守るべきもの
炎が街を喰っていた。
瓦の爆ぜる音、梁の折れる音、そして誰のものとも知れぬ悲鳴。
それらが熱風に溶け合って、一つの巨大な獣の唸りのように市街地を満たしている。
石畳は火に灼かれて白み、踏むたびに靴底から鈍い熱が這い上がってきた。
その只中で、ルカは自分の身体に熱が湧き上がるのを感じている。
炎の熱ではない。
背中を預けられる者が、この戦場にいる――ただそれだけのことが、血を沸かし、骨を軋ませ、死という足音を遠くへ押しやっていく。
恐怖がないわけではない。
恐怖の上に、それを上回る何かが積み上がっているだけだ。
「不思議だな。力が湧いてくる」
高らかに吐き出したその声を、通りの向こうに立つ男が拾った。
ケトレー。肩幅の広い男が、崩れた噴水の縁に片足を掛けている。
その傍らには既に一体、人の背丈の倍はあろうかという土塊の巨人が侍っていた。
「威勢だけか。それとも、根拠のある自信か」
男の掌が、地を撫でる。
「――土塊の軍人」
石畳が波打ち、めくれ上がり、土砂が自ら形を求めるように隆起した。
二つの塊が立ち上がり、腕を得、脚を得、頭部の位置に鈍い窪みを刻む。
合わせて三体。
巨人たちは主の背後に整列し、生き物ならば呼吸するはずの間合いで、ただ静止していた。
ルカの判断は速い。
「シュナン、キリック、二人は土人形を。残りのみんなは、構成員を頼む。こいつは僕がやる」
「おう」
「承知した」
二つの応諾が重なり、熱気の中に重く沈む。
火蓋を切ったのはルカだった。
一直線。距離を殺す。
立ちはだかった巨人の胸板へ、跳び蹴りが突き刺さった。
数百貫はあろう質量が、靴底一つで数歩分、後退させられる。
「――やはり、攻撃力だけは大したものだな」
感嘆とも品定めともつかぬ声。
同時にケトレーが、巨人を盾にして斜め後ろから岩塊を射出した。
ルカは両腕を交差させる。
岩塊はルカの腕にあたって散っていく。
だが鼓膜が先に捉えたのは、腕に当たる音ではなかった。
岩そのものが砕ける、乾いた破砕音だ。
赤と黒。二色のコントラストを描く三節棍が、ルカの視界を横切っていた。
「俺の土兵の拳を砕いただと」
ケトレーの眉が初めて動く。
「その得物――理戦具か。珍しいものを提げているな」
「ご明察」
シュナンは棍の端を掌で回し、遠心を殺さぬまま構え直した。
「蛇節。左右で交互に打ち込めば、後の一撃が前の一撃の傷を喰う。倍々で削れる代物だ」
言い終わる前に次撃。
巨人の顎にあたる部位が、砂糖菓子のように崩落する。
「俺の理術は、戦闘向きじゃあねえからな。穴を埋めるために選んだんだが、これが扱いづらいのなんの」
棍を肩に担ぎ、シュナンは顎をしゃくった。
「――で。俺だけに構っていて、いいのかよ」
ケトレーの視線が動く。
その先で、空気が鳴いていた。
糸を咥えた巨鳥が、もう一体の巨人の周囲を旋回している。
幾重にも巻きついた糸は、巨体を縛るには細すぎた。だが、糸の目的は拘束ではない。
等間隔にぶら下がった無数の球体――それを然るべき位置に配ることだ。
土兵が、もがく。
「もう遅い」
キリックが手中の器具からピンを抜く。
糸の端に火が走り、導火のように駆け上がり、球へと届いた。
連鎖する炸裂。
地を揺らす爆音が、巨人の上半身を吹き飛ばした。
土塊が霰となって降り注ぎ、燃える街並みに新たな砂煙を加える。
「……二人とも、ここまだ仕上げていたとは」
ルカは口の端を吊り上げた。弱点を克服するどころか、それを足がかりにして強みへ変えている。
「僕だけ見劣りするわけにはいかない――硬化」
拳の表面が、一瞬にして質感を変えた。
肉の柔らかさが失せ、鈍い光沢を帯びる。
立ちはだかる最後の一体、その腹部へ、ルカは体重の全てを乗せて拳を叩き込み貫通させた。
力を失った巨人が膝から崩れ、胴に風穴を開けたまま地に伏す。
「あとはお前だけだ、ケトレー」
