潮の刻限
荒れ果てた庭園の土は、
かつて誰かが丹精込めて育てていたであろう草花の記憶ごと踏み荒らされ、黒く陥没していた。
その表面を覆う薄氷のような冷ややかさが、跪いたルカの膝を通して骨の髄まで這い上ってくる。
痛みというより、生きているという事実を執拗に思い出させる感覚だった。
折り重なった木々の陰から、不揃いな靴底の音がいくつも重なりながら近づいてくる。
急くでもなく、かといって油断もしない、戦い抜いた者だけが持つ独特の律動。
「ルカ……! 」
荒い息の隙間を縫うようにして、掠れた声を届かせたのはシュナンだった。
白銀のコートの裾には、跳ね返った黒ずんだ土と、乾ききらぬ血が不規則な斑紋を描いている。
その手の中で、赤と黒に塗り分けられた三節棍が、金属同士の触れ合う澄んだ残響とともに鞘へと吸い込まれていった。
ルカはゆっくりと視線を持ち上げる。
少し遅れて歩み寄ってくるキリックは、手中に握られた小さな器具――発火のための撃鉄機構――のピンを、指先だけで静かに戻したところだった。感情の温度が伝わってこない、几帳面な所作。
その肩に留まった灰色の鳥が、煤を含んだ夜風に一枚だけ羽を揺らし、短く喉を鳴らす。
「シュナン、キリック……それに、みんな」
強張っていたルカの肩から、堰を切ったように力が抜けていく。
胸の奥で早鐘を打っていた鼓動は、ゆっくりと、泥のように重く粘度を増した周期へと落ち着いていった。生還した実感が、遅れて全身を浸していく。
「ほらよ」
シュナンが前かがみになり、差し出してきた手のひら。
指先には激しい打撃の摩擦熱がまだ残っており、かすかに焦げた匂いを纏っていた。
「……ありがとう」
その手を掴む。引かれる感覚とともに、足裏へと体重が戻ってくる。
関節が鈍く軋み、抗議するような痛みが走った。
「あいつを、倒したんだな。突然土兵どもが揃って停止したもんだから、もしやとは思っていたが……大したもんだよ、お前は」
シュナンの視線が、少し離れた場所に横たわる巨躯――ぴくりとも動かなくなったケトレーへと注がれる。その静止の仕方には、生前の暴虐が嘘のような虚無が宿っていた。
「……君たちが、僕を信じて託してくれたからだよ」
ルカの口角が、ほんのわずかに押し上がる。掠れた呼気が白く解け、夜気の中へ紛れて消えた。
キィ、と甲高い音。空を切り裂くような鳥の一声が、灰色の天蓋から降ってくる。
「勝利に酔いしれるのは、まだ早いぞ」
キリックが歩み寄ってくる。その声には一切の起伏がなく、研ぎ澄まされた刃のように冷たい。感情を削ぎ落とした声こそが、彼の警戒の証だった。
「上空から見たところ、沿岸部には逃げ遅れた人たちが多数取り残されている」
一瞬にして、その場に漂っていた祝勝の熱が霧散した。
全員の視線が自然と低くなり、遠くから立ち上る黒煙の太さを――その煙が語る被害の規模を――無言のうちに測る。
「……ひとまずは、本隊に連絡する」
ルカはポケットに手を差し入れ、赤く染まった随伴石を取り出した。
指先で触れると、ざらついた鉱物の質感が、血の混じった汗をじわりと吸い込んでいく。
「こちらルカ。状況の報告をしたい」
石へ向けて落とした声。その振動に呼応するように、内部に宿る朱色の光が、小刻みな周期で明滅を繰り返す。
『はい、何でしょうか』
石の奥から響いたのは、硬質な少女の声――ハクラだった。
背景からは、遠い地鳴りにも似た重低音と、石材が擦れ合う微かな雑音が伝わってくる。
「ハクラだね。こちらの状況は、市街地で暴動を扇動していた敵幹部と思われる男を討伐した。そっちはどうなっている」
『承りました。こちらの戦況は――』
