神速
潮が、動き始めていた。
遠く退いていたはずの海が、ひとつ息を吐くように岩礁の裾を舐める。
蒼い燐光を曳く波頭が、桟橋の礎石を一段、また一段と呑んでいった。
この入り江は、日に一度、数刻のあいだだけ海の底から身を起こす。
月と海との契約の隙間にだけ現れる、地図に載らぬ石の回廊。その猶予が、いま尽きようとしている。
湿った岩肌の冷気が、石畳の継ぎ目から這い上がってきた。
「……周りの雑兵は任せるわよ」
アインは背を向けて言った。
「潮が足首を越える前に片をつける。持ち場を崩さないで」
左手が鞘を握る。鍔が微かに軋み、低く平らな呼気だけが薄闇に溶けた。
「この女の相手は、私がするわ」
「美味しいところを持っていきやがって。いいさ、今回だけは譲ってやる」
サダリが拳の関節を、取り囲む黒衣の群れへ向けて一つずつ鳴らす。
乾いた音が洞窟の天井に跳ね、幾重にも谺する。
「キナ、潮の見立ては」
ミヨクが足元の波打ち際を靴先で注意深く測りながら尋ねた。目線は群がる敵から一切逸らさない。
「完全に満ち足りるまで、およそ二十分。ただ、この入り江の傾斜と足場を考えると、まともに自由に動けるのは十五分が限度です」
キナは詰めていた息を細く漏らし、手にした蔓を一度、鞭のようにしならせた。
「十五分か。上等だ。ミヨク、サダリ、キナ、俺たちの仕事はアインの背中を守ることだ。雑兵どもは一匹残らずここで食い止めるぞ」
バーダの声が、低く空間を渡る。
三人は返事の代わりに、深く滑らかな足取りで、黒衣の群れの間合いへと身を滑り込ませた。
靴底が砂利を噛む音が遠ざかり、残されたのは引き際の潮が洗う微かな水音と、二つの呼吸だけだ。
リリカの外套が、洞の奥から吹く冷気に不規則にはためく。
硬質な口元が吊り上がり、眉間に薄い影が落ちた。挑発とも笑みともつかぬ、歪んだ表情。
対するアインに、揺らぎはない。
紅の瞳は、リリカの正中線を一直線に射抜いたまま、瞬きさえ忘れている。
「いい目をしているわね。己の力を疑わない者の目。その自信に、勝算の裏付けはあるのかしら」
「あんたを斬る。それだけよ」
頭上の天井から水滴が一粒、濡れた岩肌を伝ってポツリと落ちた。
それが水面に届く前に、言葉が交わされる。
「その剣で?」
リリカが喉の奥で笑う。
「そんな鈍らで、私を斬ると。侮られたものね」
アインは答えない。沈黙を返答とし、鞘から剣を抜き放った。
鋼が空気を裂き、切っ先を僅かに下げた中段に据える。
足の指が、濡れた砂利を一粒ずつ確かめるように噛んだ。呼吸が、凪いだ海のように均されていく。
「噛み殺してあげなさい」
リリカの白い指先が、優雅に軽く動いた。
闇の奥から、濡れた甲殻の擦れ合うカチカチという音が這い寄る。
四体の百足が巨大な鎌顎を開き、岩肌を削りながら肉薄した。
アインの体幹が、ほんの僅かに沈む。
先頭の影が、狭隘な洞窟を押し潰す重量で振り下ろされる。
跳んだ、というより、地を離れた、と言うべきだろう。
迫り来る巨顎の腹を、靴の爪先が一度だけ軽く叩く。
たったそれだけの反動で身体は空中を滑り、次の瞬間には別の百足の黒くうねる巨躯の背の上に降り立っていた。
不気味に蠢く甲殻の節をなぞるように、アインの身体は軽やかに駆けぬける。
「でかい図体が仇になったわね。動きが、あまりに愚鈍よ」
冷ややかなアインの声が、揺れる百足の背の上から見下ろすように落ちた。
巨躯を踏み台にして死角を駆け、敵との空白を殺す。時間にしてわずか二秒。 つま先が再び固い地面を踏み鳴らしたとき、その間合いはリリカの細い喉元まで、あと一歩という地点にまで詰まっていた。
