第13話「明滅」
ノアが、先に気づいていた。
肩の上でいつも通り丸くなっていたノアが、不意に体を起こした。耳がぴんと立って、俺の手の甲をじっと見つめていた。まだ何も起きていないのに。
3秒後。手の甲の紫色が、ふっと薄くなった。
依頼の帰り道だった。遺跡外周部の素材調査を終えて、街に戻る森の中。夕方の光が木漏れ日になって、足元に影を落としている。
その影の中で——結晶が明滅した。
紫色がかすかに揺れて、一瞬だけ薄くなる。またすぐに戻った。
……始まった。
Lv7に届いたか。体感でわかる。鑑定スキルが昨日から少し鈍い。素材を見た時の情報の浮かび上がり方が、わずかに遅くなっている。同じ動作、同じ角度。なのに精度が落ちている。
18回目。
この感覚は17回目だからわかる。結晶が「もう十分だ」と言っている。
「カイさん? どうかしましたか」
リラが振り返った。足を止めた俺を見ている。夕方の森は色が変わり始めていた。木漏れ日がオレンジ色に変わって、足元の影が長くなっている。
「……いえ。何でも——」
「嘘。手の甲、見てますよね。何かあったんですか」
食い気味。隠し事ができない相手だ。
「……結晶が明滅しました。一瞬だけ」
リラの表情が変わった。
「明滅って——まさか」
「Lv7到達のサインです。ここから3日から1週間で……色が消えます」
リラが黙った。唇を噛んでいる。初めて会った日の路地裏で見た仕草と同じだ。でも、泣いているのではない。考えている。
「……鑑定士のLv7。2ヶ月も経ってないですよね。普通は12年かかるって——」
「普通の人はね。俺は最近速くなってる。14職目以降は半年で到達するようになりました。今回は——もっと速かった。鍛冶師の知識、盗賊の経験、全部が鑑定に流れ込んでる。立ち上がりが毎回速くなるんです」
「それって、すごいことじゃないですか」
「すごくないです。Lv7に届いた瞬間に全部消えるんだから。どれだけ速く走っても、ゴールの手前で振り出しに戻される。それが18回目」
リラが俺の手の甲を見つめている。夕風が頬を撫でて、森の湿った土と木の樹液の匂いを運んできた。紫色は今は安定している。さっきの明滅は一瞬だった。でも、これから頻度が上がる。1日に数回になり、1時間に1回になり、そして最後に色が消える。
「ヴェルさんに連絡した方がいいですよね」
「ああ。あいつは俺の結晶が変化するところを見たがってた。ちょうどいい」
ちょうどよくはない。でも、仕方がない。
◇
翌日。ヴェルが飛んできた。
文字通り、飛んできた。管理局の受付に連絡を入れた30分後には、フィールドジャケットを着て帳簿と測定器具を担いで、ギルドの前に立っていた。息が上がっている。走ってきたのだろう。
「明滅の頻度は。いつからですか。間隔は」
「昨日の夕方。今のところ1日に2回。間隔は不定です」
「結晶を見せてください」
手の甲を差し出した。ヴェルが拡大鏡で覗き込む。帳簿に数値を書き取る。ページをめくり、過去のデータと比較している。
ヴェルの器具が手の甲の上でかちりと音を立てた。金属のフレームが結晶に触れる冷たさが、骨の奥まで響く。ヴェルの息が結晶にかかるくらい近い距離で、インクと古い紙の匂いがした。数値を読み取っている。
「……Lv7到達を確認。色相の変動幅、0.3ポイント。まだ初期段階です」
「あと何日ですか」
「過去17回のデータによれば、平均4.2日。ただし、直近の数回は3日以内に短縮傾向にあります」
「3日か」
「カイさん。フィールドで明滅が起きた瞬間の結晶データを取りたいんです。今日から——結晶が色を失うまで、同行させてください」
「……構いませんけど。依頼中に結晶がおかしくなっても、俺は責任取れませんよ」
「おかしくなるのではなく——」
ヴェルが言い切ろうとして、やめた。周囲を見た。ギルドの前には他の冒険者もいる。
「……後で話します」
管理局の中で言えないこと。ギルドの前でも言えないこと。
◇
その日の依頼中——遺跡外周部で2回、結晶が明滅した。
1回目は素材鑑定中。鉱脈にスキルを通そうとした瞬間、結晶がふっと薄くなった。スキルの精度が一瞬落ちて、情報が途切れた。
ヴェルが素早くデータを取った。帳簿に書き込む手が、今日は乱れていない。冷静だ。研究者の目になっている。
「色相変動0.5ポイント。復帰まで2.3秒。……前回の17職目では、同段階での復帰時間は3.1秒でした。短くなっている」
「速くなってるってことですか」
「結晶の反応が速いということです。明滅のサイクルが効率化している」
「効率化?」
ヴェルが帳簿を見ている。何かを確信しかけている目だ。
「カイさん。17回繰り返すうちに——あなたの結晶は、色を失うプロセスが上手くなっている。まるで——」
「まるで?」
「まるで、これが正しい動作で——回を重ねるごとに、精度が上がっているように」
2回目の明滅は、帰り道。リラと歩いている時に来た。
ふっと紫が薄くなる。手の甲が冷たくなる。指先のスキルの感覚が遠のく。世界の輪郭が少しだけぼやける。すぐに戻った。
鑑定士として2ヶ月で積み上げたものが、薄い紙のように揺れている。あと何日かで、この紙が破れる。また透明に戻る。
リラが俺の手を見ていた。結晶が明滅する瞬間を、初めて見たのだろう。目が大きくなっている。
「……怖くないですか」
「慣れました。17回目ですから」
「慣れ、ですか。慣れていいことなんですか、これ」
答えに詰まった。
「……毎回、喉の奥に何か引っかかるものはあります。悲しいとか悔しいとかじゃなくて。もっと小さくて、名前のないもの」
「名前のないもの……」
「多分、一生名前がつかないです。17回つかなかったから」
帰り道の森が暗くなり始めていた。木立の間から夕陽の最後の光が漏れている。土の湿った匂いと、枯れ葉を踏む音。足元の影が長い。ノアの影が、俺の影と重なって一つになっている。
リラが何か言おうとして、やめた。枯れ葉が足元で砕ける音だけが残った。代わりにノアが俺の手の甲に鼻先を寄せた。いつもの仕草だ。結晶に触れると、尻尾がゆっくり揺れる。
「カイさん。一つ聞いてもいいですか」
ヴェルが後ろから声をかけた。
「何ですか」
「管理局の局長、オルドという人物をご存知ですか」
「名前だけは。誰にも会わない人らしい、って噂は聞きますけど。管理局に20年通ってるけど、一度も見たことがない。理事会の筆頭だって話ですが——なぜ聞くんですか」
「……いえ。管理局内の資料で、局長の名前が何度か出てきたので。気になっただけです」
嘘だ。気になっただけなら、フィールドで聞く必要はない。管理局の中では聞けないから、ここで聞いている。
ヴェルは帳簿に何かを書いた。結晶のデータではない、別のメモだ。
帰り道、三人は黙って歩いた。ノアだけが、時々俺の手の甲に鼻先を寄せていた。
結晶が、また一度だけ明滅した。今日3回目。
3日。あと3日で——この紫色が消える。
鑑定士としての2ヶ月が終わる。
18回目の透明が、近づいている。