ハクラの淡々とした報告の途上、通信の向こうで荒い足音が途切れ、不意に低い雑音が混じり込む。
『いい。俺が答える』
ハクラの応答を遮ったその声音には、骨の髄まで削り取られたかのような、重く粘る疲労が潜んでいた。
「エンジ」
ルカの指先が、随伴石の表面を強く押しつける。
『……突入班は、既に敵アジトへの侵入に成功した。首領を捕らえるのも時間の問題だろう。お前に出す指示は一つ――市街地に残る残党の殲滅と、民間人の保護だ』
途切れ途切れの呼気。その向こう側で、エンジが背を預けているであろう硬い壁の存在までが伝わってくるようだった。
「了解したよ」
ルカは短く応え、朱色の光を失って冷たい固形物に戻った石を、深くポケットへ押し込んだ。
まわりの仲間たちを見回す。誰の口からも余計な言葉は漏れない。
ただ互いの呼気が吐き出す小さな白煙だけが、熱を帯びたままの大気の中で幾度も重なり合っていた。
「みんな、もう一仕事だ」
ルカは一歩を踏み出した。靴底が、砕けた石畳の鋭い角を静かに踏み砕く。
焦げた風を押し切るように、一行の影は、煙の渦巻く市街地の方角へ向けて加速していった。
湿った暗渠の通路。
歪んだ石畳の隙間から、黒ずんだ水滴が不規則に落ち、途切れ途切れの波紋を石床に広げていく。
腐敗した土の匂いに混じり、周囲に漂うのは焦げた皮膚と、どこか生臭い潮の臭気だった。
進んでいるのは四人――ミヨク、サダリ、バーダー、キナ。
迷宮へ侵入する際は三人から四人で行動する、というのが彼らの間で交わされた絶対の作戦事項である。単独行動は死を意味し、二人では連携の幅が狭すぎる。
サダリが手のひらに浮かべた小さな炎だけが、唯一の灯りだ。
「かなり奥まできたぞ。バーダー、そろそろ頼む」
サダリが背後のバーダーに声をかける。
気安さの奥に、かすかな緊張の色が滲んでいた。
「はいよ」
バーダーの瞳孔が、微小に収縮する。まぶたは閉じられない。
その網膜の奥、透明な光彩が網の目のように細かく脈動し、空間の微細な揺らぎを写し取っていく。
「風属性・中等理術――風脈千里視」
低く引き締まった呼気とともに、彼の薄い唇がわずかに戦慄いた。
鼓膜を打つのは、遠い暗渠の屈曲部から微かに跳ね返ってくる、気流の摩擦音。
風は角を曲がり、壁を這い、目に見えぬ無数の触手となって広大な地下空間へと滑り込んでいく。
一瞬、彼の喉の奥で息が詰まった。
「……感知できた」
低く乾いた声。音節の合間に、浅い吐息の湿り気が混ざる。バーダーの右手の指先が、わずかに震えた。それは恐れではなく、精緻な知覚がもたらす神経の昂りだった。
「……屈折箇所の先。直線距離でおよそ三十……水流に沿って移動している。空気の抜け道がある、出口の一つだろう」
「バーダー、一旦連絡を入れておくべきだ」
ミヨクが口を挟む。彼の声には、逸る気持ちを無理に抑え込んだ硬さがあった。
バーダーは随伴石を取り出す。
「こちらバーダー。ハクラ、敵をおよそ三十ほど確認。出口へ向かっている。応援を要請したい」
『敵を感知できたのか』
帰ってきたのはエンジの声だった。
「エンジか、無事で何よりだ。それで、他はまだ見つけていないのか」
『ああ、お前たちが初めての接触だ。増員を送る。お前たちは、もっと接近して敵の狙いを探ってくれ。戦闘は、増援が到着するまで我慢しろよ。特にミヨクとサダリ、わかったな』
「うるせえよ」
「いちいち命令するな」
エンジの念押しに、ミヨクとサダリは不服を隠しもせず応じる。
二人の反抗的な態度は、しかしどこか儀式めいてもいた。忠告されるとわかっていて、それでも噛みつかずにはいられない――そういう性分なのだ。
「キナ、道標になるように、俺たちの通った痕跡を残しておいてくれ」