リリカの美しい瞳孔が、驚愕で小さく収縮する。
「……斬首の鎌足」
叫びとともに現れたのは、漆黒の蟷螂だった。
人の背丈の三倍はあろうかという巨躯。
逆三角形の不気味な頭部、複眼に洞窟の燐光を怪しく映し出し、胸の前に深く畳まれた二振りの巨大な鎌はまるで不吉な祈りの手のように見える。
それが一瞬で解かれ、空気を切り裂く幾重もの斬撃の壁となってアインの進路へ叩きつけられた。
リリカはその激しい衝突の背後へ素早く退く。三歩、四歩、五歩――安全な間合いへと距離を取る。
「その驚異的な機動力だけは認めてあげる。けれど、懐に入られた時の対策も万全よ」
ガキンッ! と激しい金属音が響く。
アインの剣が、迫り来る蟷螂の鎌を斜めに受け止めていた。 暗闇に眩い火花が散る。
だが、アインは決して力任せには受けていない。
緻密に計算された刃の角度と、呼吸、そして重心のわずか数ミリの移動。
それだけで巨大な殺意の軌道はすっと脇の岩壁へと逸らされ、深く突き刺さる。
だが、その一瞬、足が止まった。
足が止まれば、囲まれる。
闇が、ざわり不気味と揺らめく。
先刻、鎮めたはずの黒衣の男たちが、血を流し、意識を失って伏していたはずの者たちが、一人、また一人と起き上がる。関節が不自然な方向へ軋み、首が揺れ、濁った白目の下を青黒い血管が這うように浮き上がっていく。
「ア……ァ……」
口の端から泡を零し、人のものとは思えぬ呻きが幾重にも重なって洩れた。
「なんなんだ、こいつら?」
サダリが立ち止まる。
「完全に、気を失うなっていたはずだろ」
ミヨクの頬に汗が伝う。
「……違います、これは操られています」
キナの声が恐怖に小さく震えた。
「見てください、あの腕を! 骨が完全に折れているのに、苦痛をまるで感じていません……何かが、体内の筋肉を糸のように無理やり引きちぎりながら動かしています……!」
黒衣の一人が、自らの骨が砕ける不気味な角度で腕を大きく振りかぶった。
足元もおぼつかない死体のような足取りのまま、彼らは指を醜い鉤爪のように曲げ、磁石に吸い寄せられる鉄くずのようにアインへと群がり始める。
アインの鋭い瞳が、群がる傀儡の一人の首筋を正確に捉えた。皮膚を内側から破って覗く、細長い蠢く虫の尾。 そして、記憶の底から沸き上がる奇妙な既視感。
――尋問中、狂乱し血を撒いて狂い死んだ肥満の男。暗い倉庫で目撃した、あの忌まわしい光景が脳裏をよぎる。
「……そういうこと。あの時、口封じをしたのは、あんたね」
「ご名答」
リリカはまるで教壇に立つ教師のように、満足げに頷いてみせた。
「情報が抜かれる前に、内から閉ざしただけ。そして、その虫は耳でもあるのよ。あなたたちの作戦会議、実に聞き応えがあったわ。盗聴を疑いもせず車座になるなんて、愚かさの極みね」
こちらの戦略も、配置も、すべて筒抜けだった。 その動かしがたい事実が、冷たい刃となってアインの胸を撫で下ろす。しかし、アインの端正な横顔は微動だにしない。
「作戦の漏洩は私たち自身の過失ってわけね。なら、あんたを斬って帳消しにするわ」
右足の靴底が濡れた地面を深く擦り、間合いを静かに組み直す。
群がる傀儡たちの引きつった顔面、百足の凶暴な節足の波、そして漆黒の蟷螂。
アインはそのすべての位置、軌道、間合いを脳内で瞬時に正確に把握する。
「アイン!」
助太刀に入ろうと踏み出しかけたバーダを、アインの短い一喝が強く止めた。
「待ちなさい。持ち場を離れれば、あの女の思う壺になるわ。……私は平気よ」
体を僅かに捻って傀儡達の攻撃をかわし、柄頭で顎骨を叩き割る。
