奈落の死闘
光の差し込まぬ深穴の底。
逃げ場のない狭小な空間の頭上では、天蓋を編む電撃の光芒が絶え間なく明滅し、壁面に不気味な影を這わせている。
まるで巨大な獣の腹の中に呑み込まれたかのような、圧迫感に満ちた戦場だった。
『黒い錨』幹部・シューガは、冷徹な双眸でレーシェを見据え、剣先をゆるりと向ける。
(影属性か。しかもこの密閉された空間ときている——やりにくいな)
胸の内でそう舌打ちしながらも、シューガの判断は速い。
背に負う炎翼を力強く一打すると、轟音とともに地を蹴った。
足場の悪さと黒影による奇襲を警戒し、迷わず上空へと急上昇する。
滞空し、圧倒的な高度差の有利を確保する——それが彼の流儀だった。
だが、エンジの思考は、その計算をさらに一手上回る速度で動いる。
「お前の好きにはさせねえ。——『白煙満ちる表層』!」
長柄の薙刀を構え、掌から濃密な煙を解き放つ。
灰色の煙は爆発的に噴き出し、穴底の地面全体を舐めるように覆い尽くした。
足元の変容にシューガが目を細めた、その一瞬の隙。
エンジは視線を迷いなく上空のシューガへと突き刺した。
「——『虚空を架ける灰嶺』!」
宙へ放たれた高密度の煙が瞬時に凝結し、人ひとりが乗れるだけの「灰色の足場」を編み上げる。
エンジはそれを蹴り上げ、爆発的な推進力でシューガの高度まで一気に急迫した。
「対策は万全というわけか——」
「空中はお前の独壇場じゃねえんだよ!」
空中を自在に飛び移りながら、薙刀の長い間合いを活かして間断のない連続斬撃を叩き込む。
長尺の刃が空気を切り裂くたび、白煙が音を立てて爆ぜる。
シューガは二刀で火花を散らして受け止めるが、猛攻に押され、空中での膠着を余儀なくされた。
そして——その膠着こそが、エンジの真の狙いだ。
「そこだ!」
側壁を影で潜行し、音もなく這い上がってきていたレーシェが躍り出る。
跳躍の勢いそのままに、死角からシューガの首元へ双刀を一閃。
しかし、シューガの反射神経は常軌を逸していた。
ほとんど本能的とも言える速度で体を捻り、それをかわす。
「俺が気づいていないとでも思ったか」
背の炎翼を力任せにしならせ、巨大な炎の扇と化して宙のレーシェを容赦なくはたき落とす。
ドォン——凄絶な衝撃音が響き渡り、レーシェは切り立った穴の側壁へ激突、崩れ落ちた。
さらにシューガは背の翼から無数の火の羽を弾丸として射出する。
炎弾掃射と二刀の斬り落としを組み合わせた苛烈な連撃が、エンジの薙刀を弾き飛ばし、下方へと叩き落とす。
「さっきまでの威勢はどうした。もう終わりか。初撃を受けてやったが、期待外れもいいとこだ。多少の知恵くらいはあるかと期待した俺が愚かだった」
空中で二刀を構え直したシューガの口元に、嘲笑が浮かぶ。
機動力を削がれ、穴底に接地したエンジとレーシェを見下ろし、シューガは背の両翼を限界まで膨張・発火させた。
「一網打尽だ。せいぜい、無様にあがいてみせろ」
頭上から降り注ぐのは、穴底の全空間を隙間なく埋め尽くす土砂降りの火の雨。
