狂い咲く盤面
倉庫でボージュが糸の切れた人形のように頽れたことが蘇る。
数刻という時間は、その記憶を薄めるにはあまりに短すぎた。
港湾街に忍び込んでいた生臭い湿気は、夜が更けるとともに色を失い、今はただ冷たい沈黙だけが石畳の上を這っている。
決戦の舞台は、港町の外れ、丘陵地にうずくまる古城の廃墟だった。
崩れ落ちた石造りのアーチが、獣の折れた牙のように闇へ突き出している。
風化した城壁は月光すら拒み、黒々とした影の塊となって沈黙を守っていた。雑草と瓦礫に埋もれた広場
——その最奥に、地下迷宮へと続く出入口が、飢えた獣の喉のように暗く口を開けていた。
『黒い錨』。構成員およそ二百。
麻薬を街の血管に流し込み、人々の理性と暮らしを内側から蝕んでいく犯罪組織。
捕らえたボージュの記憶を、シュナンが理術で削り出したその断片から、拠点の在り処とボスの居場所が浮かび上がった。
地下迷宮は港町のいたるところに隠し口を張り巡らせ、まるで街そのものに寄生する根のよう思える。
本来ならボスは日ごとに潜伏部屋を変え、追手の目を欺く。しかし、今夜だけは違う。
シュナンの理術が、古城に隠された出入口の目と鼻の先にある一室へと、確かにボスの気配を繋ぎ止めていた。
「——全隊、配置完了」
古城の影に潜むエンジの傍らで、ハクラが囁く。
感情という余分な色彩をあらかじめ削ぎ落としたような、透明な声。
彼女の華奢な掌に灯る朱色の光——幻晶宝珠が、闇に散った全小隊の意識を一本の糸で繋いでいる。
「そうか」
エンジは腕を組み、瞼の裏にアルセリアの立体地図を広げた。
駒の一つ一つを、指先で撫でるように冷徹に検分していく。
迷宮の全ての出入口が判明していない以上、街に点在する隠し口をしらみ潰しに張るのは愚策。
戦力を薄く伸ばせば、敵に各個撃破の隙を与えるだけ。
だからこそ、エンジが描いた盤面は「点」ではなく「街全体を封じる面」
——海側と山側にそれぞれ五十人、外部への逃走と密航の芽を根こそぎ摘み取る布陣だった。
そして、アジトへ切り込むのは、エンジ自ら指揮する七十人。
薄い唇の端が、わずかに持ち上がる。
詰み。頭の中で、その二文字が静かに響いた。
これまでの、あまりに順調な進み具合、自覚のない慢心——その全てが、この一手に集約されている。
負ける道理はどこにもない。エンジはそう信じて疑わなかった。
「作戦、十秒前——カウント開始」
ハクラの主核晶を通じ、カウントダウンが全隊員の脳裏に染み渡っていく。
廃墟を支配する静けさは、弦を限界まで張った弓のように張り詰めていた。
——そして、その弦を断ち切る、轟音。
夜の腹を殴りつけるような重低音が、地面ごと空気を震わせる。
エンジは弾かれたように駆け出し、傍らに横たわる崩れた石柱の残骸へと飛び乗った。
ルカも一拍遅れてそれに続く。
瓦礫の頂きから見渡す港町の各所——中央市場、住宅街、第一港湾区——から、夜空を赤黒く炙る火柱が次々と噴き上がった。
「な——ッ」
エンジの思考が、その瞬間、完全に停止する。
その一拍、ルカの世界からもすべての音が消えた。爆音の残響も、仲間のざわめきも、潮騒すらも。
あるのはただ、自分の鼓動だけ——耳の奥で心臓が殴りつけるように打ち、こめかみの血管が脈打つ音だけが、やけに大きく、やけに遅く響いている。
夜を食い破る炎が、まるでスローモーションの絵画のように瞳に焼き付いた。
——刹那が、終わる。
音が、堰を切ったように戻ってきた。
鼓膜を裂くような咆哮、幾重にも重なった悲鳴が、潮風に乗って一気に押し寄せてくる。
『黒い錨』の構成員たちが市街地にばら撒かれ、無差別の放火と暴動を解き放ったのだ。
石柱の上から見渡す中央市場の方角、燃え盛る屋台の炎を背に、大きな影が小さな影を庇うように覆いかぶさる——そんな輪郭が一瞬だけ浮かび上がった。