返す刀の腹で蟷螂の鎌を滑らせ、死角へ踏み込んだ。
骨を断ち、肉を砕く鈍い音が、間断なく響く。
しかし。
アインの呼吸は、着実に乱れ始めていた。 隠しきれない疲労の蓄積。
汗が顎を伝い、砂利に落ちる。足場にした百足の背は、混乱のなかで滑りやすくなっている。
傀儡は痛みを知らず、斬っても、打っても、起き上がる。減らない。
そして足首のあたりを、いつのまにか冷たい潮が洗い始めていた。
「しつこいお嬢さんね!これで終わりにしてあげる」
リリカの腕が、不吉に跳ね上がる。
「喰らい尽くしなさい。凶羽」
高密度の羽虫の黒い群れが一斉に湧き出した。一匹一匹が人の顔面を丸ごと覆い隠すほどに巨大だ。
ブワアアッと羽音が空気を激しく震わせ、アインの視界のすべてを漆黒で埋め尽くす。
羽虫たちの口から一斉に吐き出された粘濁の強酸が、アインが構えていた鋼の剣の刀身へ直接降りかかる。 美しく研ぎ澄まされていた金属の光沢が瞬く間に泡立ち、どろりと黒い不快な泥となって崩れ落ちていく。 指先に残されたのは、無惨に焦げ付いた柄の残骸だけ。
空になった両手。 全周を隙間なく囲む敵の群れ。 刻一刻と膝元まで満ちてくる冷たい潮。
「諦めなさい。勝敗は決したわ。あなたたちの勝利は、万に一つもあり得ない」
アインは柄の残骸を、ゆっくりと手放した。
からん、と乾いた音。
そして顔を上げた。
その佇まいに、絶望の隙など微塵も生まれていない。
静まり返った澄み切った紅の瞳は、リリカの喉元を、ただまっすぐに見遂げ続けている
「おめでたい頭ね。この程度で、私を追い詰めたつもり?」
アインは、銀の髪を一つに結う。
瞳の奥にある、感情の一切を削ぎ落とした透明な光。
そっと息を吐きだす。
「邪属性 神理断章――第一断章・神速剣」
凛とした、低く透明な呟き。
アインの右の掌の上に、白銀の眩い光条が一本、すっと引き直された。 光が濃密な実体を結び、透き通るような刃身となる。暗闇を払う白銀の片刃の絶刀が、その腕へと静かに顕現した。
その剣が現れた時、アインの身体は、人の理を外れる。
神速剣は、剣技ではない。
握る者を神速へと引き上げる、断章の理そのもの。
世界が、止まった。
空気の震え、波音も、水滴の音も、迫る羽音さえも、無限の遅延のなかへ置き去りにされる。
音は、遅れてやってきた。
カツン、とアインの靴底が濡れた地を一度だけ踏み鳴らす音。
動いているのは、アインだけだ。
一歩。
彼女はすでに敵軍の只中にいた。
全空間を埋め尽くす縦横無尽の剣線。
重い斬撃音が折り重なって轟く。
視界を覆っていた羽虫の群れは一片の粉塵となって霧散し、四体の百足と漆黒の蟷螂の甲殻が、斜めにずれ落ちて地面に転がった。
白目をむいて群がっていた傀儡たちが、糸を断たれたように一斉に崩れ落ちる。
瞬きにも満たない刹那の出来事。
そして、茫然と立ち尽くすリリカの眼前に、アインが立っている。
「は……?」
喉からカハッと血の泡を吐いたリリカの胸元を、一本の深紅の鮮烈な線が斜めに走っていた。
リリカの意識は、己が斬られたことすら正しく理解する間もなく、深い暗雲の底へと一気に沈んでいく。
ガクリと膝が折れ、冷たく暗い水溜まりへとその身体が打たれた。
「万に一つもあり得ない、そう言ったわね。……その一つが、いまここにあるのよ」
アインは倒れたリリカを振り返ることすらせず、静かに声を落とした。
押し寄せる潮騒だけが、何事もなかったかのように、再び響き始めている。
アインたちの足首を冷たく洗う海は、すでに膝の近くにまで達していた。
入り江は、また海の底へ還ろうとしていた。