烈火のような声だった。
「これは驚いた。土兵が破壊される事態に立ち会うとはな」
ケトレーは噴水の縁から降りる。
「もっとも、それだけで俺を倒すまでには至らんが」
男の自信は微塵も欠けていない。
ただ、余裕の証であったはずの笑みだけが、いつの間にか消えていた。
「余裕ぶってんじゃねえよ」
シュナンが吼え、地を蹴る。正面からルカ、左翼からキリック。
三方向、同時。
ケトレーは慌てもせず、迎撃の構えすら取らなかった。
「詰めが甘いな。息の根は確実に止めておくものだぜ。でなければ――勝機を取り逃がす」
三人の背へ、同時に衝撃が走った。
痛みを認識する猶予もなく、三つの身体が宙を舞い、瓦礫の中へ叩きつけられる。
「何が……」
ルカは即座に身を起こし、視界を巡らせた。
そして心音が跳ねる。
ケトレーを守護するように、たった今破壊したはずの三体が――何事もなかったかのように立っている。抉られた腹も、砕けた顎も、吹き飛んだ上半身も、傷跡ひとつ残さずに。
「そんな、傷が塞がってる」
「そのとおり。何度壊そうと、こいつらは起き上がる」
ケトレーは指を鳴らす。
「お前たちに、俺の土兵を突破する術はない」
「――理術である以上、術者を潰せば消滅する。お前を倒せば済む話だ。」
膝をつきながら、キリックが言葉を投げた。
血の混じった唾を吐き、なお視線だけは外さない。
「ああ。その認識は正しい」
ケトレーは頷く。
「お前たちにそれが可能かは、甚だ疑問だがな」
無情に吐き捨て、男は正面の巨人の背へ掌を当てた。
巨人の腹が裂ける。内側から突き出したのは、鋼鉄をも貫くであろう鋭利な岩の柱。
その矛先は、迷いなくルカを指していた。
「――硬化」
両腕を盾に変える。激突。岩柱が砕け、破片が頬を浅く裂いた。
(防いだか)
ケトレーの瞳が、素早く少年の腕を検分する。
(……見えてきたぞ。あいつは邪属性、皮膚の硬度を操る類。となれば、確かめるべきは範囲と持続だ)
「左右に散った少年の相手をしろ」
二体が動き、シュナンとキリックの進路を塞ぐ。援護を断つ配置。
ルカはゆっくりと立ち上がった。
頬から顎へ血が伝い落ちるが、瞳に宿る戦意はいささかも翳っていない。
――その戦意を前に、ケトレーは、踵を返した。
「ふん。戯れは終いだ。俺はここを去る」
「な」
ルカの理解が、一拍遅れた。
この状況で、背を見せ、逃走する。
想定の外の事だった。
「ふざけるな、待て!」
腹の底から噴き上がる怒号。
だが男の足は止まらない。
土人形を一体だけ伴い、崩れた家屋の隙間へと駆け込んでいく。
ルカは息を一つ、細く吐いた。怒りに操縦桿を握らせれば、その時点で負けだ。
(……まだ追いつける距離。いや――追いつける距離に、留めている)
「シュナン、キリック。加勢は必要?」
「いらん」
「こちらも不要だ」
即答が二つ。ルカは返事もせずに地を蹴った。
数的優位の局面で、味方の加勢に回らず単独で追う。定石から言えば明白な悪手だ。
だが、そうせざるを得ない状況を、あの男は意図して作り出している。
(一番避けたいのは、あいつが別の戦場に流れて戦況をひっくり返すこと。何より――あいつが健在な限り、残った土人形は絶対に倒せない。罠だろうと伏兵だろうと、まとめて叩き潰すだけだ)
付かず離れず、一定の間合いを保ったまま、ルカは男の背を追った。
燃え広がる街区を抜ける。
崩落した家屋が吐く煙が、視界をたびたび白く塗り潰す。
やがて視界が唐突に開けた。
庭園。
腕のいい庭師が、幾年もかけて手入れをしてきたのだろう。
整えられた生垣の輪郭が、かろうじてその名残を伝えている。
だが今や炎は草花に燃え移り、色とりどりであったはずのものを一様な灰へと変えつつあった。
甘い花の香と焦げた匂いが混ざり合い、喉の奥に不快な膜を張る。
ケトレーは破壊された門をくぐり、奥へと進んでいく。