バーダーの頼みに、キナはこくりと小さく頷いた。壁に手を触れ、理術を発動させる。
「植属性・初等理術 明導の芽生」
呟きとともに、壁の表面に小さな芽が生じる。
淡い緑が、闇の中でわずかに発光しているようにさえ見えた。
根はやがて石の隙間深くへ潜り込み、彼らが進むごとに後方へと蔓を伸ばし続けるだろう――誰かを、光の糸で導くために。
「終わりました」
「じゃ、追跡開始だ」
バーダが指示する。
彼らは無言のまま、敵の気配を追いかけ始めた。
暗渠を抜けた先。急激に膨れ上がった大気の粘度が、頬の皮膚をじとりと濡らす。
塩気を含んだ重い湿気が、地下特有の腐敗した土の臭気と混ざり合い、鼻の奥にへばりついて離れなかった。
前方に広がっていたのは、自然の侵食と人の手の介入とが中途半端に交錯した入り江だった。
頭上の天洞からは、月光の破片すら届かない。
ただ波打ち際で砕ける水しぶきだけが、不気味な燐光を微かに散らしている。
「……いたぞ」
最前線で膝をついたミヨクの喉から、押し殺した呼気が漏れる。
踏み締めた砂利が、靴底の下でジャリと小さな悲鳴を上げた。
彼の視線が射抜く先――入り江の奥に横たわる、半ば水没した石造りの埠頭。
そこに、黒い外套を纏った数条の影が蠢いていた。
静謐な輪郭を際立たせるのは、その中心に立つ若い女の姿。
歳の頃は二十代前半、硬質な貌立ちには、夜気よりも冷たい、凛とした刃の鋭さが宿っている。
彼女らの足元には、退潮によって剥き出しになった湿った岩肌が歪に連なり、その向こうには黒々とした海面が、音もなく静まり返っていた。
「おそらく、あの女が頭目だろうな」
サダリの指先が、無意識のうちに掌の肉を固く圧した。衣擦れの乾いた擦過音。
指の隙間から、消えかけた炎の残熱が小さな煤の匂いとなって立ち上り、湿った空気の中へ霧散する。
「増援の合流まで……待とう」
バーダーの低い呟き。瞳を閉じたままの彼の眉間には、深い皺が刻まれていた。
膨大な感知理術を巡らせているためか、そのこめかみの細い血管が、一定の周期で不規則に脈動している。
ミヨクは身を低く潜めたまま、懐から古びた羊皮紙の地図を滑り出させた。指先が紙面を叩く。
冷えた岩肌の感触が、薄い皮膜越しに指骨へと伝わってくる。
その目が、羊皮紙に描かれた不自然な空白と、目の前に広がる空間の輪郭とを、何度も往復した。
指の腹が、羊皮紙の余白を強く擦る。
「おかしい。地図上に、この入り江が存在しないぞ」
ミヨクが小さく声に出す。
「地図に載ってないってことは、敵にとっちゃ絶好の脱出経路ってわけか」
サダリが応じる。皮肉と称賛の入り混じった口調だった。
不意に、波音が音質を変えた。ザザ……と、足元を洗う水流の引き代が長くなり、岩肌の湿り気が一段と色濃く露わになっていく。海水が、ゆっくりと外海へ向けて引き抜かれていく感触。
キナの呼吸が、わずか数ミリほど浅くなる。
引いていく波を一瞥して口を開く。
「なるほど、潮の流れですね」
彼女はさらに続けた。
「この空間は、潮の満ち引きによってのみ外界と接続し、また隠蔽もされているのでしょう。退潮の今この瞬間こそが、敵にとっての唯一の船出の刻限と考えられます」
沖合の闇の中から、低く腹に響く重低音が届いた。水面を滑る、小さな木胴のきしみ。
漆黒の船体が、入り江の口を塞ぐように静かに影を落とす。
猶予という名の砂時計が、最後の一粒を落とし切った。
「状況が一変した。増援を待つ時間はない――俺たちが食い止めるんだ」
バーダーの右足が、深く湿った砂利を蹴りつける。ミヨク、サダリ、キナがそれに続いた。
静寂が、破砕する。
「統合理術――」
