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第14話「最後の紫」

 明滅が始まって二日目。朝、目が覚めた瞬間に手の甲を見た。紫色がまだある。まだ、ある。頻度が上がった。


 1時間に1回。結晶の紫色がふっと薄くなり、手の甲が冷たくなる。骨の芯まで冷えが走って、指先の感覚が一瞬鈍る。スキルの精度が一瞬落ちて、また戻る。波のように寄せては引く。


 体は覚えている。あと1日か2日だ。


 ◇


 ヴェルが一日中張り付いている。


 明滅のたびにデータを取る。色相変動、復帰時間、明滅間隔。すべて帳簿に記録して、過去17回のデータと比較している。


「18回目の明滅パターンは、過去の平均と比較して、サイクルが12%速い。結晶の色の消え方も、17回目より均一度が上がっています」


「均一度?」


「色が消える時のムラが少なくなっている。中心から端まで、同時に薄くなる。17回目は微かにムラがあったんですが、今回はほぼ完全に均一です」


 ヴェルが帳簿を見つめている。何かを確信しつつある目だ。


「カイさん。前にお話しした『設計通りの動作に見える』という仮説ですが」


「ああ」


「データが増えるほど、その仮説が強化されていきます。あなたの結晶は——壊れているのではなく、正しく動いている」


「正しく動いてるなら、なぜ管理局は『定着不全』と呼ぶんですか」


 ヴェルの手が止まった。


「……それが、わからないんです。前任の技師の記録を遡っても、あなたの結晶を詳しく調べた形跡がない。『定着不全・標準処理』と書かれて、それ以上の分析が行われていない。17回も同じ症例が出ているのに」


「面倒だったんでしょう。俺の対応は毎回同じですから」


「いいえ。管理局のマニュアルでは、同一症例が3回以上繰り返す場合、詳細な調査報告を上げることが義務付けられています。なのに17回、一度も。前任技師は毎回同じフォーマットで『定着不全・標準処理・経過観察不要』と書いて終わりにしていた」


 ヴェルの声が固い。


「カイさんのケースは、管理局にとって最も研究価値の高い症例のはずです。なのに17回分のデータが全て最低限の記録で処理されている。これは怠慢ではなく——」


 沈黙。周囲を見る癖。管理局の技師としての自制が、言葉を止める。


 ヴェルの声がさらに低くなった。


「報告が上がっていないのではなく、上げられていないんだと思います。調査するなという空気が、管理局の中にある」


「……それは、ヴェルさんの推測ですか」


「推測です。でも、データに基づいた推測です」


 リラが二人の会話を黙って聞いていた。目が鋭い。


「ヴェルさん。それって——管理局の中に、カイさんの結晶の真実を隠してる人がいるってことですか」


 ヴェルが答えなかった。答えないことが答えだ。


 ◇


 午後。明滅の頻度がさらに上がった。30分に1回。


 スキルの使用が不安定になってきた。素材鑑定を使おうとすると、結晶が明滅してスキルが途切れる。使い物にならなくなりつつある。


 鑑定士として最後の日だ。明日には色が消える。


 遺跡の外壁で素材鑑定を試みたが、スキルが途切れ途切れになった。情報が浮かんでは消え、浮かんでは消える。水面に映った文字を読もうとしているような感覚。


 昨日まで見えていた鉱脈の色が——今日はただの灰色の筋にしか見えない。スキルが途切れた瞬間、世界が一段階ぼやける。慣れたはずなのに。17回目まで慣れていたはずなのに、今回は消えていくものの一つ一つに、顔がある。この鉱脈を見つけた日の記憶。リラが「当たった!」と声を上げた日の空気。ヴェルが帳簿にペンを走らせていた音。


 消えるのはスキルだけじゃない。このスキルで見てきた景色が、薄れていく。


 手触りで代替した。指の腹が石の表面の微細な凹凸を読む。鍛冶師の手が、鑑定士のスキルが途切れた隙間を埋める。17職分の体感が、結晶の不安定さを補っている。


 でも、それにも限界がある。


「カイさん。今日はもう依頼をやめましょう」


 リラが言った。声が硬い。心配しているのを隠そうとして、隠せていない。


「まだ大丈夫です」


「大丈夫じゃないです。さっきから手が震えてます。それに——目が、遠い」


「……見えてるんですか、それ」


「魔物使いの感知は人にも使えます。カイさんの体から、結晶の温度が下がっていくのが、わかるんです」


 ノアがリラの影の中から、俺の手の甲を見つめていた。


 ……震えてたか。目が遠い、か。気づかなかった。結晶が不安定になると、集中力が散るのだ。視界の焦点が合いにくくなる。鑑定士の「目」が失われていく前兆。


 三人で森を出て、街に戻った。森の腐葉土の湿った匂いが、街の乾いた石と煙の匂いに切り替わる。夕方の光が街の石畳を照らしている。通りを歩く冒険者たちの手の甲に、それぞれの色が光っている。赤、青、緑、橙。どれも安定した、深い色。


 俺の手の甲だけが、明滅している。紫がちらちらと揺れて、消えかけて、また灯る。蝋燭の最後の炎みたいに。明滅のたびに手の甲がひやりとして、また温もりが戻る。その繰り返しに、体が疲れ始めていた。


「カイさん」


「何ですか」


「明日、管理局に行くんですよね」


「ああ。色が消えたら、メンテナンスに行かないといけない。次のジョブを決めて、結晶に新しい色を入れてもらう。いつもの手続きです」


「次のジョブは決まってるんですか」


「……まだです」


 今まで、次のジョブはすぐに決めていた。掲示板を見て、面白そうなものを選ぶ。それだけだった。


 でも今回は迷っている。


 リラがいる。ヴェルがいる。ノアがいる。一緒にいる人間がいる状態で、ジョブが変わるのは初めてだ。


 鑑定士でなくなったら——この三人との関係は、どうなる?


 依頼を一緒に受けてきた。掛け合いが生まれた。チームの形ができかけている。それがジョブ一つ変わるだけで、全部崩れるかもしれない。


 ……考えたことがなかった。今まで、ジョブが変わっても失うものがなかったから。


「……カイさん。一つだけ言っていいですか」


「どうぞ」


「ジョブが何になっても——私は、ここにいます」


 リラの声が硬い。剣を握るのではなく、言葉を握っている。


 リラが俺の手の甲を見ていた。明滅する紫色を。消えかけている色を。


「ジョブが変わっても、カイさんはカイさんです。見える目は、結晶の色とは関係ない。……私が、その証拠です」


 ノアが肩の上で「クゥ」と鳴いた。


 ヴェルが眼鏡を押し上げて、小さく咳払いした。


「私も——研究は継続します。むしろ、結晶が色を失う瞬間のデータが欲しい。明日、同行させてください」


「……報告書に書く必要があるからですか」


「いいえ。——知りたいからです」


 ヴェルの白衣の裾が夕風に揺れた。初めて、ヴェルが「報告書」を盾にしなかった。


 手の甲の紫が、また一瞬消えた。すぐに戻った。でも次に消えた時は、戻らないかもしれない。


 明日。18回目の透明が来る。


 でも今回は——一人じゃない。


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