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第12話「一つの道」

 シンが依頼に出発するところを、偶然見かけた。


 ギルドの正面入口。A級の依頼書を手に、四人のパーティを率いている。全員がB級以上。結晶の色が深い。赤、青、水色、橙。剣士、魔法使い、僧侶、鍛冶師。バランスの取れた編成だ。


 シンが先頭を歩いている。背中が広い。20年積み上げた剣士の体だ。


 周囲の冒険者が道を開ける。Lv9の存在感。この街に長く住んでいる冒険者なら誰でも知っている。「ギルドのエース」。次のLv10候補。


 シンが歩きながら、一瞬だけこちらを見た。目が合った。


 昨日の会話の続きを求めている目ではなかった。確認だ。俺がまだここにいるか——まだC級の掲示板の前に立っているか。そういう目だ。


 何も言わなかった。そのまま、パーティを率いて正面入口を出ていった。深い赤の結晶が、最後に午後の日差しを受けて一瞬光った。


「……カイさん。昨日のあの人、まだ気になりますか」


 リラが隣で聞いた。ノアが俺の肩で丸くなっている。シンが去った後に戻ってきた。まだ少し体が硬い。尻尾が俺の襟元に巻きついて、ほどけない。


「気にしてません」


「嘘ですよ。さっきから三回、あの人の方を見てました」


「……数えてたんですか」


「食い気味に。……あと、肩がちょっと力入ってました」


「……魔物使いの感知で俺を観察するのやめてもらえますか」


「習慣です。カイさんが一番読みやすいので」


「読まれたくないんですけど」


 リラが少し笑った。最近、遠慮がなくなってきている。いや、これが本来のリラなのだろう。剣士の鎧を脱いで、中身が出てきた。


 魔物使いLv5になったリラは——もう「ビビりの剣士」ではない。感知力はギルドでも上位に入る。使役できる魔物の種類も増えた。森猪の群れを一人で誘導できるようになった。3ヶ月前、路地裏で泣いていた女とは別人だ。


 でも、根っこは同じだ。「怖がる」癖は消えていない。ただ——怖がることが武器になる場所に移っただけだ。


「シンさんは——正しいことを言ってました。一つのジョブに集中した方が、ランクは上がる。信用も得られる。合理的です」


「じゃあ、やるんですか? 一つに絞るの」


「やりません」


「即答ですね」


「俺の基準に合わないんで」


 リラが何か言いかけて、やめた。少し考えてから、別のことを言った。


「……カイさんの基準って、何ですか」


 足が止まった。


「……面白いかどうか、です。ずっとそう思ってた」


「思ってた? 過去形?」


「……今は、少し違うかもしれない」


 何が違うのか、自分でもうまく言葉にならない。リラの適性を見抜いた時、面白いと思った。それは確かだ。でも——リラが手を震わせずに魔物を導いた時、感じたのは「面白い」じゃなかった。


 名前がない。いつもの、名前のないもの。


「カイさん」


「何ですか」


「もし——シンさんが、壁にぶつかってるとしたら。カイさんなら、見えますか」


 ……見えている。


 昨日の会話で見えた。シンの結晶は深い赤で、完成度が高い。高すぎる。20年間、同じ道を歩いて、同じ技を磨いて、Lv9まで届いた。


 でも、Lv10には届かない。


 壁を越えるには、一度壊す必要がある。俺は17回壊された。壊されるたびに——何かが残った。何が残ったのか、まだうまく言葉にならないが。


 でも、シンに今それを言えるか? 20年積み上げた人間に、「一回壊せ」と言えるか?


「……見えてます。でも——言いません」


「なぜですか」


「準備ができてないからです。シンさんの。……俺の言葉が届くタイミングじゃない」


 リラが黙った。それから、小さく頷いた。


「カイさん——変わりましたね」


「何がですか」


「前は——見えたら言ってた。タイミングとか関係なく。弓兵さんの時みたいに」


「……あれは失敗です」


「失敗して——変わったんですよね」


 ……。


 17回ジョブを変えて、17回Lv7に届いて、17回結晶を失った。その間、何が変わったのか、自分ではわからなかった。数字は毎回リセットされる。手の記憶だけが残る。


 でも、リラの目には——管理局のカードには載らない何かが、見えているらしい。


「……まあ、いいです。飯食いましょう。今日は奢りますよ」


「え、いいんですか? この前、報酬が減ってるって——」


「昨日の依頼、リラさんの感知がなかったら罠の場所を間違えてました。借りです」


「借りって——そういう計算、する人でしたっけ」


「しません。だから面倒くさい」


 ノアがテーブルの下から顔を出した。鼻先をひくひくさせて、リラの皿を狙っている。リラが気づいて、干し果物を一つ差し出した。ノアが素早く食べて、尻尾で俺の足首を叩いた。もう一つよこせ、という催促だ。


「ノアにも甘いですね、リラさん」


「カイさんに言われたくないです」


「俺は甘くないですけど」


「毎日三個あげてるじゃないですか。昨日は四個でした」


「……数えてたんですか」


「食い気味に」


 リラが笑った。ノアが肩の上で耳を動かした。食堂の方を見ている。腹が減っているらしい。こいつの方が素直だ。


 ギルドの食堂に入ると、何人かの視線が来た。依頼制限の噂は落ち着いたが、まだ遠巻きにする冒険者はいる。メイナス商店の店主だけが、カウンターの向こうから小さく手を振ってくれた。鑑定依頼の追加だ。


 ……ありがたい。世界が全部敵になったわけじゃない。


 ◇


 その夜。宿の部屋で、ノアが膝の上で丸くなっている。窓の外で虫の声がしている。夜風が壁板の隙間を通り抜けて、かすかに笛のような音を立てた。蝋燭の灯りがノアの黒い毛並みに揺れる影を落としている。蝋が溶ける甘い匂いが鼻先を掠める。


 シンのことを考えていた。


 20年。一つの道を歩いた男。Lv9。あと一歩。でも、その一歩が——多分、20年の延長線上にはない。


 剣士をやっていた時に知っている。Lv7の壁は、それまでのやり方の限界だ。俺はそこで結晶が壊れた。結晶が壊れたから、否応なしに壊された。


 でもシンの結晶は壊れない。明滅もしない。だからシンは「壊すべきだ」というサインを受け取れない。20年間、サインが来ないまま、同じ道を歩き続けている。


 完璧に積み上げた剣の技が、そのまま壁になっている。


 ……面倒くさい。


 でも——面白い。


 いつか、シンが自分で壁に気づく日が来たら。その時は——言えるかもしれない。


 手の甲の紫色を見た。淡いLv3の鑑定士の色。シンの深い赤とは比べものにならない。


 でも、この色にも——意味がある。はずだ。


 ノアが寝息を立てている。小さな体が上下して、柔らかい毛が掌をくすぐる。温かい。


 明日も、ギルドに行く。リラと、ヴェルと、ノアと。


 一人じゃないのは、慣れないが、悪くない。


 ……面倒くさい。でも——面倒くさいことに慣れてきている自分が、少し怖い。


 ふと手の甲に目がいった。紫色の鑑定士の結晶。染まった色が、少しずつ深くなっている。


 Lv7まであとどのくらいだろう。前より速い気がする。17職分の経験が流れ込んでいる。立ち上がりが毎回速くなる。


 ノアが寝返りを打った。前足が俺の手の甲に触れた。冷たくはない——まだ。


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