重なる二つの声。ミヨクの足元から隆起した巨岩が、サダリの指先から溢れ出た赤黒い火炎を纏う。
「焦熱崩巌!」
灼熱の重塊が、空気を焼き焦がしながら直線状に滑進した。
追撃の風が背後から吹き荒れ、バーダーの振り下ろした腕に従って爆炎の威力を膨れ上がらせる。
ドォン、と鼓膜を振るわせる着弾音。
命中したのは、彼らが狙ったものではない。異様な漆黒の光沢が、それを四散させたのだ。
黒い巨躯の後ろから、部下の声が上がる。
「リリカ様、お怪我は」
「無傷よ。心配より先に、出港の支度を急ぎなさい。もうじき増援がかけつける――それまでに脱出するわよ」
短く、有無を言わせぬ声だった。リリカと呼ばれたその女こそ、黒い錨のボスに他ならない。
「逃がさないよ。ミヨクとサダリが主攻、キナは援護。打ち合わせ通り行こう」
バーダーを中心に、四人は瞬時に攻撃陣形を整えた。黒い光沢が蠢き、リリカが姿を現す。
「ここまで辿り着いたことは、褒めてあげる。けれど――思い通りに行かないのが実戦よ」
「親玉自ら相手をしてくれるのか。俺たちの連携を試すには、うってつけだ」
ミヨクが意気込んだ声を返す。
「生意気な坊やね。力の差を、教えてあげる」
リリカの唇が、冷ややかな弧を描く。
「邪属性――千虫鬼、百足の暴甲」
リリカの背後の闇から、ぬらぬらとした光沢を引いて現れたのは、さらに三体の巨大な影。
節足が岩を削るカチカチという乾いた接地音が、四方の壁に反響して重なり合う。
先ほど弾かれたものを含めると、都合四体。
平たい頭部に、鎌のように湾曲した左右の大顎――巨大な百足そのものだった。
「虫を操るのか。それも、こんなに巨大なものを複数同時に」
バーダーの喉が震える。
右奥の二体が、滑らかな動作で岩肌へと頭部を打ち付けた。土砂と石礫が爆ぜる音。
巨躯が抵抗なく地中へと沈み込み、数秒と経たずにその存在が地表から消える。
「――下!」
バーダーの短く鋭い叫び。
直後、キナの足元の石畳が爆ぜた。突き上がる黒い大顎が空気を断ち切る。
キナの身体が反射的に跳び退た。間一髪、履物の底をかすめた黒い甲殻の冷気が、肌にまとわりつく。
足元を穿ち背後へと抜け出た二体。正面を阻む二体。
「……挟まれた」
サダリの首筋を、冷たい汗が一筋伝い落ちる。
巨大な顎が襲いくる。ミヨクが咄嗟に土壁を展開するが、あっさりと食い破られた。
それでも、時間は稼げた――バーダーが理術を発動させる、その一瞬分だけは。
顎が到達したところに、もう誰もいない。バーダーが突風を発生させ、間一髪で全員を散開させたのだ。
「いきなり、ちりぢりかよ」
ミヨクが悔しさを滲ませて舌打ちする。
四体の巨虫は、一人ずつの正面に散開して現れた。
それだけならまだしも、虫以外にリリカの部下たちもまた、四人を取り囲んでいる。
たった一手で、窮地へと突き落とされたのだ。
それぞれの場所で、状況を打開するべく攻撃を仕掛ける。
ミヨクの右腕が鳴る。穿たれた地面から削り出された尖岩が、空気を切り裂いて正面の巨大な影へ一直線に突き刺さった。硬質な打撃音。だが、削れたのは岩の尖端の方だった。
潮を吸って濡れた黒甲冑のような漆黒の節足は、傷一つ負うことなく鈍い光沢を跳ね返している。
サダリの指先から放たれた朱の火炎が、濡れた甲殻を舐めるように包み込んだ。
瞬時に弾ける激しい水蒸気。白煙が視界を埋め尽くすが、焦げ付く匂いは一切しない。
爆炎の熱すら、波沫を浴びた甲冑の表面を滑り落ちていく。
カチ、カチカチ――
頭頂部から、押し潰すような重量感が降ってくる。
四方を囲む外套の男たちが、刃の潰れた抜き身を鳴らしながら、一歩また一歩と間合いを詰めた。
逃げ場のない波打ち際で、包囲だけがじわじわと絞られていく。