灼熱の炎弾が絶え間なく着弾し、炸裂音が狭い深穴の空気を物理的な圧力に変えて叩き割っていく。
「クソがッ……!」
エンジは即座に煙の幕を展開し、ドーム状に自身と周囲を覆って炎弾を防ぐ。
だが連続する爆炎の勢いに押され、防壁を維持することだけで精一杯——その場から一歩たりとも動けない。
一方レーシェは自身の影へ潜り込み、「黒泳」を発動して影の中を泳ぐことで着弾を回避しようと試みた。
しかし、上空から冷徹に戦況を俯瞰するシューガの目は、そう容易くは欺けない。
「無駄だ。影の動きが見えている以上、お前は脅威にならん」
炎の明暗が入り乱れる穴底で、蠢く影の軌跡を完璧に視認したシューガは、その進行方向へ向けて火炎弾を連射する。
ドカァンッ——足元の影が爆風で吹き飛ばされた瞬間、術を強制的に断たれたレーシェの体が地面へと弾き出された。
「くっ……!?」
「捉えたぞ!」
影から弾き出されて体勢を崩したレーシェの眼前へ、シューガが滑空し至近距離まで肉薄する。
殺意を孕んだ二刀の切っ先が、逃げ場を失ったレーシェの胸元へと迫った。
(まずい、避けられない。悔しいな——まだ、何も終わらせていないのに)
レーシェは己の死から目をそむけるように、瞼を閉じた。
「レーシェッ!」
エンジは自らの防壁を即座に解除する。
濃密な灰色の煙塊を、シューガの視界へピンポイントで集中的に叩きつけた。
「……今度は目眩ましか。下らん」
視界と呼吸を突如奪われ、シューガの手元がわずかに狂う。
その刹那を逃さず、エンジは死に物狂いで地を蹴り、傷ついたレーシェの身体を抱え込んで間一髪で救出した。
「ありがとう、エンジ君」
「貸しにしといてやる。埋め合わせは今度でいいぞ」
「あなたって、こんな時でも変わらないのね。なんだか馬鹿らしくなってきちゃった」
レーシェは胸に手を当て、大きく息を吐き出す。
「よし、もう大丈夫」
毅然と顔を上げる彼女の眼には、もう恐怖の色はなかった。
シューガは苛立ちとともに炎翼を大きく一打する。
爆ぜた突風によって、エンジの煙はあっけなく吹き散らされてしまった。
「随分と小賢しく立ち回る……実に鬱陶しいガキどもだ」
視覚を取り戻したシューガは、炎翼による強烈な推進力を得て地表へと滑空する。
地表数センチを浮遊しながら、高速かつ変則的な軌道で縦横無尽に疾駆し、二刀流と炎翼を交えた猛烈な近接格闘を仕掛けてきた。
ガギィィンッ——エンジは薙刀の柄で交差する刃を受け止めるが、重い打撃と灼熱の熱量に押し込まれる。
猛攻は続く。
空中を変幻自在に動き回るシューガに対して、保っていた間合いが徐々に崩れ始めた。
シューガは浮遊したまま旋回し横薙ぎを躱す。
そして炎翼の一撃でエンジの脇腹を叩き割った。
「ガハッ……!?」
「エンジ君!」
血を吐きながら膝をつきかけるエンジ。
続けて追撃が迫るが、レーシェが割って入り受け止める。
後ろに控えるエンジを守るため、必死に体を張って前面で刃を受け続けた。
(このままじゃ……二人まとめてやられる……!)
レーシェは咄嗟に、手にした自身の双剣をシューガの顔面へ力任せに投げつけた。
キンッ!
