。
指先から力が抜けた。鑑定士Lv7だった腕が、ただの腕に戻る。スキルの感覚が消えた。素材を見ても何も浮かばない。品質を見る目が閉じた。2ヶ月で覚えたことが、溶けるように消えた。
残っているのは、33年間鍛えてきた素の体だけ。数字はない。結晶が透明の間は、ステータス画面も白紙だ。
何者でもない自分。街を歩けば、すれ違う全員の手に色がある。俺の手だけが、いつもここに戻る。
喉の奥に、あれが引っかかった。悲しいとか悔しいとかじゃない。もっと小さくて、名前のない——
「……カイさん」
ヴェルの声がかすれていた。帳簿を握る手が震えている。
「この色の消え方——」
ペンが帳簿に走る。速い。乱れている。
「綺麗すぎる。損傷がない。結晶の格子構造が完全に保持されたまま、色だけが消えている。これは——」
ヴェルが顔を上げた。眼鏡の奥の目が、濡れていた。感動ではない。衝撃だ。
「定着不全じゃない」
ヴェルの声が変わった。最初に会った日、検査ブースで言いかけて止めた言葉の続きが、ようやく出た。
「おかしいのは、あなたではなく——制度の方です。これは結晶の『卒業』です」
「……卒業?」
「結晶がジョブを十分に学んだという判断を下して、色を返している。壊れたのではなく、正しく終わったんです」
静かなブースの中で、時計の針だけが動いている。
「……ヴェルさん。それ、確かですか」
「データ上は、はい。ただ、この解釈を裏付ける文献は管理局の公式記録にはありません。公式記録では、Lv7で色が消えるのは『定着不全による損傷』としか分類されていない」
「公式記録にない」
「ないんです。でも、私は前職で鑑査士をしていました。管理局の評価認定部で、結晶の品質基準を審査する仕事です。その時、古い技術文書の中に、一度だけ似たような記述を見たことがある」
ヴェルが声を落とした。
「『結晶は、本来——到達のサインとして色を返す』。200年以上前の文書です。それ以降の公式記録からは消えている」
200年前。
遺跡の壁に刻まれていた文字を思い出した。「結晶は……本来……還り……」。あの断片と、ヴェルの見つけた古い文書が繋がった。
「ヴェルさん」
「はい」
「あんたが本当に調べたいのは、俺の結晶じゃない。管理局が何を隠してるか、でしょう」
ヴェルの手が止まった。帳簿を握ったまま、しばらく動かなかった。
「……はい」
初めて、ヴェルが取り繕わなかった。
「前の部署で同じような違和感を報告した時、左遷されました。評価認定部から登録管理部に。表向きは異動ですが、実質口封じです」
「……」
「今回は——黙るべきなのかもしれない。でも」
ヴェルが眼鏡を押し上げた。手が震えている。
「あなたの結晶は——正しく動いている。17回、正しく動いてきた。なのに18回目も『定着不全』と書類に書くことは——」
ヴェルが帳簿を閉じた。指の震えが止まった。覚悟を決めた人間の手だ。
「私には、できません。前回は——鑑査士の時に正しいことを報告して、黙って左遷を受け入れた。でも今回は——データがある。証拠がある。黙れません」
ブースの外で、足音が聞こえた。ドアが開いた。
「……あの」
リラが立っていた。目が赤い。泣いた跡がある。
「……聞こえちゃいました。壁が薄くて——」
俺の手の甲を見ている。透明な結晶。色のない手。ブースの消毒液の匂いが急に鋭く感じた。壁のシミが目に入った。天井の木目が見えた。さっきまで鑑定スキルに集中していた知覚が——スキルを失ったことで、むしろ素の五感に戻っている。
「……カイさん」
リラの声が震えていた。
「ジョブが変わっても、カイさんはカイさんだって——私、言いましたよね」
「……ああ」
「じゃあ——今のカイさんも、カイさんです。色がなくても」
透明な結晶に、リラの目が映っている。赤い目。泣いた後の目。でも——逸らさない。この女はいつもそうだ。泣いた後でも、逸らさない。路地裏で初めて会った時からそうだった。
泣けるのに逸らさない。それがリラの強さだ。
ノアが膝に飛び乗った。手の甲に鼻先を押し当てた。透明な結晶の上に、黒い鼻。
尻尾が揺れた。ゆっくりと。
何かを確かめたような——いつもの仕草。色がある時も、ない時も、ノアの反応は同じだ。
……そうか。
ノアにとっては、色の有無は関係ないのか。
「……次のジョブ、決めないといけませんね」
「はい。でも——今日じゃなくていい。少し休みましょう」
リラが手を差し出した。
俺は——その手を取った。
透明な結晶の手で、色のある手を握った。
冷たかった手の甲に——少しだけ、温度が戻った気がした。
18回目の透明。
ここまでは——17回目と同じだ。色が消えた。力が抜けた。喉の奥に名前のないものが引っかかった。
でもここからが違う。
リラの手を握っている。ヴェルが隣でデータを取っている。ノアが手の甲に鼻先を寄せている。
透明な結晶に、三人の姿が映っていた。色はない。でも映っている。