庭園の中心には、円形に開けた芝の広場があった。
男はその中央で立ち止まり、悠然と振り返える。
「お前一人か。いいだろう、決着をつけようじゃないか」
両腕を広げる。
「さぁ、踏み込んでくるがいい。俺の領域へ」
ルカは動かなかった。足を止め、目だけを走らせる。
(伏兵の気配はない。ならば罠か。ここら一帯に、いくつも仕込んであるな)
「怖じ気づいたか」
ケトレーの声が思考を裂いた。
「俺は構わんぞ。だが、そうしている間に、お前が置き去りにしてきた仲間が俺の土兵に嬲り殺される。それを待つだけになるがな」
「よく言うよ」
ルカは笑った。挑発に乗るためではない。相手の論法を、そっくり裏返して返すために。
「僕をここまで釣ったのは、そっちだろ。真っ向からじゃ勝てないと踏んだから、巣穴に籠もることを選んだ。違う?」
ケトレーの表情は動かない。値踏みをする視線だけが、静かにルカを撫でた。
「戦況を正しく理解できていないようだな。俺には攻撃手段がある。お前にはそれがない」
男は顎を引く。
「――ゆけ」
巨人が動いた。
地を揺らして迫る岩の拳を、ルカは躱す。躱して、下がる。また躱す。
円の外周を、巨体に追われるように移動していく。
「そいつは俺がいる限り不屈の兵士だ。止めるには俺を倒すしかない。だが、俺がここにいる限り、お前には手の出しようがない」
ケトレーは腕を組んだ。
「深追いを避けるのは鉄則だ。それを犯した己を恥じながら死ね」
「攻撃手段がないなら――」
ルカは、大振りの拳を紙一重で躱した。
巨人の拳が、背後にあった太い幹に激突し折れる。
「――作るまでだ。こんなふうにね」
ルカは逃げていたのではない。引き込んでいたのだ。
広場からもっとも近い場所に、大規模な庭園である以上、必ず植わっているはずのもの――樹木へと。
大木の折れた幹を掴み上げる。膂力の限りを振り絞り、ケトレー目掛けて投げ放つ。
そして自らも跳んだ。
宙を飛ぶ幹に、足を乗せる。
「――は」
ケトレーの口から、初めて呆れに近い息が漏れた。
ルカはその足場をさらに蹴った、二段の跳躍。真下にはケトレー。
罠の敷かれた地面には、爪先の一片すら触れていない。
落下の勢いをそのまま踵に乗せる。
「空中に投げた大木を足場に、だと。ぶっ飛んだ奴だ」
ケトレーは両腕に岩を纏わせ、頭上で交差させた。
踵が落ちる。
衝撃。岩の鎧は粉砕され、男の膝が地に沈んだ。
だが、それだけだった。
ルカはケトレーの眼前に着地する。
「今の発想は、なかなかに見事だったぞ」
ケトレーは砕けた岩を払い落とした。
「それで、仕留めきれなかったわけだが。さて――どう対処する」
地響き。
振り返るより早く、脇腹に岩の拳が食い込んだ。
身体が折れ曲がり、宙を舞い、地面を幾度も打って転がる。かろうじて受け身を取り、衝撃を殺した。
のっそりと立ち上がる。頭の芯が揺れ、視界の端が白く滲む。
後ろへ倒れかけて、踏み止まる。
脳の揺れが収まると。て、抜け落ちていた事実が戻ってきた。
いま自分が立っているのは。
ルカは一歩、下がった。ケトレーと巨人から視線を切らぬまま、慎重に。
足元が、異音を発した。
突き上げるような衝撃と共に、大地を割って巨大な土の槍が生えた。
頬のすぐ横を掠め、風が裂ける。
「土属性、中等理術――地槍」
ケトレーは、後方へ跳び退るルカに向けて、高らかに語りかけた。
「それが、俺の仕掛けた理術の地雷だ。発動条件は単純でな。その場を踏んだ者を狙って、大地から槍が伸びる。ただし、仕込んだ俺には例外だがな」
ルカの表情が凍る。
――踏むことが、条件。
つまりこの円の中では、逃げるという行為そのものが引き金になる。
「理解したか。その場に留まれば土兵に潰され、退けば地から貫かれる」
地獄だった。
ルカは逃げ惑うことしかできない。一つを回避すれば、退避した先で次が起動する。
硬化した腕で叩き折ることもあった。