逃げ惑う群衆と噴き上がる黒煙に、その影はすぐに呑み込まれて消える。
ほんの刹那、炎が描いた影絵にすぎなかった。
その光景が、ルカの網膜に焼きつく。
『外郭部隊より緊急! 市街地各所で同時多発暴動発生、市民が襲われている!』
『海側・山側、包囲を維持できない——救援を、救援を回してくれ!』
幻晶宝珠越しに、悲鳴に近い報告が次々と重なり、押し寄せる。
「……敵が、動いただと……?」
血の気が、エンジの顔から音もなく引いていく。寸分の狂いもなく組み上げたはずの「完璧な盤面」が、内側から軋み、崩れていく音を彼は確かに聞いた。
(こちらの情報が漏れている。内通者か。いや、違う、麻薬の取引は行われたんだ。あり得ない。だが、待て。取引の情報源は、末端の一構成員だった。アジトの全容もボスの顔すら知らないはずの下っ端が、幹部の行動を知っていた。おかしい——最初から、おかしかったんだ。)
嵌められた。
視界が一瞬、赤く滲む。舌打ちのような呼吸が漏れる。
敵は最初から包囲網の存在を察知し、市街地暴動という無差別の陽動を仕込んでいた。
外郭を食い破るためだけの、市民の命を賭け金にした一手。
自分が組んだ盤面が、そのまま無辜の市民を危険に晒す引き金に変わった。
指先が細かく震え、焦点の定まらない瞳が虚空を泳ぐ。
後悔と自己嫌悪という名の毒が、喉の奥から静かに這い上がってきた。膝から、力が抜けていく——
その肩を、硬く逞しい手のひらが掴んだ。
「——落ち着いて、エンジ!」
ルカの声が、鼓膜を殴りつけるように現実を押し戻す。
「……すまない……俺の……見落としだ。もっと、慎重に事を運んでいれば……」
「嘆かなくていいよ、君だけの責任じゃない」
ルカはエンジの目を正面から射抜いた。それには、揺るぎない熱がこもっている。
「作戦は失敗した。なら僕たちは、なすべきことをしなきゃ。僕たち《オーダ・リロジア》の責務は、市民の安息を守ることでしょ。そして、この状況を打開するのは君の役目だ。指示をくれ、指揮官」
その一言が、凍りついたエンジの思考に火を放った。
彼は肺の底まで息を吐き出し、乱れた前髪を乱暴にかき上げる。
渦巻く後悔を奥歯で噛み潰し、指揮官の顔を——冷徹な仮面を、もう一度被り直しす。
指先にはまだ、震えの名残がわずかに残っていた。
それを握り込んだ拳の中に押し込め、エンジは一度だけ、深く目を閉じる。
深く目を閉じる。開いた時、そこにあった眼差しに迷いはない。
「ハクラ! 全隊へ通達だ!」
主核晶に向かって、迷いのない声を叩きつける。
「作戦を変更する、外郭の封鎖を解除! 包囲部隊は、すみやかに市街地の暴動の鎮圧と民間人の保護へ回れ!」
『突入は……決行するの!?』
宝珠越しに響くのは、切り込み役であるアインの声。
緊張と興奮の入り混じった、鋭い問い。
「ああ。だが、こちらからも人員を送る。残りは予定通りアジトを制圧する! 敵の狙いは、時間を稼ぐことだ——思い通りにいかせるものか!」
言い切ったエンジの視線が、鋭くルカを射抜く。
「ルカ、お前は鎮圧に行け。これだけ統率の取れた動き、必ず先導者いるはずだ。——見つけ次第、叩き潰せ」
「了解——必ず遂行するよ」
短く答えたルカの声には、もう先ほどまでの震えはなかった。
網膜に焼きついたあの影を思い出すたび、恐怖は不思議と力に変わる。
守るべきものが見えた今、迷う理由はどこにもなかった。
街を覆う悲鳴と爆音を背に、ルカとエンジはそれぞれの戦場へと駆け出していく。二つの背中は、瓦礫の坂を蹴って、瞬く間に闇の向こうへ溶けていった。狂い始めた盤面の上で、いまだ勝敗の見えぬ戦いの火蓋が、静かに、しかし確実に切って落とされた。