百足は彼らに迫った。ミヨクとサダリは、その牙に横腹を掠められ、血を流しながら片膝をつく。
側に迫っていた敵たちにも、殴られ、蹴られ、なぶられる。
バーダーはというと、風を用いた跳躍でどうにか敵の攻撃をかわすのが精一杯だった。
緑の蔓がキナの袖口から鞭のように弾け飛び、正面の千虫鬼の首の付け根へと巻き付く。引き絞る。
だが、その手応えは太い鋼鉄の杭を引くのと変わりない。千虫鬼の太い頸部が僅かに歪む。
次の瞬間、巨躯がひと震いしただけで、締め上げていた蔓は弾け飛ぶ繊維の束となって四散した。
手元に残った断端から、青臭い汁がキナの掌を濡らす。
(これを利用できれば、この場を打開できるかもしれません)
キナは思案した。二本目、三本目の太蔓が地表を這う。
千虫鬼の左右の大顎、そして左側面の複数の脚を束ねるように絡みつく。
強く引くのではない。自由を奪うように、ただ強固に結びつける。
異物を巻き付けられた千虫鬼が、激しい狂乱の挙動を見せた。
「ガチィッ!」
剛力に任せて暴れ回る巨躯。
キナは腕の操作で、その怒りの支点を、周囲を逃げ場なく固めていた外套の男たちの足元へと誘導する。
打ち振るわれた千虫鬼の尾先と、絡みついた蔓の自重とが重なった。
引きちぎられる蔓の破断音と同時に、体勢を崩した黒い重塊が横転する。
ズシン、と地面を揺らす落塊。
その下敷きとなった男たちの短い呻きと、骨の砕ける不穏な音とが、波音に混じって押し潰された。
包囲の一角に生じた歪み。
その隙を逃さず、キナの手首から新たな蔓が奔り、天井の突起へと深々と突き刺さる。
反動を得た身体が、振り子のように弧を描きながら宙へ舞い上がった。
眼下で孤立していたミヨク、サダリ、バーダーの襟元へ、次々と細い蔓が絡みつく。
有無を言わせぬ牽引――脱出のための、強引な采配だった。
三人の足裏が濡れた石畳の上を滑り、入り江の狭隘な入口付近へと引き寄せられていく。
だが、体勢を立て直す隙はない。
横転から即座に復活した千虫鬼が、低く這うような運動で前進を再開する。
その左右を、残された部下たちの影が波の如く埋め尽くす。
切り立つ岩壁と引き波の間に挟まれ、四人の背中が冷えた崖肌にぶつかった。
靴底を伝う潮水の冷たさ。喉の奥に張り付く血と鉄の匂い。
巨大な鎌状の大顎が、四人の眼前まで持ち上げられる。
影が落ちる。
直後、空気が爆ぜた。
視界を横切ったのは、銀色の閃光だった。音は後からついてきた。
衝撃波が入り江の湿った空気を円状に穿ち、正面に迫っていた千虫鬼の頭部が、まるで巨石を叩き付けられたかのように真横へと吹き飛ぶ。
巨躯が波打ち際を転がり、水しぶきを盛大に巻き上げた。
踏み込む一歩。靴底が濡れた小石を踏み砕く鋭い音。銀光が二度、三度と閃く。
旋風のような足さばきの前に、包囲を縮めていた外套の男たちが次々と倒れ伏していった。
石畳に広がる新しい赤黒い油脂の匂い。
刃を鞘へと収めるカチリという小さな金属音だけが、静まり返った入り江に響いた。
佇む、長い銀髪を携えた少女の背中。
背後の四人が荒い息を吐く中、アインの肩がわずかに上下する。
「……遅くなったわ」
それ以上、言葉は続かない。
その足元、暗渠の奥から続く一本の蔓が、かすかな葉を震わせている。
分岐を幾つも折れながら、絶えることなくここまで伸び続けていた、キナが壁に芽吹かせたあの道標だった。
迷宮の深部からこの入り江まで――アインは、その淡い発光だけを頼りに、闇を切り抜けてきたのだ。
アインの視線が、ゆるやかに上昇する。その先は、一直線にリリカの胸元を射抜いていた。
視線が交差する。
打ち寄せる波が、二人の間の空間を、音もなく濡らしていった。