だがそれは一時凌ぎにすぎず、五秒の持続が切れれば元の肉に戻る。
槍の先端が身体を掠めること、数度。
肩が裂け、腿が裂け、脇腹が抉れた。流れ出る血が芝を黒く染めていく。
多量の出血に持っていかれかける意識を、奥歯を噛んで繋ぎ止める。
それでも――ルカは、円の外へ転げ出た。
膝をつき、荒い息を吐く。
「今の罠地帯から抜けるために、お前が講じた手順。それで確信した」
ケトレーは動かない。ただ観察している。
「お前の理術は邪属性で皮膚の硬度を高める。硬化には範囲と時間の制限があり、範囲は両腕の前腕、持続は五秒程度。違うか」
ルカは血を拭った手を止めた。
「……僕の理術を探るために、わざわざこんなことを?」
「邪属性との交戦時は、あらゆる手を尽くして特性を暴く。それが基本だ」
男は淡々と言う。
「邪属性の最大の強みは、他の何物でもない、『初見であること』だからな。種さえ割れれば、その優位は死ぬ」
「……逆に言えば」
ルカは、ゆっくりと立ち上がった。
「格上に一矢報いられるのも、邪属性の特徴だ」
「秘策でもあるのか。近接しか取り柄のない、その貧相な理術で」
ケトレーは巨人を招き、自分とルカの間に据えた。
ルカは拳を握り込む。
「僕は、この理術を、気に入ってるんだ。お前みたいな奴を、真正面から殴り倒せるから」
「ほう」
「最初は、拳一つをたった一秒だけ硬化させるのが限界だった。今は――両腕の前腕ぶんを、五秒」
肩が上下する。血が滴る。それでも声は震えていない。
「日々の鍛錬で理術は向上する。それだけの話だよ。――切り札を見せてやる」
腕に、ありったけを込めた。
「はぁ――――邪属性、超越体技。局所駆動」
拳を、大地へ叩きつける。
円形の広場が、内側から弾けた。
芝がめくれ、土が跳ね上がり、緻密に敷き詰められていた理術の地雷が、そのすべてを励起させる余地もなく物理的に破砕されていく。小規模な地震が庭園を舐め、灰となった花弁が舞い上がった。
――『駆動』。それはルカが新たに習得した、己の身体能力を爆発的に向上させる技。
まだ完全に制御しきれず、出力を絞った腕のみの「局所駆動」ではあったが、地表を破砕し罠ごと打ち破るには十分すぎる威力だった。
「……まさか、力尽くで無効化するとはな」
ケトレーの声に、初めて驚嘆以外のものが混じる。苛立ちだ。
「だがその技、反動も相応だろう。放てて、あと一、二発といったところか。お前は貴重な弾を、くだらん掃除に浪費したわけだ」
「くだらなくないよ」
ルカは拳を引き抜いた。骨の軋む音。
「お前の絶対有利を崩せた。僕にはそれで十分だ」
そして、駆けた。
荒れ果てた大地を突風のごとく踏破する。
阻もうと立ちはだかる巨人。
「人形風情が、しゃしゃり出るな」
拳の嵐。一撃ごとに土塊が弾け、形を保てなくなった巨体が崩落する。
「僕にも分かったことがある」
ルカは崩れゆく残骸を踏み越えた。
「お前の土人形は無限に再生するのかもしれない。でも、損傷が大きいほど修復に時間がかかる。――お前を守る盾は、今この瞬間、なくなったぞ」
「白兵戦か。望むところだ」
ケトレーが両腕に岩の鎧を纏う。
ルカが密着した。構えた腕を掴み、体重をかけて無理やりこじ開ける。
無防備になった顎へ、膝を突き上げた。
男の両足が地を離れる。
「体術だけなら」ルカは息を継いだ。「お前に引けは取らない」
跳び蹴りが腹に突き刺さった。ケトレーは悶えながら地を転がり、勢いのまま木の幹に激突する。
ルカは追撃のために踏み込んだ。
止めを刺す。それだけだ。
「待った」
荒い息を吐きながら、男が掌を上げる。
「懺悔を聞く気はない」
「うっ――だ、誰かたすけてっ」
苦痛で包まれたかのような声が、庭園に落ちた。
ルカの足が、氷結したように止まる。
この場にいるのは自分とケトレーの二人だけだ。第三者の声など、聞こえるはずがない。