シューガは易々と自分の得物でそれを弾き飛ばすが、思考はレーシェの不自然な行動に一瞬鈍った。
武器を手放すという行為はシューガにとってあり得ないことだったからだ。
「エンジ君、今のうちに私の影へ。——影属性・初等理術 『秘蔵する影』」
その刹那、レーシェは影を広げ、エンジの身体を自らの影の中へと滑り込ませる。
彼女の真意は、シューガの意識を誘導するための、精巧な揺さぶりだったのだ。
そしてシューガの怒涛の間合いから一目散に距離を取り、穴の反対側の壁際へと退避した。
秘蔵する影——自身の影に物質を収納・保管する理術。
「味方を助けるために得物を手放すとは、随分と大胆な賭けに出たものだ」
「ええ。おかげさまで、命を拾えたわ」
「お前たちの悪あがきにも、そろそろ飽きてきた。これで終わりにしてやる」
シューガは冷酷な表情を浮かべ、再び上空——電撃の網蓋の直下へと跳躍する。
空中に静止した彼は両腕を掲げた。両掌の間に集約されていくのは、穴底全体を跡形もなく爆砕・消失させるであろう、巨大な火炎弾。
逃げ場のない狭い深穴の底に、完全なる絶命の予兆が二人を包み込んだ。
シューガの頭上で膨れ上がる、灼熱の太陽もかくやという光塊。
穴底の石畳が熱量で赤く爛れ始めた瞬間、影から抜け出たエンジが口元の血を拭う。
(あれを食らえば確実に死ぬ。今の状態で、あいつのところへ行けるかは五分五分。阻止できる確率は、さらにその半分以下だ)
冷や汗を垂らしながら策を巡らせるが、思考は空転するばかりで一向に結実しない
。刻一刻と、残酷なまでに時間だけが過ぎていく。
「ここまで、なのか……」
「エンジ君。これが終わったら、デートしてあげる」
「は?」
あまりにも突拍子のない発言に、エンジの頭が一瞬真っ白になった。
「お前、何言って——今がどんな状況かわかってんのか、バカ」
「むっ、失礼な。死ぬかもしれないからこそ言ってるのよ。少しくらい、生きて帰ろうって思えたでしょう?」
エンジは見た。
軽口を叩くレーシェの手が、ほんのわずかに震えていることを。
それは彼女が虚勢の元気を装い、エンジを——そして自分自身を——奮い立たせるための、精一杯の鼓舞だった。
「……慣れないことしやがって。確かに、ここが墓場になるのはごめんだな。お前も、まだやれるか」
「うん。武器ならまだ、いっぱいあるからね」
レーシェは影から新たな双剣を取り出す。
エンジはそれを見て、口元を歪める。
「なら、俺の言う通りにしろ」
「何か閃いたの」
「ああ。最高にいかした作戦だ。大逆転と行こうぜ」
「ふふっ。いいわ。その大逆転とやらに、私も付き合ってあげる。エンジ君」
レーシェが不敵に笑う。その笑みに応えるように、エンジは全精力を振り絞って理術を解き放った。
「——『朧煙界』!」
視界を完全に奪い去る超高密度の白煙が、深穴の内部全体へ爆発的に充満する。
「なにッ!?」
光を失い、巨大火炎弾の照準を狂わされたシューガが焦燥の声を上げた。
その煙の中を、黒泳で縦横無尽に駆け巡る影がある。レーシェだ。
彼女は煙が晴れきる前に、自身の影の中へ密かに保管・蓄積していたあらゆる予備の剣や暗器を、一気に引き抜いた。
「持てるだけ持ってきて正解だったね!」
影から飛び出す無数の刃の嵐が、上空のシューガへ向けて怒濤の勢いで射出される。
ガンガンガンッ!
シューガは予期せぬ刃の散弾を自らの剣で必死に弾き返すが、その衝撃によって巨大火炎弾の練成を完全に阻害され、練り上げていた炎が音もなく霧散していく。
さらにレーシェは黒泳で側面を這い上がり地上から天井近くへ到達。
シューガの上方・背後という絶対の死角から、双刃を振り下ろした。
「そこかァッ」
シューガは背後からの強襲に全神経を研ぎ澄まし、振り返りざまに二刀でそれへ応戦・迎撃を試みる。
それこそが、エンジの描いた罠であった。
(かかりやがったな……!)