振り返る。
そこにいたのは、土人形に鷲掴みにされた、小さな女の子だった。
十にも満たないだろう。煤で汚れた頬、燃え残った緑のリボン、そして、恐怖に見開かれた大きな瞳。
「お前の仕業か、ケトレー。答えろ」
怒号が大気を震わせた。
「そうだ。俺が危うくなった時のために、一体だけ待機させておいた」
ケトレーは幹に手をつき、緩慢に立ち上がる。
「幼い娘を捕らえさせてな」
顔色は一つも変わらない。それがその場の最適解であると計算した、機械のような無表情。
「――クズめ」
心の底からの罵倒だった。
「喚くな。人質など、ありふれたことだ。いちいち心を乱すものではない」
男は血を吐き捨てる。
「その心の揺らぎが、お前を死へと誘う」
ルカの真後ろで、大地が盛り上がった。
復活した巨人の掌がルカの胴を掴み、投げ飛ばす。
芝を削りながら滑り、膝をつく。そこでようやく、押し込めていた疲労が一斉に押し寄せた。
視界が明滅する。血が足りていない。
それでも思考だけは止めなかった。
(あの子をどう助ける。障害を乗り越える方法は)
「両手を後ろで組んで、跪け」
命令が降ってくる。
土人形が、握り潰すように指へ力を込めた。少女の悲鳴が耳をつんざく。
ルカは、従う。
膝を折り、指を組み、頭を垂れる。
ケトレーが、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「一つ聞かせろ」
男は見下ろす。
「なぜあの時、止めを刺すのを躊躇した」
「人質を救出できる確証がなかったからだ」
ルカは、嘘偽りなく答えた。
「お前を倒せば土人形も止まる。だが停止したそれはただの岩の塊だ。バランスを崩して倒れれば、あの子が下敷きになるかもしれない」
「……要するに」
声色に宿ったのは、失望と、落胆と、そして憐憫だった。
「たかが一人のために、お前は俺を倒す絶好の機会をフイにしたわけだ」
「お前を倒して、あの子も助ける。両方が成立する道を探す。それが僕のやり方だ」
ルカは顔を上げた。
ケトレーは、その顔を蹴り飛ばした。
視界が回り、意識が飛びかける。歯を食いしばって引き戻す。
「現実から目を背けるな。あの場では、確実に俺を倒しておくのが最善だった」
男は静かに続けた。
「俺は、その娘以外にも大勢殺すぞ。大多数の命と、一人の命。どちらを救うべきかなど、明白だろうが」
正論だった。冷酷に、過不足なく、正しい。
「――そうかもしれない」
ルカは言った。
「でも、聞こえたんだ。あの子の声が。助けてって」
土を噛みながら、なお。
「お前の理屈は確かに正しい、だけどそれが命を見捨てていい理由にはならないんだよ。僕は、目の前の命を全て救う。その理想を追いかけて、何が悪い」
ケトレーは答えない。
代わりに、ルカの頭を踏みつけた。
「確証もない希望に縋った結果が、この様だ。全てを救う、だと? そんな真似が許されるのは、限られた強者だけだ」
その声が、微かに震えていた。怒りか、あるいは別の何かか。
「理想を求めた挙句、何一つ救えずに息絶える。――偽善者には、おあつらえ向きの最期じゃないか」
男は背を向け、乾いた足音を残して離れていく。
「おい。こいつの頭をかち割れ」
傍らの土人形に命じる。
ルカは何も言わなかった。ただ、じっと彼らを見ていた。
岩の拳が振り上げられる。落ちてくる。
「――硬化」
静かに、告げた。
激突。
砕けたのは、岩の方だった。
「なんだと」
異変を察したケトレーが振り返る。
ルカは、額から土埃を払いながら立ち上がった。
無傷の額。掠り傷一つない。
「ケトレー。お前は一つ、誤解している」
少年は構えを取った。
「僕が硬化できるのは、『両腕の前腕』じゃない。――両腕の前腕に相当する体表面積を、どこにでも配れるんだ」
ケトレーの瞳孔が、わずかに開いた。
ルカは一度も嘘をついていない。両腕の前腕ぶん、五秒間。
その「ぶん」が意味するものを、男は自分の推論で埋めてしまっただけだ。
邪属性の優位は、種が割れれば死ぬ。
――割れたと思わせた種が、本物である必要はどこにもない。
「こちらには人質がいる」
ケトレーの声が硬くなった。
「その上で、いったい何をすると言うんだ」
ルカは、懐から握り込んでいたものを地に叩きつけた。
白煙が、爆ぜるように広がる。
(――これを使う時が来るとは思わなかったよ、エンジ)
脳裏をよぎるのは、出立の朝の記憶だ。
『なにこれ』
首を傾げたルカの掌に、小さな玉を押しつけたのはエンジ。
『煙玉だ。俺の理術を込めてある』
彼は肩をすくめた。
『お前はどうせ深入りする。そういう性分だ。せめて、離脱の手段くらいは持っておけ』
――ああ。離脱には使わなかったよ。ごめん。
ケトレーは冷静さを失わなかった。
視界を奪われた瞬間、最も恐れるべきは死角からの一撃である。
男は自身の安全を最優先とし、煙幕からの離脱を即断した。
――その一秒が、勝敗を分ける。
煙を抜けたケトレーが目にしたのは。
土人形の指をこじ開け、少女を抱え出すルカの姿だった。
「走れ! 後ろを見るな!」
少女を外へ押しやり、返す足で、傍らの土人形の膝を蹴り飛ばす。
巨体がケトレーの方へ倒れ込んだ。
(……こいつ、最初から人質の救出が狙いか。俺の思考が状況把握に割かれる、その空白を)
煙が晴れていく。
ケトレーと、二体の土人形。そして、少年が一人。
「言っただろ」
ルカは血に濡れた拳を握り直した。
「あの子を助けて、お前を倒すと」
「――ならば示せ」
ケトレーは土人形を前へ出した。
「その覚悟とやらを」
「これが使えるのは、あと一度」
ルカは息を吸い込んだ。肺が軋む。構わない。
「――局所駆動」
「あの技か。盾だ」
ケトレーが2体の巨人を前面に置く。
ルカの拳が、その空を貫いた。貫いて発声した風圧で粉砕した。
土塊の霧が晴れた先に、男の顔があった。
ケトレー自らが踏み込んでくる。
岩の鎧を嵌めた両腕での、果敢な攻撃。
ルカの回し蹴りが、その腕を打った。
――痺れる。
(なんだ、この一撃の重さは。……足を硬化しているのか)
答え合わせの暇は与えられなかった。連続する足技。
腕が、肩が、脇腹が打ち据えられていく。
岩の鎧が崩れ、素肌が裂け、骨が砕ける。
そして最後の一撃が、男の脚へ。
「僕は、命を絶対に見捨てない」
ルカは全身の力を、ただ一点へ集めた。
「そして、誰に何と言われようと、この信念を曲げるつもりもない」
蹴りが、ケトレーの身体を撃ち抜いた。
男は宙を舞い、崩れた庭園の残骸へ叩きつけられ――
彼が起き上がってくることはなかった。
ルカはその場に崩れ落ちる。
全身の傷が、今になって一斉に痛みを主張し始めた。
仰向けに転がったまま、煙に霞む空を見上げる。
炎の照り返しで、赤く染まった夜空。
――勝った。
遠くで、まだ街が燃えている。シュナンとキリックはどうなった。早く戻らなければ。
そう思うのに、足が思うように動かない。
小さな足音が近づいてきた。
「……逃げろって、言ったのに」
少女は答えず、ルカの傍らにしゃがみ込む。煤だらけの手が、おずおずと差し出された。
その掌に載っていたのは、緑色のリボン。焼け焦げて、半分ほどの長さしか残っていない。
「おにいちゃんの、血、とまらないから」
ルカは、しばらくその子を見つめた。
それから、笑う。
傷に響いて、咳が出た。
「……ありがとう。でも、それは大事なものでしょ」
少女は首を振った。強く、何度も。
ルカが身を起こして指さす。
「君はあっちに避難して、炎も少ないし僕の仲間たちもいるだろうから、保護してもらうんだ」
少女は言われた通りに走った。
(所詮はあの子だって作られたもの、だけど僕が助けた命だということには変わりない)
ルカは小さくなっていく背中を満足気に見つめる。