先ほどシューガ自身が弾き落とし、穴底の地面一面に散らばっていた無数の剣や金属片。
エンジは煙操作の理術を極限まで応用し、気流と煙の力学的散布によって、地に転がる無数の金属刃を一斉に垂直へと立ち上がらせていたのだ。
「突き上がれッ!」
エンジの怒号とともに、地面に転がっていた無数の刃が一斉に奔流と化し、無防備なシューガの足元から頭上へ向けて、真下から襲いかかった。
上空からのレーシェの強襲と、下方から突き上げる無数の刃——逃げ場を完璧に塞がれたシューガ。
しかし、まだ討ち取るには至らない。
「炎翼よ、爆ぜろ」
追い詰められたシューガは、自らの背にある「炎の翼」を意図的に自爆・破裂させた。
凄絶な爆風と爆炎の衝撃波が全方位へ炸裂し、下方からの刃とレーシェの追撃を強制的に相殺・回避する。翼を自ら破壊し、激しい爆風の余波を浴びながら、シューガは地上へと墜落していった。
ドォンッ!
着地の衝撃で体勢を大きく崩したシューガ。
その落下地点で待ち構えていたのは——完璧な着地を決めたレーシェと、逆側から挟撃の間合いを詰めるエンジであった。
「これで終幕だよ!」
レーシェの声に宿っていたのは確信。
「笑わせるな。この程度で勝った気でいるとは、片腹痛い」
「勝った気?違うな。勝利宣言だ。決着をつけてやる」
エンジとレーシェが同時に踏み出す。空気を震わせるほどの気迫。
正面から受けて立つシューガ。
至近距離から放たれるレーシェの双剣。側面から、長柄武器特有の間合いを活かして繰り出されるエンジの突き。シューガの防御をかいくぐったそれは、彼の肩に確かな傷を刻んだ。
しかし、この場にいる誰一人として、その一撃を意にも介さない。
「攻撃の手を緩めるな。全力を振り絞れ」
エンジの腹の底から搾り上げた叫び。
レーシェの双剣、エンジの薙刀——絶え間なく注がれる連続攻撃に、さすがのシューガも疲労を色濃くにじませていく。
体に傷が一つ、また一つと増えていく。それでも、失われることのない戦意だけが彼を支えていた。
「いい加減、くたばりやがれ」
正面から、エンジが全精力を込めた薙刀の一撃を振り下ろす。
シューガの咄嗟の防壁を、薙刀の質量が力任せに打ち砕く。
同時に背後から肉薄したレーシェの双刀が、無防備となったシューガの急所を深々と穿った。
バキィッ!!
凄まじい打撃音とともに、シューガの構えた二刀が根元から叩き折れる。
「カハッ……敗因は……俺の……慢心だったか……してやられた」
シューガは大量の血を吐き、壁面へと激しく叩きつけられると、そのまま力尽きるように崩れ落ち、静かに意識を手放した。
暗く静まり返った深穴の底。
天井の網蓋から漏れ出る電撃の青白い光芒線が、倒れたシューガと、満身創痍のエンジ・レーシェの姿をひっそりと照らし出している。
荒い息を吐きながら薙刀を降ろすエンジと、双刀を軽く振るい血を払うレーシェ。
「エンジ君」
レーシェが嬉しそうに歩み寄る。
「おっと」
エンジは崩れ落ちる自分の体を支えられ、レーシェの腕に背を預けた。
「全身打撲に、数か所の火傷。この程度で済んだのは幸運だろうな……もう、指一本動かねえ。ほんと、情けない指揮官だな俺は」
レーシェはエンジを地面に横たえ、その頭を自分の膝の上に乗せる。
悪戯っぽく、エンジの頬をつついた。
「おい、やめろ。何するんだ、くすぐったい」
その反応に、レーシェはくすりと笑う。
「死地を乗り越えたんだって、ようやく実感が湧いてきたよ。あたしたちはここで離脱だけど……アインちゃんたちなら、心配いらないよね」
「ああ。信じるしかない。今の俺たちには、それくらいしかできねえんだ」
二人は視線を交わすした。まだ戦い続けている仲間たちに、思いを託して。




